プログレ…その名前を意識したのは、1997年の第38回東京モーターショウ。当時まだ9歳だった関西住みとしては、モーターショウなんて夢のまた夢…という印象で、この時期の自動車雑誌を、食い入るように何度も見返したものです。
確か当時…driver誌、まだ5日−20日と、2週間誌だった頃です。ちょうどNAロードスターがNBへとFMCされる直前の実車初公開の記事が載っていたような。それが東京モーターショウ特集号でした。
振り返ればこの年のトヨタのコンセプトカーは、ほぼ市販を前提にしたモデルが多かったのです。MR-Sも随分と現実味を増していましたし、その後ランクル100としてデビューするグランドクルーザーなんて市販姿そのもの。
またこの当時“クロカンRV”の帝王ランクルの新型モデルと同時に、この場97年のTMSで市販前提のコンセプトモデルとして登場したのが、成り立ちを乗用から発展させた凛々しい顔つきの新世代RV…そう、それがハリアーでした。この車が世界に与えた影響の大きさは、その後の欧州系メーカーの動きを見れば一目瞭然。ある意味でロードスターに次ぐ、日本が“自動車文化としての”エポックメイキングを果たしたそんな1台でした。
そんな中登場した、こちらも市販を前提にしたトヨタの新型FRサルーン。見た目はちょっと着飾ったコンフォート?と思われがちながら、トヨタが本気になって“ポストクラウン”を考えた、小さな高級車としての“王者の挑戦”…。
全長4.5m、全幅1.7mは完全に5ナンバーサイズ。そこへ2.5L・3.0Lのストレート6を搭載…しかしながらホイールベースは当時の100系マークⅡより50㎜も長い。コロナサイズで直6のFR、けども室内…リアシートやトランクスペースはマークⅡを寄せ付けないほど広く、エクステリアやインテリアのクオリティは、それこそクラウンをも飛び越え、セルシオ…はたまたセンチュリークラスにまで手が届きそうなハイレベル。まだバブル前後のハイソカーブームの名残が残っていた日本のハードトップセダン群に対し、当時としては実に先進的・革命的な試みでした。
勿論、そこにはメルセデスCクラス(W202)やBMW3シリーズ(E36)の影響があったのは確実であり、ようやく時代遅れだった日本車が思想において追いついた…という言い方もできるかもしれませんが、その中に秘めた志は本当に高く、そこにあえてクラウンという絶対的な王者を率いるトヨタがあえてニッチに挑戦した事に、その挑戦の偉大さがうかがい知れます。まさにそれは、日本の“バンテンプラ・プリンセス”の生まれた瞬間だった…。
1998年5月、“NC250”は「ニューロン」という名前で登場予定だったが、その後市販前に再び変更となり、フランス語で“進歩”という意味の「プログレ」と名付けられて登場。フロントやリアはもちろんの事、お馴染みのトヨタマークがいっさいエンブレムとして用いられていなかった事からも、トヨタの本気度が感じられた。
しかし…このプログレ、決して大ヒットとはならなかった。振り返れば、理由は様々あるでしょう。このボディサイズでクラウン並に価格が高く(それでも、利益率は格段にこちらの方が少なかったと噂されている)、スタイリングも地味目で分かりやすいステイタス性には乏しかった。
今でも人気の高い、当時のトヨタセダンの中では本当に革命的にカッコよかった2代目のトヨタアリストがほぼ同時期の登場というのも、タイミングが悪かった一因かもしれません。
さらにはここからトヨタのセダンイノベーションは、やや迷走し始める事となる。1年後にAE86の再来と言われたアルテッツァ、2年後にはプログレをベースとした初代クラウンを彷彿とさせるオリジン…このあたりまではまだ良いとして、マークⅡはセダンボディとなり3兄弟制度を無くし、チェイサー・クレスタ後継といわれたトヨタ製イタリア風味?のヴェロッサ、直接的なプログレ後継と言われつつ晩年まで併売されたブレビス…ある意味でトヨタの焦りによる乱発があった事は否めない。
折しも、この21世紀初頭頃といえば、第2次ミニバンブーム。初代オデッセイから火がついたこのバトルは、この時期ちょうどオデッセイが2代目へ、イプサムが3ナンバー化、エスティマがFF化してガチンコ勝負を挑み、その下からはステップワゴン・セレナ・ノア、はたまたストリームにウィッシュ…市場を席巻するミニバンたちに、セダンがなんとか生き残ろうともがき苦しんでいた結果だったのかもしれない。
そしてその後2003年、「保守の王様」だった肝心要のクラウン自体が、直6と別れを告げグッと若々しいスタイリングで大変身…そう、あの「ゼロクラウン」が登場する。いまでも振り返れば、トヨタセダンにおけるプログレの次の革命は、このクラウン自体の大変身だった。乱立したモデルが、少なからず、保守的クラウン思想への挑戦、アンチテーゼだったものが、その基準となったクラウン自体が大変身を遂げた時点で、その存在意義は限りなく薄まってしまった事となる。そして結果、このクラウンは当時大ヒット。そう、それこそ、現行型のように、見てくれだけの子供騙しのようなデカいグリルを張り付けたりピンク色に塗って話題を集めたりするようなものではなく、このゼロクラウンは本当に高級車としての立ち振る舞いを考えた、素晴らしい変革でした。
(そう、今のクラウンも、中身は基本このゼロクラウンがベースになっている事こそが、この時の革新の進歩度合を物語っています)
そんな背景の中、いまいちスタートダッシュに乗り切れずブームを生み出せなかったプログレですが、それら激動の時代の中でも、しぶとくしぶとく、売れ続けた。このサイズ、このクオリティ、プログレでしか味わえない魅力。プログレからプログレへ乗り換える方もかなり多かったとか。落ち着いたそのスタイリングも、ある意味でモデルライフが長くなっても鮮度が落ちにくい事も幸いしたからかもしれない。
そして登場からなんと9年(!!)…2007年まで延命し続け、プログレは3年も後に登場したブレビスと共に生産を終了する。大きなヒットに恵まれはしなかったものの、利益率で言えばあまり孝行されるモデルでないにも関わらずこれだけ長く作られ販売されてきたという事は、ある意味でマスは小さいけれども固定的でプログレファンが存在し、 “プログレだけじゃダメ!”という層を生み出し、長く愛され続けられていた証拠といえるかもしれない。
少し乱暴に言うと、初代プリウスが登場した少し後にデビュー、当時まだ軽自動車は旧規格。レクサスが日本導入本格化されセルシオがLSへと変わってもまだ売られ続け、IS-Fがデビューした時にようやく生産終了…。
日産で言えば、R34スカイラインがデュアリス登場まで売られていた。
ホンダで言えば、ロゴベースのキャパが2代目フィット登場まで売られていた。
マツダで言えば、NBロードスターがさらに2年延命して売られていた。
こう書くと、このプログレの過ごしてきた9年間が、激動の自動車マーケットの中いかに凄い事かが、お分かり頂けるだろうか。
そんなプログレを、この2014年に試せる時がきた。オーナーはあの元ベスモの正岡局長、NC300のiRバージョンである。雑誌を食い入るように何度も読み返していたクルマバカの9歳の少年は、時が経ち26歳に。…クルマバカだという事に、寸分の狂いもなくそのまま成長したところが、よかったのか悪かったのか。苦笑
字数が多くなってきたので、次の更新でその印象をより詳細にお伝えしていきたい。
Posted at 2014/06/30 20:22:53 | |
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トヨタ | 日記