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ワルめーら@Terryのブログ一覧

2010年08月16日 イイね!

魂考 ~終戦記念日を迎えて~

魂考 ~終戦記念日を迎えて~
新暦15日の旧盆が終戦記念日だということをうっかり忘れていた。
お盆が先祖の霊魂を黄泉の国から、この世界に一時的に帰り、そして霊魂達を慰霊したり鎮魂したり、記憶や心の問いかけという形で対話したりする期間に、
ポツダム宣言を受諾した日本が終戦という形で、大東亜の戦いの幕を下ろしたことは周知の事実だ。

日本には死者の魂を祀るという習慣があって(日本だけではないけれども)、特に慰霊に関する真摯な感情というのは、民族の美徳として称えてよいと思う。
戦犯も無垢の人民も、死すれば等しく霊魂となり、そこに善悪という価値観は持たずに慰霊する。こうした習慣は日本に根強く残る怨霊を慰撫する思想(宗教?)と結びついているような気もするのだが、今はさておく。
怪力乱心を語らず(つまり、死後のことや神々の存在については言及しない)のお国柄であるチャイナを中心とする儒教圏と異なるのがこの部分で、勿論、儒教でも祭祀(特に先祖への祭祀)を非常に大切にするが、誰彼問わずに死者の魂を慰撫し、手厚く祀るという発想がない。

靖国参拝を政治的な視点以外で見ると、こうした価値観の相違に双方が気づいていないだけの問題のような気がする。だから、謝罪や反省をすべきだとか中韓はけしからんといった一面的な感情に流されやすいのだと思う。
互いの価値観を認め合うというお題目の割には、価値の相対化が欠落しているように思える。
しばしば、この手の単純な割り切りの議論が論壇などでも散見されるので、アホらしくなる。といいながらも、私も過去に割り切り議論の文章をいささか媒体に表現していたので、私もアホとも言える。

さて、東条英機は戦犯だとか、東京裁判は戦勝国によって裁かれた一方的なものだといった事柄を論じることも良いと思うが、私自身はさして興味がない。
戦時前・戦時中・戦後の民衆の社会に対する思いに関して興味がある。
色々な年配の方々に聞いてみたが、本当にバラバラで「この時代の日本の民衆はみんなこんなことを考えていた」という結論を単純に導きだせない。
勿論、個別的な経験により、当時の社会に対する見方が皆それぞれになるのは当然のことだし、むしろ自然というべきかもしれない。
ただ、20世紀の下半期に生まれた人間として、私は出来うる限り大東亜戦争のときの民衆の気持ちというものを様々に見知っておきたいと思う。
それが私の仕事のような気がしている。

霊魂慰霊の話から、だいぶ話が逸れた。
黙祷などの瞬間も崇高で、魂と対話する格好の瞬間だとは思うが、私自身の資質としては、あまり形式(語弊があるだろうか)に拘らず、楽しむときは楽しみ、死者を慰霊すべきときは、何も語らずに魂との対話を交わすほうが性に合っている。
そして、そのほうが死者の魂も喜ぶような気がしている。
生きている者の楽しい姿こそが、魂存在にとっての慰霊行為であるように思う。
先ほど、怨霊という話をしたが、それは生きている者が死者の怨霊化を勝手に恐れたというある種のマスターベーションのような営為であって(霊魂自体は私も本物かどうかは知らないが、見たことや声を聞いたことはあるが、そういった霊魂実在論に関する話柄はさておく)、黄泉の魂というのは、生きている人間を優しく見守る存在だと思うし、だからこそ感謝の意を表して、私達は慰霊をするのだと思う。

先の大戦で亡くなった無数の魂への慰霊と鎮魂。
このこと自体は素晴らしいが、あくまで生きている側の感謝表明であって、
魂となった存在はこちらが何もしなくとも、必ず見守ってくれると私は信じている。
そして、その魂に戦犯も民衆もない。等しく、存在としての崇高な魂だけが実存しているのだ。

※画像は伊勢神宮。イメージ画像としての意味合いとして用いた。
天皇がどうのこうのといった事柄に関心はない。




Posted at 2010/08/16 10:09:23 | コメント(1) | トラックバック(0) | 思索 | その他
2010年07月28日 イイね!

外房の楽園 安房日蓮の天才 魂 自意識

外房の楽園 安房日蓮の天才 魂 自意識
灼熱の太陽が肌を小麦色にする。
遥かに広がるか大空も海もひたすらに蒼く、まるで生き物のような入道雲はその輪郭のはっきりとした白さで、大空や海と美しいコントラストを成す。

九十九里浜の砂浜はひたすらに続く。
その広漠さは、凡そ私たちの想像を絶するほどのもので、感情は昂ぶり、自然法爾で漫然と冷静に感情を維持することを困難にさせる。
釈迦がこの大海の広がりを、ジーザスがこの蒼き世界を、もし見ていたら人類に普遍的に通用する大宗教を構築できただろうか。
ここは然程に楽園なのである。
人類が形而上的にあれやこれやと思想を練る必要もない。ただただ、高揚とした気持ちで自然と相対し、楽しめればいいのだ。
楽園とはそういうものだ。

法華経至上主義の日蓮法師は安房(千葉県南部)の出身だ。この果てしない楽園の中で、法華経の不立文字(言葉では伝達できないというほどの意味)の思想を元に、法難を喜び(なぜなら、法華経を広める過程においては法難が必ずあるという考えがあったから)、さらなる布教に邁進したという心境が理解しがたくなる。

日蓮は自我が強く、日本人離れしていて私は好きだが、教えについてはあまり賛同できない。私は仏教ならば、念仏や禅の方に親近感を持つ。ま、ウチの檀家は真言宗だけど(あんまり関係ないか)。やはり法華経至上主義に経ってしまうと、多様性が否定されてしまう感が否めない。折伏という思想が生じるのも止むを得ないと思うが、私はそこまで普遍的な価値を広めようとは自身思わないので、やはり日蓮上人の偉大さは認めつつも、共感はできないのだ。

それはともかく、今は昔の房総と現在の楽園のような房総を比較するのは愚ではあろうが、これほどまでに空や海が果てしない世界に囲まれながら、内面的思惟を深め、実践に移すというのは余程の天才なのではないかと思う。
こんなのどかな風景が広がる暖かい土地で、思索を深めていくとうのは日蓮自身の才能というほかないだろう。
という具合に私なぞは勝手に決め付けてしまう。
当時は当時なりの時代背景があったし、海で遊ぶなんて習慣が無かったのは百も承知。

しかしながら、この蒼い天界を仰ぎ見ると、日蓮の思索と実践の凄まじさと違和感が同時に去来してくるのだ。
もっとも、常日頃そう思っているわけでもないが。

閑話休題。
そういえば、この間、祖父の三回忌に行けなかったことを思い出した。
自動車が不具合になったのと、身体の調子が悪かったのだ。
物凄く近くまでは向ったのだが、ついぞ行くことができなかった。
おっとっと。日蓮から墓参と話が大きく飛んでしまうがお許しあれ。

人間には魂がある。私はそれを信じている。
しかし、死人の魂はお墓にだけにあるとは思えない。
私が祖父なら祖父のことを思いはせるときに、その魂は私と合一するのだと思う。
だから、私は墓参りのように半ば儀式的に執り行うようなものに出席するのは好きではないと思っていたら、案の定、三回忌には参加できなかった。

ただ、これは不見識かと思うが、真言宗の伽藍は私には興味深く、坊さんのお経もなんだか面白い。空海のエキスが濃密に入っているのだろう。そういう意味でお寺には行くのだが、弟や祖父の骨が墓に埋められていることが事実であっても、お墓参り自体が至上目的ではなく、どれだけ故人に思いを馳せて、対話するかが重要だと思う。そういう意味では日蓮の徹底的な法華第一主義というのは私には共感できる面があるのかもしれない。
なぜなら、私は世間で言われるように決まった日時にだけお墓参りするという決まりごとが大嫌いだからだ。墓参は自分が行きたいときに行けばいい。
私はそう思う。因みに、私は唯物論者ではないぞ。唯物主義については勉強したが。

このブログをうまくまとめるのはかなり難しい。
九十九里の果てしない天空は自由さを象徴している。
日蓮の一途さは彼の堅固な彼の意思だ。
私は両者を等分に愛する。
だからこそ、ふと墓参について思い馳せたときに、九十九里と日蓮法師のことが思い浮かんだのかなと思う。



Posted at 2010/07/28 22:42:34 | コメント(1) | トラックバック(0) | 思索 | クルマ
2010年07月25日 イイね!

「あなた」の禁忌(タブー)

「あなた」の禁忌(タブー)不思議に思うことがある。
日本語では対面した相手のことを指す「あなた」という単語がある。当然、ご存知だろう。
無論、英語のyouに該当するということは誰でも知っている。
しかし、実際例において、面と向かって、相手に「あなた」と言う場面はほぼ皆無なのではないだろうか。
そういう意味ではyouとは、その単語に秘められた概念において実は大きく異なるのではないだろうか。
なぜといって、頻繁に使えないからだ。二人称の極めて基本的な単語なのに、まるでタブーのように言語使用が封じられている。何故か。

日本語は主語を省略することが多い。
例えば、自分の事柄を述べるときに使うはずの「わたし」という単語が、省略されがちのように思える。

「あなた」や「わたし」という言語表現が明確にあるのに、実際に使用する機会が少ない。これは一体どういうことなのだろう。
ここでは主語の欠落はさておき、「あなた」の不思議に焦点を絞ることとする。

日本というものの社会的特徴や大まかな民族的性向
を炙り出す上で、「あなた」の使用が実際には、極めてなされがたいということは、有力な分析対象になるのではと「私は」思う。

私たちは、「あなた」に代用するものとして、相手の名前を使用する場合が多い。「◯◯さん」とか「◯◯くん」とか「◯◯部長」とか。
そうそう、この場合に興味深いのは、親しい間柄同士にはファーストネーム(下の名前)を用い、フォーマルな場面では、ラストネームというか、名字なりその人の肩書(店長・課長・先生・お花屋さん等)を用いる。
このことは何を示すのだろうか。

明確な回答はないが、いくつか想定できることはある。今は伏せよう。
なぜなら、「わたし」は「あなたたち」からのコメントが欲しいから(笑)
Posted at 2010/07/25 20:59:03 | コメント(0) | トラックバック(0) | 思索 | その他
2010年07月05日 イイね!

ご心配をお掛けしました ~土曜日にいかなることがあり、今現在いかなることを考えているか~

ご心配をお掛けしました ~土曜日にいかなることがあり、今現在いかなることを考えているか~
網戸のままにしておくと横なぐりの大雨が部屋にまで入ってくる。
そんな雨の猛威も泡沫のごとし。今は実に静謐な空気だけが漂ってくる。
日が暮れるまで眠っていた。

さて、今回は土曜日に起きたアクシデントを記しておかねばならないと思っている。
それは一体何か。以下に記す。

土曜日に神保町で本を購入した。自動車で向かった。
帰路、内堀通り(内回り)を走っているとき、ステアリングを握る手の辺りがおかしいなと感じた。
次第に朦朧としてきた気がしたので、自動車を別の通り沿いにて一時停止させ、まずは交通の遮断になっていることを知らせるため、警察に電話。
なお、救急車の手配はしなかった。
別段、昏睡状態になりそうな訳でもなかったし、じきに落ち着くものと判断していたからだ。

ただ、次第に呼吸が荒くなってきて、手足が震えてきた。意識が遠くなりそうだったので、スケジュール帳のページを一枚破り、ペンをとって、状況を簡潔に記そうとする。しかし、なかなかうまく書けない。
運転席にいる以上はまず大丈夫だろうと思っていたので、このときの自分の状態というのを、数名の知人に現況を伝えることによって、情勢の客観化を図ろうとした。
が、今思えばこの論法というのは変だ。客観化を図ったことにならないだろうし、図ったところでどうなるのであろう。混乱していたと思われる。あの時の記憶をまさぐってみると、現況を伝播するという営みによって、自分の意識を明瞭に保とうする意図が働いていたのだと思う。
申し訳ありませんでした。

結局、両親や知人に助けにきてもらった。
この頃には状態が落ち着いてきていて、立ち歩いて公衆トイレに行ったりしている。
知人夫妻に愛車ごと病院まで送っていただいた。この恩は決して忘じないだろう。
本当にありがとうございます。

症状自体は、一時的なもので別段心配に及ぶほどのことでもないとのこと。
この頃には非常に落ち着いていたので、自動車で運転することに関しても許可を得ていた。
診断結果を述べてみよう。
さっそく失念してしまったが、○○症候群というものらしく、過呼吸の一種らしい。突然起こりうるものらしく、処方はいまのところないらしい。ストレスが原因で起こりやすいらしい。
以下、余談。
医師は非常に快く急患者(?)を迎えてくれたが、私自身は医学的知見により、あれやこれやと原因を特定されたり、判断されたりすることを好まないし、結局は自分自身が一番分かっているのだから、実のところ診断結果を真摯には受け止めていない。医師の誠実さに対する感謝と、自分が自分をどう判断するかということはまた別のものだろう。私はそのように考えている。

それはともかくとして、土曜日にこのようなことがあって、昨日の日曜日も多少、その残滓をとどめていた。
ここで、非常に不思議なのは土曜日にプリメーラのタイヤがパンクし(病院敷地内でテンパータイヤを履かせた)、日曜日にはリアライトが常時点灯してしまうというトラブルがあったこと。
確率的に非常に稀なことでもあるので、私は自分自身に対して何らかのメッセージが込められているのかなと思った。
知人の一人は非常に的確なことを述べていて、「車からのメッセージ」が今回の出来事を総括する前向きな言葉だと述べていた。その通りだと思う。至言である。

だから、私自身は今回の件はむしろ経験することによって、新たに認知できる事柄が内包されていたがゆえに、潜在意識が身体の異常という状態を生じさせたのだと思う。ゆえに、肯定的に現象を捉えている。

今後も運転を続けていくという意志はますます強まった。
つまりは、よほど運転が好きなのだろうという自分の核にある気持ちを再認識できたし、当然のように運転できることのありがたみを感じて非常に良かったなと思う。
また息を吸い、吐くことのできる尊さを知ることもできた。
自分自身を纏う肉体の大切さも改めて知ることができた。

さて、今後しばらくは慣らし運転という形で、運転していきたいと思っている。
鉄の塊を動かしているという自覚はあるが、私自身はそれでは塊を動かすのを止めようと思うよりは、塊を上手に動かすにはどうしたらいいだろうと考えるほうが自分自身の願望に合っていると考えたからだ。

「自分が望まぬ自体が起きたときこそ、自分を成長させる絶好のチャンス」であるといったような言葉を聞いたことがあるが、今回がそれに該当するのではないかと思う。ネガがあるからこそ、ポジがある。陰があるからこそ陽がある。世の中は概念が二つあるからこそ、自分が目指したい方向性がはっきりする。
今回の件は自身の願望をより明確にさせ、自身の成長を促すためのいい機会だったのではないかと思う。
そのようなことを考えている。

【画像】
神保町本屋街の裏手の路上コインパーキングにて。思えば、不思議な一日で、
探していた書籍が地元の私鉄沿線沿いにあると知ったが、自動車でなぜか向かい、そして在庫が無くなっていた。そこで、本屋街の神田神保町に向かうことにしたのだ。
Posted at 2010/07/05 19:53:58 | コメント(1) | トラックバック(0) | 思索 | 日記
2010年07月04日 イイね!

私にとっての信仰ってなんだろう

私にとっての信仰ってなんだろう
節目というのを私は意識しない性格なのだが、そうはいっても今日は祖父の三回忌に当たり、私も三回忌に参加することになっているので、多少は節目を意識する感覚が今現在している。
もっとも、三回忌の歴史を紐解くと、いかにも仏教の日本的受容・変容という感覚を禁じえないので、ひとまず故人を改めて思い直す時であるという風に肯定的に解釈したい。
祖父と弟の遺骨が納められているのは伽藍が壮麗な真言宗大谷派のまことに雰囲気の良い静寂なお寺で、玉砂利が非常に整然としている気持ちの良い空間である。
そんなお寺の本堂の伽藍の片隅に弘法大師空海の肖像が掲げられていたから、思わず写真を撮ってみたというのは昨年のことだっただろうか。
私は仏教をからかってみようという気は毛頭ないのだが、どうも好奇心が先に出てしまう。
正座をしてお経を聞いていると、どんなことを言っているのだろうかという見当を付ける。たまになんとなく意味が分かるときがあって、そんなときはすごく楽しい。そして、僧侶の挙措動作に込められた意味とは何なのだろうという具合に、いつも私は死者のことよりも、僧侶やお経や伽藍に目がいってしまう。

個人的には魂の存在というのを信じていて、仏教的な輪廻転生にやや親しみを感じる。人間は転生を繰り返すということはあると思う。ただ、転生を繰り返しながら、究極的には人間存在というステージよりも高次の段階に個々は向かうのだと思う。ただ、高次という言葉はあくまで綾であって、本来は高いも低いもないのだろう。便宜的に使用してみたまでだ。
なぜなら、この世界というのは既に誕生以来、完璧であって、そして未来永劫完璧だと思うからだ。そんな中で、なぜ人間が誕生し、育ち、生活を営み、死という肉体的な消滅を経験し、魂となり、転生し、更なる成長を志向するのかという疑問があるかもしれない。
ただ、私はその点については、およそこの世の中の人間が考えも及ばない法則性が働いているのだろうと信ずることで、深く詮議はしないことにしている。なぜなら、世界は既に完璧だから。どのような姿で世界が動こうとも、それは顕れ方の違いであって、完璧なものはいつでも完璧なのだ。
それでも、人間存在は刹那刹那に様々な経験を経て成長していくのだという風に思っている。

私はこの世界を誰が作ったかという「造物主」の存在を考慮しない。分かりやしないし、もし世界を構築するとすれば、それは個々人であると思う。つまり、世界は個々人の存在の数だけあり、その個々人の意識により、現実と呼ばれる世界が構築されるのだと思っている。だから、私は思考を大事にしている。自分が想念したことが、やがて現実となって現れてくると考えているから。実際に私は思ったことがすぐに実現することが多く、そうした自分の経験上も踏まえて、そう信ずるようになったのかもしれない。

さて、それでは私にとって信ずること、つまり、信仰とはなんであろうか。
私は自分自身への信頼をまずベースに置く。自分自身を信頼しないで、他者を信頼できるだろうか。信用ならない自分が解釈する他者イメージなんて当てにできるだろうか。なので、私は自分を大切にする。
それぞれの人々がこうした自分というのを持っていると考えているので、私は他人も尊重する。
自分を大切にし、他人も尊重する。
つまり、自分の信念を大事にし、他人の信念を大いに尊重すること。
これが私の信条の根幹にあって、ゆえに信仰とは何かと問われれば、自分自身の無限性と他者の無限性への限りない親しみであるとでも言おうか。
いささか、上座部的な考えではあるかもしれない。つまり、信仰の対象というのを絶対神や阿弥陀仏といったものに置いていないのである。そういう意味では、私の信仰というのは、実は信仰ではなくて、強い信念なのかもしれない。
ただし、私は他者の協同・共存があっての自力=自分の存在基盤と考えている。上座部という喩えもいわば綾である。

祖父も似たような性格だったような気がする。宗教や信仰といった内面的な探索には無関心だが(だったと思う)、こうした営為を否定しないし、葬儀や宗教的祭礼にもきちんと参加する。彼はそういう人であった。

およそ言葉の響きというものが、無限なる宇宙空間にまで作用するものであれば、以上の言葉を祖父へ投げかけてみたい。

Posted at 2010/07/04 02:28:24 | コメント(0) | トラックバック(0) | 思索 | 日記

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