2011年11月30日

最近の夜は仕事の電話が多いなあと思う今日この頃。
飲んでますけれども、すぐに素面に戻れるというのが私の長所であります。
今夜だけで二軒の電話が来ました(笑)
それはともかくとして、
現在、ダンロップのパワープラスⅢというテニスラケットのストリングス(テニスラケットのうち、ボールを当てる箇所)の交換をお願いしています。今回替えようとしているものはなかなか面白いストリングスなんですよ。
http://www.tennis-shop.jp/fs/tennis/4931946182993
ストリングスがじぐざぐ形状になっており、それがバネのような働きをするという画期的な製品で、もしかしたら今後のディファクトスタンダードになるかもしれません。私はそうにらんでいますが。
私のようにスピンを多用したいなと考えているプレーヤーにはお勧めでしょう。
特にバックハンドのスライスがきちんと決まればかなり気持ちいいと考えていますので、この商品には前々から注目しておりました。
仕上がりは来月の初旬(二日辺り)ですが、今から楽しみにしております。
その間は、プリンスのラケット(グラファイトツアーというモデル)でテニスを楽しもうと考えております。
上記プリンスのラケットのストリングスの張り具合はやや固めで、固いと一般的にはボールが飛びやすいと呼ばれていますが、そうとも限りませんね。
あくまで一般的にそう言えるというだけのことでしょう。
特に、プリンスのラケットはグリップ部が長いので、力を必要とします。ですので、重要なのはストロークです。当てれば飛ぶというものでもありません。
こういう辺りがテニスの面白さでもありますね。
ラケット次第で色々と特性が異なるので、様々な対応法を考えなければなりません。
しかし、それが楽しいのですね。
自動車と同じですよね。
硬めて安定性を保つのもいいですが、硬めすぎると力の逃げ場が無く、公道では走れたものではありません。
この辺りのバランスを自分で決めるというのが最高に楽しいのだと私は思います。
今年の秋にテニススクールのアルバイトに応募して落ちましたが(笑)、うーん、より修行を積んでみたら、もう一度チャレンジしたいなとも考えています。
もっとも、我が職場でも色々と変化がありそうで、それはそれで楽しげなのですけれども。
Posted at 2011/11/30 22:22:13 | |
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スポーツ | スポーツ
2011年11月30日
およそ現代盛んになっている日本仏教の開祖といえば、北陸やら西日本の出身者が多い。
その中で、日蓮宗(法華宗)の開祖と呼ばれる日蓮上人は関東の安房(千葉県南部)の海沿いの街(天津小湊)の漁師出身というのだから誠に異色である。
さらに異色として驚嘆すべきは、日蓮の思考というのは日本社会においてはあまり成立しえない異質な型の性格だったように思えることである。物凄くエネルギッシュで、いささか述べてしまえば、他の何よりも自分が正しいのだという自負感が強い。自身の出自をセンダラ(インドのカーストでもっとも低級とされた)と称し、むしろそれを誇りに思っていた。このアクティブさには見習うべき点があるなと私は思う。
なお、日蓮は漁師の子であった。
私自身について言えば、日蓮よりも親鸞や空海に安心の念を覚える。それは私のなかにも類型化した日本人気質があるからであろう。
日蓮はイエスに似ているような気がする。布教の道筋やその後の弾圧などがどこかで似ている。
当時の大方から見れば、実に奇矯な言辞を述べ、一時は弾圧される。何せ、幕府に向かって、法華経を信じなければ、蒙古(モンゴル)が襲来するとわざわざ述べたくらいにエネルギッシュで情熱的な人間なのだ(蒙古襲来、いわゆる元寇は確かに歴史的事実として日蓮の予言通りにはなるのだが)。
このような日本社会の異端児である日蓮はいっとき追放される。しかし、のちに罪を許されて、山梨の身延山を本山とする。
天気が良ければ房総半島まで眺めることができる。
かくして、そういう日蓮の激しい生き様が実に激しい一神教の文化的な雰囲気を醸し出しているような気がしてならない。
彼は「法華経」という経典を至上のものとした。ゆえに、法華経を中心とした仏教世界を構築しない限り、ダメであると実に明白に述べた。彼は当時流行っていた念仏に対しては反対の立場を取っていた。
ゆえに、『南無妙法蓮華経』というお題目を唱えることで、「法華経に絶対的に帰依します」という宣言を行うことで、彼は人々は救われると考えていた。
この点でも、日本人離れしているような気がする。
エネルギッシュで行動的だが、反面で許容性に欠けるような気もしないでもない。
現在では創価学会が特に日蓮正宗の系譜を受け継いだ新興宗教として大きな影響力を持っている。
周知の通り、学会がこれほどにエネルギッシュで行動的な団体なのは、やはり日蓮宗の系譜を継いだものゆえなのだろう。そういう意味で私は日蓮を高く評価する。学会の組織力や団結力も見事である。
日蓮のような人間ゆえにこそ、我が日本のなあなあで押し切る和の構造をいとも簡単に脱却しえたのではあるまいかとも思う。
私自身は特定の信仰を持つ人間ではないが、日蓮は偉大な人物だと思う。
さて、そんな日蓮が暮らした実に穏やかなリアス式海岸の外房の景観もお見せしたいが、まずは動画にて、天津小湊よりやや内陸部に位置する紅葉をお見せしたいと思う。思想と気候に関しては関連性があまりないというのが、日蓮を通じた私の見解である。
私ならこのような素晴らしい紅葉を眺めているならば、凡そ既存の仏教界に刃向かうことはなかったであろうと思う。
いずれにしても、日蓮は偉大である。

Posted at 2011/11/30 20:41:00 | |
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日帰り旅 | 旅行/地域
2011年11月25日
皆さんは課題をラクに片付けたいですか。それとも、刻苦して課題を克服したいですか。
私はラクに課題をこなすほうが好きですね。
そのために有効な方法論があれば積極的に採用していきます。
今日は仏教のお話しをしましょうか。
仏教の教えの要諦が、悟りを開くことで輪廻転生世界から解脱することにあるということを聞いたことがあるかもしれません。
しかし、どのように悟りを開けばいいのでしょう。
皆さんはわかりますか?
釈迦の教えが濃密に残っていたと思われる原始仏教(現在のインドでは仏教はほぼ廃れてしまっています)にせよ、日本に輸入された奈良時代の仏教でも、その方法論というのは、例えば修行を積んだりとか経典を読んだりといったかなりハードルの高いものだったのです。
それでも平安時代になり最澄や空海が最新の仏教の教えを持ち帰り、どんな人でも救われる(解脱できるのだ)ということを説きました。
しかし、どうすれば解脱できるのでしょう。
いや、解脱までいかなくとも死後に浄土と呼ばれる世界に行くことは可能なのでしょうか。
彼らより少し後の時代に、源信というお坊さんがいて、観想念仏という考え方を提唱しました。観想とはイメージすること。つまり、イメトレで浄土世界を意識すれば、人間はそのまま浄土に往生できると説きました。
これはかなり簡単ですね。
しかし、実際に浄土(源信の場合、阿弥陀如来がいる極楽浄土を涅槃の先の世界としました)を想像することが、情報も拙い当時の社会において可能だったでしょうか。
源信の教えは貴族階級に受け入れられます。
例えば、有名な宇治の平等院鳳凰堂(鳳凰という名が気にかかるところですが今はさておき)は、あの有名な藤原道長の息子の頼通が、極楽浄土に擬せて造営したものとされています。
となると、イメージを想起する機会すらない一般大衆は如何にして救われるのでしょうか。
幼いときに夜討ちに合って、父親(おそらく母親も)を殺された少年がいました。
彼は遁世しようとしますが、その秀才ぶりに目を付けた僧侶の配慮で比叡山で学習することになりました。
彼はめきめきと頭角を現します。
彼の法名を法然といいます。
彼は仏教史上類い稀なる教えを展開します。
「南無阿弥陀仏」(阿弥陀仏以外に何もない)と唱えるだけで、誰もが(女性ですらも)極楽浄土に行けるのだという教えを編み出しました。
これを唱名念仏といいます。
このような教えは、仏教では法然と後述する親鸞の宗派にしかありません(ごくごく小規模なら、当時の中国にも法然の教えの基となる教えがあったようです)。
ただただ唱えるだけでいいのです。
これを他力本願といいます。
念仏を唱えることで、自動的に極楽浄土に行く。だから他力なのです。
法然の思想は斬新でしたが、それゆえに反発に合い、彼は土佐に流されます。
が、彼はそこで滅入ることもなく、晩年に京都に戻ることを許されました。
なお、法然が開祖の宗派を浄土宗といいます。
ちょうど、法然が土佐に流されていたときに、門下の僧侶で越後に流されていた人物がおりました。これが親鸞という人物で、これほど画期的な人物は他にいませんね。
基本的には法然の唱名念仏を踏襲しています。
しかし、法然はどちらかといえば秀才肌の人間で戒律という決まり事も同時によく守っていました。例えば、女人と接しないといったことですね。
親鸞は自分にはそういうことはできないとはっきりと表明したのです。
そして、仏教史上初めて公然と妻帯したのです。
実はそれ以前にも隠し妻のような感じで女人と交わる僧侶はいました。隠語でこのような隠し妻のことを大黒様と呼びました。お酒のことを般若湯というようなものです。
さて、親鸞は「南無阿弥陀仏」によって誰もが救われるのであれば、論理的に考えても妻帯しようがなんだろうが、皆が極楽浄土に行けるはずだとも考えていたのでしょう。
彼の有名な言葉があります。
「善人なおもて往生を遂ぐ。況んや悪人をや」
善人ですら浄土に行けるのに悪人が浄土に行けないはずがないという意味です。
これを悪人正機説といいます。
よくよく考えると変な気もしますよね。善人ですら救われるのに悪人が救われないはずがないというのは考えてみればおかしいですね。
親鸞は悪人と自分を意識しているからこそ、念仏に励む心が生じるのだと考えました。だからこそ、自分の悪を意識している悪人こそが浄土に行きやすいと考えたわけです。まあ、これは私の理解ですが。
そういうわけで、親鸞を開祖とする浄土真宗は世界中の仏教のなかで、唯一妻帯を認められた宗派となりました。
明治時代に入り、我が国では仏教徒の妻帯が認められるようになりますが、浄土真宗以外の僧侶で妻帯する人たちが多くなったのは戦後になってからという話を聞いたことがあります。
「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、極楽浄土行きは決定。
なんともラクではないですか。
そして、私たちは戒律に縛られる必要もないのです。なにせ、念仏を唱えれば極楽浄土に行けるのですから。
こういう他力本願な教えというのは私好みですね。
ウチの檀那寺は真言宗(空海が開祖)なので、万人の浄土行きは認めるものの、念仏を唱えるだけですぐに浄土に行けるという発想はありません。
空海は万能人で私は尊敬していますが、私は親鸞的な人間味のある、しかしながら、いや故にこそ滋味のある生き様や発想が大好きなんです。
上野の東京国立博物館で法然と親鸞に焦点を当てた特別展示を開催しています。
お気が向かれたら足を運ばれるといいと思います。


Posted at 2011/11/25 23:19:52 | |
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