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ワルめーら@Terryのブログ一覧

2011年04月30日 イイね!

爆睡を終えて(笑) ~胡蝶の夢から考える~

爆睡を終えて(笑) ~胡蝶の夢から考える~
ゴールデンウィークになり、皆さんそれぞれが楽しんでいるご様子。
いいですね。実にいいことです。
特に私の周りでは、長距離ドライブを満喫されている方が目立つような気がします。
これまたいいですね。千キロでも二千キロでも、どんどん走ってしまいましょう。
応援しております!

本日の私はといえば、近所の温水プールで泳いでこようかなと思ったのですが、準備を万端に整えたのち(水着・ゴーグル等)、なぜか眠くなり、見事に寝てよう日になりました(笑)
何かの夢も見た気がするのですが、よく思い出せません。
なにやら、今みんカラで書いている状況のほうが夢なのではないかと思うくらいにエネルギーを充填していました。

ここで「胡蝶の夢」のお話を思い出しました。
ご説明いたしましょう。
中国の荘子という人物がある時、自分が蝶になって羽ばたいている夢を見ていました。いいですね。私も羽ばたいてみたいです。
夢の中では自分がよもや荘子であるとは思っておりません。蝶だと思い込んでいます。
目が覚めたあと、はてこれは夢だったかと気づく荘子。しかし、もしかしたら今、荘子として存在していることが夢であって、蝶が荘子の夢を見ているのかもしれないなと感じるというお話です。
このお話が主張したいことは、
形こそ違えど、どちらも同じ自己であることに間違えはない。だから、万物は絶えず変化していても、本質においてはどちらも何にも変わらないのだぞといったことになるようです。

私もおおまかにこの見解に賛同しますね。形は絶えず変化します。
学生のときに、夏休みが終わると急にデビューしてしまう人とかいましたよね(笑)
急に派手になって服装が変化したりして、何があったんだろうというくらいに外見は変化している。
しかし、その人物自体は夏休み前も夏休み後も、○○さんという点では、何ら変化していないのです。夏休み前の○○さんの魂も、デビュー後の○○さんの魂も同じものであるはずです。
牽強付会にいえばそうなのです(笑)

だから、私はどんなに変化があったように見えたとしても、その内部の核となる部分には何ら変化が生じないと考えています。
自分の本質とは何だろうかと自分自身に問うときがあるかもしれません。
しかし、私はその本質がどんな形であるにせよ(たとえば、お金持ちで頭のいい私という姿が、自分が把握している自分の姿だとします・笑)、その本質は変化しないのだから、どんな状況にあろうと、それはそのときの最善の形態なんだと思うようにしています。
カメレオンがその環境に応じて色を変化させるように、私たちもその時々に一番都合の良いように形を変化させている。
ただし、カメレオンがカメレオンであるという事実は変わらないように、私という自己はまったく変わりません。

なので、今日爆睡していたのも、それは私にとって最善だったのだろうと私は思っています。いわゆる自己正当化です(笑)
しかし、そういう風に思えたとき、人はとても強くなれると思いますし、より自然に
ありのままに生きることができるような気がします。
自然にありのままとは、自分の本質に沿った調和した生き方ができるということです。
いついかなるときも最善なんだなという認識を持つといいですよ!








Posted at 2011/04/30 22:50:55 | コメント(0) | トラックバック(0) | 思索 | 暮らし/家族
2011年03月18日 イイね!

原発ってエレファントマンじゃないかなって思うのよ

原発ってエレファントマンじゃないかなって思うのよわざと原発を擬人化してみる。
いままで、東京などは福島の原発によって、その豊かな経済生活を歩んできたといっても言い過ぎではないと思う。
原発を人間だと想像してみると、なんだか可哀想に思えてこないか。
いままで献身的に東京を含んだ関東の人々の豊かな生活を献身的に提供してきたのに、今ではのけ者にされてしまう。
普段から無視されて(注目されず)、ようやく注目を集めたと思ったら避けられる(放射能の拡散)。
映画「エレファントマン」のことが思い出されてきた。

そういう意味では、祖母の「家に留まる」という台詞も、ごくごく全うではあるし、一人の人間の覚悟として大いに評価している。むろん、命を懸けて被害を食い止めようとしている男たちがいることについては筆舌に尽くしがたいほどに感動し、感謝している。
しかし、同時に原発に対しては大いに感謝している面があって、ちょっと複雑だ。
原発への感謝は今も変わらないのだ。

昔、祖父と福島の原発に見学に行ったことがある。
祖父は原子力エネルギーには賛同する立場で、「原子力発電があるから、電気を大量に供給できるんだ」なんてことを話していた。あるいは私の記憶違いかもしれないが。
実はその時は祖父の見解にはあまり賛同できなかった。原発設置自治体への補助金も期限があるということだし、水力や火力その他で補えないだろうかと考えていた。思えば早熟な小学生だった(笑)
さらに思えば、筆おろ(以下略

しかし、一連の原発に関する事柄(「事柄」とのみ記させてもらう)を通じて、私は実は原発に非常に感謝しているということに気づいている。
今までスルーというか意識もしなかったけれど、実は自分たちを支えてくれている大切な縁の下の力持ちがいたという認識を、少なくとも私は取り戻した。
時計の針を今から、祖父と原発を見学しにいったときに戻せば、私の心情はかなり違うものになっているはずで、祖父と見解を異にすることはないかもしれない。
仮定の話。

命あっての物種ともいう。それに喫緊に原発の危険を防止しなければならない。
それはわかるのだけれど、私には当事者感がない(ある意味、当然だが)。
むろん、今までさんざん書いてきたように自分の足場をまだ固めることが重要で、どういう選択を取るかはまさに人それぞれで、各々の選択を批判し合うのは無意味であると思う。

うーん。自分の足場というのを改めて考えてみると、私はスタンドの行列に急いで並んだり、米や水を急いで確保するという行動原理は私の中にはないのだ。いや、そうしている人々に対し、何ら批判をしているわけではないのだが。
話を戻す。自分の足場についてだった。当座は自分自身が冷静になり、家族や近所と互助しあうことだろうか。
そんな風に思うと同時に、白状すれば私は原発の現場に足を踏み入れたいと思っていたりもする。祖父母に会いたいという感情ではなく、なんといったらいいのだろうか、エレファントマンたる原発と、被害拡散から守る人間たちの崇高な営為というのが、どういう風に対峙しあっているのか、そういうことを見てみたいと思う。
ある種のジャーナリズム精神なのかもしれないが、そういう空間内に入ったときに、私の中にある原発を擬人化してしまう心情と、人間の崇高なる行為を感じる心情がうまい具合に統合されるような気がする。

ゴジラもかつては水爆によって生じた悪の存在であった。それが今では正義のヒーローになっている。
原発はヒーローというよりは、縁の下の力持ち的な性格を帯びざるを得ないだろう。しかし、せめて「ありがとう」と原発の内部で声をかけてあげたいとも思うのだ。
それと死に美学は求めないと以前に述べたけれど、どこかでタナトスが持ち上がってくる自分もいる。
ただ、今の私は永遠の生を信じている(真言宗の檀家だが、仏教徒ではない。といって無宗教でもない。ならなんだって話だが)。
だから、肉体的な消滅を軽視するかというとそうではなく、昨年は健康を害していたから初めて肉体の尊さも理解できた。今までは健康そのもので感謝することを忘れていた。肉体よりも精神だと思っていた。
しかし、今は違う。身体を大事にしたい。
けれど、どこかでエレファントマンの原発はエレファントマンゆえに、怖いものではなく、優しさそのものだから、接吻の一つでもしてあげたい、なんて気持ちも生じるんだよね。

さ、一服すっぺ(-。-)y-゜゜゜
明日はみんカラ友達の記事を通じて知った雑誌を探しにいきたいし、久しぶりに90年代の国産車を写真を通じてでも見てみたいな~
あっ、ウチの愛車が90年代のしかも初頭のときのクルマだった(笑)
やはり身近なものに対する感謝というのは、思考のベクトルを通常と違う向きに変えると生じるものなのかなぁ。

※いまや懐かしきスターレット。場所は高田馬場の契約駐車場。

Posted at 2011/03/18 02:48:15 | コメント(1) | トラックバック(0) | 思索 | その他
2011年03月16日 イイね!

人はそれぞれ。ありのままに過ごします。 ~地震発生からほぼ一週間を経て~

人はそれぞれ。ありのままに過ごします。 ~地震発生からほぼ一週間を経て~
さて、先だって私が記したブログに、想定外に多くの「いいネ!」機能を付けていただきました。ありがとうございます。
今回もまた震災そのものとは、あまり関連のない事柄を書き記します。

【人はそれぞれ】
人間それぞれに、それぞれの感情があるからこそ、受け止め方も異なるのも当然。
この当たり前の事柄を再認識しようというだけで、私は震災に関する一連の考え方・表現のどれも等価に等しく、これが良くてあれがだめであるなんてことはありません。私の書いた事柄に賛同してくださる方もいれば、そうでもない方もいる。
それは当然ですし、私は自分の考えていることを書いたまでですので、評価は求めません。まあ、評価をいただいたほうが嬉しいですが(笑)
ですので、こうした違いを受け止めて、他人の見解を見聞すれば、それほどに不快になるということはないと思います。不快になり批判したとしても、それは少なくとも災害そのものの解決とは無関係であるということは繰り返し述べておきます。
関東では米や水が不足していますが、米以外の食料ならいくらでもありますし、水道水や他の飲料で代用することも可能でしょう。
むろん、不安を補うために買い溜めされることは否定しません。それこそ人それぞれです。しかし、思考を別の視座から眺めれば大したことはないなと構えることができると思います。
これは私の考えです。人はそれぞれです。

【情報選択について】
あまたある情報でも結局のところ、取捨選択するのはご自身です。情報のソースの真偽について検討するのは最終的にご自身ではないかなと私は思います。
明らかに偽りの情報や確定的な情報というのもありますが、どちらを選択されるかもご自身ではないでしょうか。
デマや流言に流されるなと述べている人がデマや流言を流すなんてこともあるでしょう。
このように述べると解決の糸口が見つからないように思えますか。
報道も通常のバラエティなども放送されつつありますが(関東地区)、判断力が鈍っているなという方は、たまにはテレビを消してみるのも手でしょう。ネットから少し遠ざかるというのも手でしょう。
頭が冴えわたると、不思議と直感のようなものが生じてきます。これは科学的な証明はされておりませんが。
リラックスしていい気分になることで、どの情報を選択しようかという自分なりの勘のようなものが浮かび上がることがあります。
もしも、情報の混乱にまごついていらっしゃるのならば、逆に情報をいったん遮断して、自分の、内なる自分を信じてみるのも一考に値するかと思います。
私の提案もあくまで情報の一つです。
選択されるのはご自身です。

【ありのまま】
私は以上述べた、人それぞれという根本認識と情報選択の自主性という二点をわきまえていれば、物質的な損傷はともかくも、ご自身の足場に立って、周囲を冷静に見渡せるように思っています。
簡単なことです。
普段しているように思考・行動すればよいのです。
それができないほど不安であるならば、無理はしないで自分のできる範囲のことを考え、行動すればよいのです。
焦る必然性も不安になる必然性もありませんが、そうなってしまっても自己嫌悪になる必然性も同様にありません。ありのままでいいと思います。
明日の勤務に備えるもよし。ブログを書くのもよし。買い溜めをするもよし。
誰のせいでもなく、また自分を過度に責めることなく、無理に善意になる必要もなく、すべてはありのまま。
人間存在がどうしてこんなに多様なのかについて思いを馳せれば、少なくとも自由主義国家に育った我々は、人間の価値観の多様さについて、本当は理解しているはずですし、情報の多様さを判断する目も養っているはずです。
安心してありのままでいられるのがよいと私は思っております。

【私はといえば、、】
上に書いたとおりなのですが、今少し補足いたします。
ここからは震災と関連したお話になりそうです。いや、上記文章もやはり関連したお話になってしまいましたが、基本的には自省録のようなものです。

まず、情報の一つとして、放射能汚染拡大の可能性も出ていますね。
関東直下の地震も否定できません。
これらも情報の一種ですね。
私はといえば、私はこうした事態が現実化しても留まります。
いや、避難の指示が出れば別です。
その是非はともかくとして、私は自分が育った地にいるつもりです。
それで今の生を全うしたとしても、それはそれでいいと私は考えています。
人間は自分の選択を自分で選択するために生まれてきたのだと私は思います。
ですので、私は命はとても大切だと思いますが、その命の使い方というのは私自身の選択によるものでありたいと願っています。
あくまで私の考え方です。
別に死に美学を感じているわけではありません。
私は依然として、問題解決に焦点を合わせております。つまり、生きることに焦点を合わせています。
解決に至る過程において、どのようなことが起きるかはわかりませんが、私は通常通り起きて、仕事をして、休んで、一服して、飯を食べて、寝ます。
視座を変えれば、この世で生を受けて肉体的な生命を完了させることは必然。
その後の魂などの存続については私は信じていますが。それはともかくとして。
人それぞれなんです。ありのままなんです。
私はその信念のままでいたいと思います。
今回の状況を通じて、余計にその感を強くしました。
まあ、こんな感じの自省癖は私のお友達にはおなじみですが(笑)
たまには自分の肉体の最終場所というものをどういうところに置きたいのかを表明しておいてもいいでしょう。
真面目に書きましたが、本人は鈍感なので、別段、強い余震が来ようと汚染が規定値以上になろうと、どうってことはないですね。
肉体が終焉しそうだったときもありますが(詳細は省きます)、今こうして生きていますし、その分だけ私は執着を手放せるのかもしれません。
以上、私見でした。





Posted at 2011/03/16 00:54:45 | コメント(0) | トラックバック(0) | 思索 | 日記
2011年03月12日 イイね!

不謹慎や自粛という空気・言説に関して ~東北地方太平洋沖地震後のみんカラを拝見して~ ※地震後覚書含む

不謹慎や自粛という空気・言説に関して ~東北地方太平洋沖地震後のみんカラを拝見して~ ※地震後覚書含む
昭和天皇が病臥されておられるときに、自粛ムードが蔓延していました。
時はきらびやかなバブル景気でしたが、あの煌々とした秋葉原の街灯りがまったくなく、びっくりしたことを覚えています。各地で自粛なるものが催されていました。
今の状況はそれと似ているような気もします。

私個人は、実際に被災されている方々・地域以外の人々が、何か明るい話題(地震と関連のないオフ会の事柄など)をアップロードしても、まったく構わないと思います。
オフ会の楽しい出来事をアップロードすることと、被災状況に関する哀悼の意や問題解決に互いに関連性はありますか。
こういう場合、被災者の方々の心情を思いかばって、自粛なりをするという心情・原理に基づいていると思います。
それはそれでいいと思いますが、それって、本当に被災者のためになるのでしょうか。被災者の方々が、楽しいブログを見て、「貴様らこんちきちょう」なんて思うだろうからやめましょうなんて思っておられるのでしょうか。
楽しい話題を自分の心の赴くままにアップロードすることにより、「不謹慎」だとか「自粛」という名のもとに、断罪されてしまう構造。

人はそれぞれです。状況もそれぞれです。
被災者の方々や被災者地域についての応援や情報提供はとても有意義で尊い行為だと思います。
しかし、過度に自粛だとか不謹慎だという風に、表現の幅を狭めるようにしてしまっては、どうしようもない。
仮に、自粛をして被災が解決されればそうすべきでしょう。
でも、自粛をして被災が解決されるのでしょうか。
被災に関する事柄と個々人の考えに基づくブログの内容は別個に考えるべきというのが私の見解であり、巷流行っている(?)タグについても同様です。

タグの付け方だって、そのブログ本文に関連のあるワードを付けるのが通常ですが、どうしても見てもらいたいときには耳目を引くタグを使わざるを得ない切実な状況もあるでしょう。タグ一つにしたって、そんな一義的に「このタグはけしからん」という具合に論じられるものではありません。
タグについて不快を覚えるならば、無視すればよいではありませんか。
無視をせずに批判をするから、ますます状況が大きくなる。
そして、その状況とは被災者救援とは全く関係ないものになりますよね。

たとえば、私には東北(福島が多い)に友人がおり、また先のブログでも記しましたが母方の祖父母が原発に比較的近い街にいます。間接的ながら生命の無事を確認しましたが、屋根が倒壊し水道が断水したということ以外は、現状もわからず、未だに直接的に連絡は取れません。
自粛をされるのも自由ですし、結構ですが、自粛をされようが楽しんでオフ会などをしてアップロードしようが、祖父母の状況とはまったく関連がありません。
この点について、よくよく考えていただきたいと思います。

人の意見はそれぞれです。ですけれど、不謹慎という表現によるブログへの弾劾やタグの付け方の不作法などの論議は、被災状況解決との関連性が見出せません。
ある種の外野の論議とみなされても仕方ないと思います。
むろん、再三申しますが、善意でそうしたことをされていることはよくわかります。
本当に人間というものは心優しい存在なのだということを再確認しているところです。しかし、一方で人間というのはいかなる状況においても、固定化した思考ではなく、もっと俯瞰的な視野で眺めなければいけないと思います。
被災された方々には余裕がないにせよ、みんカラを書いたり、閲覧している余裕がある方々はひとまず生命は無事な方々でしょう。
他人がどういったこういったということより、自分自身がどうするかということを考えてみてください。
「自分は何もできないから募金でもしよう」「被災者の悲惨はわかるけれどどうしようもないな」「家族の安否で精いっぱい」などなどご自身が現状無理のない範囲に軸足を置くべきでしょう。それは道徳的・倫理的に批難されるものではありません。
ゆえに、無理をして直接的な貢献をしようと思う必要はありませんし、現状はほとんどの人には無理です。

批判の応酬をされたいのならともかく、本当に被災について思い馳せるならば、ひとまずは他人の見解ではなく、ご自身がどうするかについて考えたほうが、まだしも実効的なような気がしますね。
特に感情的な表現をされている方は、問題解決とはかなり隔絶した場所にいるような気が私にはいたします。

【追記】祖父母の安否は母親が確認したものですが、詳しい事柄がわからないというのが現状です。そして、私は直接連絡が取れていません。余談ですが念のため。放射能云々もいまは現場に任せるほかないでしょう。化学物質が飛散するといった流言が出ました。放射能についての皆さまのご意見が流言と申すつもりはありませんが、もっと幅広い視点で見てみませんか。インフラも破壊された極限の環境にいて情報が錯綜しているとき、あなたならどんな処置をとりますか。
私たちは少なくもネットができるほど安全な環境にいて、東京の場合、余震の危惧はあるものの、東北地方の方々に比べれば、遥かに心理的余裕があります。

【震災後の都内の様子の覚書】
(3/13)在京キー局では、テレビ東京が震災報道以外の通常番組に移行を始めているようです。震災関連の情報はテロップにて流しています。津波情報のみはCM中でも表示されます。関東では私の知る限り、J-COMというケーブルテレビ局以外は震災報道一色だったので、新たに記してみました。別にここに価値判断を持ち込むつもりはなく、報道の経過と局ごとの報道姿勢の比較をしてみたかったまでです。
なお、東京MXテレビも通常放送に戻っているようです。
(3/13夜)
テレビ等でご承知のとおり、東京電力管内での計画停電が明日より始まります。
停電時間以外でも、できる範囲で節電をすればいいと思いますし、私たちがやれることでやりたいなと思うことだけを行えばいいのだと思います。
都区内でも計画停電があるようですが、地域ごとの詳しい停電時間はご自身にてご確認ください。
(3/14)
計画停電はいまのところ避けられた模様です。情報が二転三転しているので、わかりませんが、ゆえにこそ自分の勘を信じ、また自分をしっかり保ちたいと考えています。そして、再び私のできる範囲で節電等を行ないたいと思います。なお、都内の天気は本当に和やかな快晴で、いかにも春めいています。
(3/14夕)
東京区部某所にいます。食料品では米や水が売り切れの店舗が多いですね。水は自動販売機で購入すればいいでしょうし、野菜などはまだたくさんあり、安心です。トイレットペーパーも代用が利くでしょうし、かつてのオイルショックのときに比べたら格段に民度は安定しているかと。ガスについては、まだ給油をしていないので、ちらっとスタンド覗いただけです。価格はいつもと変わりませんが、混んでいます。相変わらず幹線道路の一般車通行量は多く、都内に限れば代替輸送機関がたくさんあるので、私には深刻に思えません。あくまで都区内一定地域についての私の主観的な感想です。当たり前にあったものに有り難みを持ついい機会かと私は肯定的に捉えています。
中部以西ではどのような流通状況なのだろう。東京にいると逆に中部以西の情報がわかりません。通常どおりであれば何よりです!
さらに追記。「何シテル?」にも記しましたが、いわき市在の祖父母と連絡がつきました。近隣から食料を頂き、本当に感謝しているとの旨の報を受けました。断水が続き、家屋屋根が崩落しているようですが、同じ市内の海沿い(小名浜など)で津波で亡くなった方々もいることですし、祖父母は恵まれていると思います。津波で亡くなった方々の遺族の方からも食糧の提供を得ているようです。相互扶助というのは素晴らしいなと思います。
なお、テレビで情報を得ているようです。少なくともいわき市の祖父母宅付近では被害は軽微のように思えます(他の地域との比較で私の印象ですが)。
(3/15)
予定がキャンセルとなり自宅。拙宅を含む地域では輪番停電は生じていない模様です。インフラが回復しだして、食料品やガソリンについて様々な懸念が評されています。過剰に溜めこんでも、仮にもう一度大地震が来て、家や自動車が倒壊したら元の木阿弥です。首都圏にはまだ余裕がありますし、中部以西地域の方々からの物品支援も期待できると思います。モノを循環させ、融通し合うという視点も大切ではないかと私は思います。もちろん、どんな感情を抱き、行動を取ろうとも、個々人の自由ですが。もっと幅広く俯瞰的な視野から考え、行動されるのが一番かなと私は思います。
(3/15午後)
関東地方でも通常の数十倍の放射能が検出されたようです(未確認情報ですので、どうか皆さまでご確認を)。お友達の方から早めに関東地方を出てくれというお言葉を頂戴しました。ありがたいご助言と感謝しております。しかし、もし、爆発が起きて関東に多大なる放射能が蔓延したとしても、関東の多大な人口が一斉に避難するというのは現実的ではありません。
いま大切なのはいつも以上に冷静になること。関東地方からの退避命令があれば従いますが、もし退避するときも私は高齢の方や子供を優先に退避させるつもりです。
私は頑健な若者です。こういう時にこそ、頑健な若者としてのお役目を果たすべきでしょう。むろん、これは私の意見です。冷静な対応をお願いいたします。
(3/15午後16時)
自宅前に置いてある愛車のエンジンをかけてみたいと思います。震災後から放置したままです。愛車も家族みたいなものですから。幸いなことに愛車内のガソリン量に余裕があります。道路状況が落ち着いているようなら、近隣を少し動かしてみます。お金の引き出しもしたいので(無論、徒歩でATMで行くことも可能な状態です)。給油についてはスタンドの様子を見て決めたいと思います。余裕がある様子なら給油させてもらおうと考えています(スタンドや地域によりまちまちなようなので)。いずれにせよ、まだレジャー用途としては使用できないでしょうが、スタンドに立ち寄った場合、その様子などを覚書として記したいと思います。
なお、洗濯物は念のため取り入れました。どちらにしてももう夕方ですしね。
では、皆さま心穏やかに今日もお過ごしください。
(3/15夕)
スタンドは軒並み閉店です。住まいの近隣に大きなスタンドがあり(八幡山シンエネ)、そこでは待たずにハイオクを入れることができました。
もっともスタンド沿いの道路で並びましたが、片側三車線あり、交通量が普段よりも少ないためか、交通に支障は出ていませんでした。
レギュラーは枯渇気味でした。レギュラー入荷は午後10時とのこと。
軽油も大丈夫です。
↑帰路(7時ごろ)、八幡山シンエネがまだ営業していました。一般乗用車も給油しているようです。委細はわかりませんが、ご確認はご自身にてお願いいたします。

次に食料品について。
ペットボトル水と芋焼酎とがセットになっている商品があり(もともとそういう商品ですよ)、焼酎好きなので一セット入手。
お茶のペットボトル六個入りの箱も買えました。一人一箱づつ。店内は空いており、非常に落ち着いた様子。
ただ、どこのお店も、水(ミネラルウォーター)や米がないですね。
水道や他の飲料を活用することで対応できます。うどんやそばならありますし、非常に安心です。
トイレットペーパーも探しています。これも節約やティッシュを使うなどして工夫です。
まあ何はともあれ、十分に食料はあります。また我が地域は平穏です。
以上、覚書でした。
とにかく、冷静にのんびりといきましょう。それが一番かと思います。
それとメディア放送はメディアを通じた目にすぎません。最終的にはご自身の判断力をしっかりさせましょう。私を含めて。
(3/15夜)
いつも独自のスタンスをとる「テレビ東京」が有り得ないフェラーリオーナーを訪問するというバラエティ番組(「ありえへん∞世界2時間スペシャル」内の一企画)を放映。オードリーや三輪明宏等が出演。個人的にはこういう番組を見たほうが安らぐし、面白い。普段はテレビを観ないけれども、ネットも含め、原発に関する報道一色の中だと安心する。
以上、個人的な意見を覚書として記す。
(3/15夜・10時半頃)
再び、強い揺れ有り。ただし、揺れの長さは先の三陸沖のものに比べれば短く、
倒壊もなし(まだ揺れているが)。静岡県震源の地震によるものだろう。東北震源の地震のすぐ後に到来した。テレビでの様子からすれば問題はなかろう。両親が現在、震源地方面に近いところに滞在している途上である。まあ、ケセラケラの精神でいるのが良かろうな。いい意味で地震慣れし始めている。
三陸沖当時の対応もそうだったが、どうも強い揺れがあっても落ち着いているのが私の性質らしい。そして、なぜか物事を記録したくなる。
ひとまず祈ることにしよう。そして、明るい気分でいよう。
以上も覚書。

Posted at 2011/03/12 20:51:06 | コメント(10) | トラックバック(1) | 思索 | その他
2011年01月03日 イイね!

いい気分でいること 指針は感情の快不快にあり

いい気分でいること 指針は感情の快不快にありいい気分で過ごすように私が勧める理由は、いい気分でいることがひいては、奥底にある自分(潜在意識下の自分)と調和している状態だと思うからです。
おそらく、いい気分でいるときは、この奥底の内面的な自分と現在の自分の考えが一致しているので快を覚えるのだと思います。

いい気分がしないというのはその逆で、内面的な自分、つまりは本当の自分の考えと現在思っている事柄が一致しないでいることを示しているように思われます。
だから、不快という信号を送って、今の自分が不調和であることを自分自身(潜在意識の自分)が自分自身(普段意識している自分)に知らせているのだと思います。
だから、私たちは自分の感情というものをもっと大切にすると良いと思います。

常にいい気分でいることが、もっとも気持ちがよいでしょう。
しかし、いつもいい気分でいられないときもあります。
しかし、その時に無理をしていい気分になろうとしても状況は良くならないでしょう。
なぜならば、現在の自分の悪い状況であるというマイナスの状況からいい気分になりたいという欲求を出しているので、感情のエネルギーの強さでいえば、プラマイゼロで相殺されるくらいでしょう。つまり、状況は変化しないということです。
それよりも、心地よい気分になれないときは、できる限り別の事柄を考えて、心地よくない気分を感じている時間を減らしてあげたほうが、感情を調和させていく上では楽な方法だと思います。
たとえば、ものすごく不快な出来事に遭遇したときに、

「私はこんな状況は嫌だ。こうしたい」

と思うのは、現在の状況を負として認識しているので、不快ではない状況を望んでいるだけに過ぎません。もちろん、ひたすらに不快な状況に関して不快に感じ続けるよりはずっとプラスだとは思います。

「たしかに、こういう状況は好ましくないけれど、この点に関しては好ましく思える」
「考えてみれば、こういう状況がずっと続くわけでもない」
「こういう状況になったが、ああいう状況になる可能性も過去にあったし、状況が今のままとは思えない」

こういう感じで、徐々に好ましくないものに焦点を当てるのを止め、少しづつ思考を
物事の好ましい側面に集中させるようにしたほうが良いでしょう。

思考をネガティブからポジティブに大転換する必要はないでしょう。徐々にでいいのだと思います。そして、ネガティブの中にもポジティブな側面を見出していく。そういう作業を繰り広げることで、いわゆる「難題」というものは、解決の方向に向かうものだと思います。
頑張る必要はありません。
ほんの少しだけ対象に対する認識の仕方を変えてみるように習慣づければいいのです。
一階から二階に昇るときに、なんとか跳躍して二階に行けないかと思う人はそんなにいないと思います。ふつうは階段を使って着実に二階に向かうでしょう。
思考に関しても同様で、ゆっくりと着実に思える方法が、結果的には問題解決の迅速で確実な方法なのだと思います。

Posted at 2011/01/03 04:03:30 | コメント(0) | トラックバック(0) | 思索 | ビジネス/学習

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「おや、LFAじゃないの。」
何シテル?   08/27 22:31
帝都東京の地を根城とし、四方八方と旅する行動力の塊がワタクシ、ワルめーらでございます。 東京から大阪くらいまで(往復で1000キロ程度)なら日帰りで行き帰りす...

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