
トヨタ博物館企画展「What’s JDM?-世界が熱中する’80-’90年代の日本車-」
~公式紹介文~
JDMとは「Japan Domestic Market」の略で日本国内市場のことですが、
現在ではアメリカやイギリスを中心に日本車をカスタマイズしたり、日本国内専用車を輸入して楽しむ日本車文化のことをJDMと呼んでいます。
1980〜90年代、日本の自動車メーカーは世界トップの技術を載せることに挑戦し、電子制御、高性能エンジンなど、革新的な技術を次々と実用化していきました。これらの技術は、現在の自動車開発にも大きな影響を与えています。また、デザインの面でも、空力性能や視認性、安全性を考慮した機能美を追求したデザイン、シンプルでありながら個性を持つスタイリングは、今なお多くのファンを魅了しています。しかし、当時は海外で欧州車ほどの評価を得られず、技術者たちは悔しい思いをしてきました。
それから数十年が経ち、当時の日本車が持つ高い技術力、洗練されたデザイン、そして信頼性が再評価され、世界中の自動車ファンから注目を集めています。今回の企画展では、多くのファンを魅了し続けている1980〜90年代の日本車約10台を「当時の最新技術」「独自のデザイン」「小さな高性能」の3つのテーマに分けてご紹介します。展示車両は日本車の魅力をより伝えるべく、当館所蔵のものに加え、国内自動車メーカー7社と日本自動車博物館のご協力を得て、特別にご提供いただきます。この展示を通して、日本のクルマが持つ独自の価値、またクルマは日本が世界に誇れる文化になるという想いを、ぜひ感じていただければと思います。
・・・てなわけで、さっそく展示車を見ていきたいと思います。
第一部「当時の最新技術」
入り口にドーンと飾られているのはスカイラインGT-R。説明の必要も無いほどの名車ながら、敢えて技術的ポイントを挙げるならば「勝つための高出力を受け止めるFRベース4WDを市販化」という点に尽きる。速く走らせるためにE/Gを高出力化していくと、行き着く先はトラクション不足だ。このクルマより1ヶ月程度先に発売されたフェアレディZは日本車で初めて280psを達成したが更なるハイパワーを考えると後2輪だけに頼っていては早々に限界が訪れてしまう。そこで4輪駆動にスポットライトが当たった。
ラリー競技における4WDの有効性はアウディクアトロで証明され、ラリーカーを開発する各車で採用が進んだが、スカイラインGT-Rの場合、路面状況が良いサーキットが主戦場のモデルで4WDを採用したところに凄みがある。元は昭和62年に東京モーターショーに参考出品されていた日産MID4のために開発が進んでいた技術だ。本格的スーパーカーを目指して開発されたMID4の確信とも言えるテクノロジーはMID4が暗礁に乗り上げたあと、スカイラインGT-Rの為に磨かれていった。FRライクな操縦性を残したまま驚異的なパフォーマンスを発揮し、当時の試乗記でも911カレラ4が古臭く感じると言わしめた。
ケンメリ以来、16年ぶりのGT-Rの復活を飾るに相応しい内容だったこともあり、市場では歓迎ムードだった。ハコスカやケンメリのGT-Rをそのまま再現した車では無かったが、走るために高度な技術を織り込んだサーキットスペックのスカイライン、という枠組みに収まることでファン層からも「正真正銘、紛れもないスカイラインGT-Rである」と認めさせている。この車が発売された1989年は日本車におけるヴィンテージイヤーと呼ばれるがその中心にいるのはスカイラインGT-Rで間違いないだろう。
実はR32は
GTS-tだけでなくGT-Rにも乗ったことがあるが、ほんの僅かな時間であり、ホンモノだけが持つ迫力に圧倒されただけで終わってしまったので実際はほぼ未経験である。GTS-tだけでも相当な実力を持っていたので、凄いんだろなという想像の域を出ない。
JDMというトレンドの中でもマンガやアニメという日本初のカルチャーの影響も無視できない。車×マンガといえば私は父に買い与えられた「サーキットの狼」を連想してしまうし、アニメも子供の頃には「よろしくメカドック」の記憶がおぼろげにある。子供の頃、たまに連れて行ってもらったジャスコの二階のレストランでオムライスを食べながらよろしくメカドックの単行本を読んだなぁ・・・・という幸せな記憶もある。
ティーンエイジャーになり、「頭文字D」や「オーバーレブ!」なんかは同級生でも読んでる人が多く、私も後年「SS」を読んでいた。自動車をモチーフにしたマンガ作品が多かったのは、漫画を読んでいた若年層はまだ車が好きだと考えられていたから。そして作者の世代は読者層よりも上だったので間違いなく自動車に恋をしていた時代の人たちだのではないかなと思う。これよりあとの時代はインターネットと携帯電話が急速に普及し、若者の関心は“移動の自由”から“つながる自由”へと移っていった。これ以上無いというタイミングで80-90年代のスポーツモデルをモチーフにした漫画がヒットし、アニメ化もされた。
そしてマンガやアニメが海外に輸出される中に日本車が活躍する作品も海を渡って新しいファンを獲得した。1983年に発売されたこの世代のスプリンタートレノ「ハチロク」は開発当初はFFで企画されるも、膨大すぎた投資額を減らす為にクーペとバン・ワゴン系をFRのまま残して先代のコンポーネントや設備を利用するという後ろ向きとも取れる経営判断によって生まれた若者達への贈り物のようなモデルであった。
先代で4輪コイルサスとなったシャシーを使い、先代では採用できなかったラックアンドピニオン式ステアリングを採用した。さらに飛び道具として新開発の1.6Lツインカム16バルブE/Gを積んだ。ほぼ先代流用でありながら新しいE/Gを用意したのはファインプレーである。セリカXXやソアラなどに搭載された1G-GEの要素技術を下方展開したかのような4A-GE型E/Gの人気は高く、2T-G以降、ほぼ継続的にツインカムE/Gを量産したというトヨタの功績を引き継いだ。
展示車は貴重なAT車だ。スポーティモデルにAT!という驚きがあるが、スポーティな性格でありながら電子制御を取り入れることでスポーティな味わいとイージードライブも両立させようとしている。この一見、相容れない要素を両立させようとする愚直さが実にトヨタらしいと私は思う。本当に速さだけを追求しているわけではなく、この時代の新しい「スポーティネス」は「ファッション」でもあったのだ。
旧態依然のシャシーを持つために車幅が狭く、腰高でかっこ悪い。限界が低いなどと言われることはあったとしても身近なFRスポーツとしてハチロクはよく売れた。FFとなったセダンが販売で苦戦したため、FRのクーペがシリーズ全体の採算を救った。あの時代においては全てをFFにしない事が経営的に正しかったようだ。
現役だった40年前は経営的な側面で貢献したAE86だが、まさかそれが若者の自動車文化を守り、それが世界的日本車ブームの中心的な一台になるとは当時の誰しもが想像すらできなかったのではないか。
このクルマ「アンフィニRX-7」もマンガでよく描かれている。世界唯一のロータリーE/Gを積んだスポーツカーとして熱狂的なファンがいる。先代は「プアマンズポルシェ」という評が出ていたが、1991年にデビューした3世代目のRX-7は小型車枠を超えたことも手伝ってオリジナリティー溢れるマツダデザインのエキゾチックなスポーツカーになった。先代と同じ排気量の13B型REは255psにパワーアップを果たしてパワーウェイトレシオ5kg/psを達成することで自主規制値に届かなくとも軽さで闘うスポーツカーという実に玄人好みなコンセプトを採っている。
円熟期には280psまで出力を上げながら12年間生産されたこともあり、現役時代は目にする機会もそれなりにあった。簡単にFMCできないだろうなとは子供ながらも思っていたが東京モーターショーでは様々なロータリースポーツの提案が行われており後継を模索しているというのは伝わってきていた。
RX-7が排ガス規制がクリアできず生産終了となったあと、新世代の自然吸気REを積んだRX-8がデビュー。自然吸気ながら250psを絞り出すという4ドアセダンだ。RX-7とは名乗れなかっただろうが、これはこれで素晴らしい形でREを継承したなと私は思う。助手席に乗せてもらったことがあるが、何処までも回っていくような軽快なREは十分魅力的だったし、210ps仕様ながらレギュラーガソリンが使えるようにしたのも良心的だったと思う。RX-8は後席も広かった事から今後間違いなくクラシックカー的な価値も生まれてくるはずだが、スポーツカーとしての純度では2ドアのRX-7には敵わない。
現代でもMX-30用に発電専用のREが開発され、再びREスポーツらしきコンセプトカーが発表されるようになるとどうしても復活の期待が高まってしまう。それが実現するかどうかは別としても、REの火を消さずに守り続けていく姿勢もRX-7の価値を高めていると私は考える。「あの時代だからできた」というだけの名車ではなく、圧縮比が上げられずにどうしても燃費が悪いというREの宿命を抱えながらもマツダはREの研究を行い、少しでも改良を続けて技術を残そうとしている努力はブランド価値の喪失に歯止めをかけている。
ところで私はグランツーリスモ(プレイステーションソフト)の中でしかアンフィニRX-7を運転した事がない。現在は1000万円以上する物件が存在するほど中古車価格が高騰し、恐らく生涯の内で乗る機会は無いと思われるのがとても残念だ。
先日、
感想文でたっぷり取上げた事もあり、詳細はそちらを読んでいただきたい。
インプレッサを取上げるならランサーエボリューションもセットで語られるべきだろう。この時代、インプレッサとランサーのWRC対決、そしてそのベースモデルの弛まぬ進化は自動車ファンをワクワクさせ続けた。インプレッサが比較的人間くさい機械仕掛けのデバイスを好んだ一方でランサーはAYC(横滑り防止装置)電子制御デバイスを積極的に活用するなど三菱らしいハイテク戦法で立ち向かっていた。
展示車はエボ6.5とも言われるトミ・マキネン エディション。走りに関わるところは簡素な作りでグリルのメッシュは焼肉用の網のよう。今はグリルとは名ばかりで燃費のためにデザイン的な開口を埋めて本当に空気を取り入れる面積は極小という車が多い中、たくさん吸って中を冷やすという目的に沿った処理が懐かしい。
ただ、グリルから除く奥で黒色カチオン塗装が剥がれ(元々塗装皮膜が熱に弱い)、錆が出ている点は今すぐにでも直してあげたくなる。
これまでターボ4WDの圧倒的な速さやFRが持つ重量配分の良さからくる高い操縦性を活かしたスポーツモデルが並んできたが、軽量である事を活かしたFFのスポーツモデルも展示されている。FFスポーツといえば個人的にはホンダのイメージがあるが、このインテグラタイプRは、市場での評価がイマイチだったインテグラの地位を一気に引き上げることとなった。
シビックより上級のお洒落なモデルという立ち位置のインテグラはシビックのコンポーネントを上手く活用しながら上手に差別化する事で着実にホンダに利益をもたらしてきたが、3代目でプロジェクター式独立丸型ヘッドライトを採用した未来的なフロントマスクとしたところ、進みすぎと判断されたのか日本での販売が振るわなくなってしまった。今見ると、魅力的なのだが先代からの変化が大きすぎたと判断してフェイスリフトで先代ライクな切れ長ヘッドライトに改められた。
それだけに留まらず、SiRを超える高性能版としてタイプRが追加されたのが1995年秋のことだ。ブラピが「インテグラノッテグラHonda!」と言わされる(?)CMも話題になったが、好事家はNSX以来のタイプRの設定に胸が高鳴った。1.8Lでありながら200ps(リッター111ps)を達成した専用E/Gは量産を前提とした効率をホンダにしか作れないような高回転型だ。軽量化を追求したボディはチャンピオンシップホワイトに塗られて専用の赤いホンダマークが貼られた。この専用マーク当時、他の普通のホンダ車に貼る人が居たほどプレミアムなエンブレムとなった。私のような、大衆車好きな田舎の中学生もこの車には魅了され、当時手に入れたカタログは今でも大切に持っている。近所のベルノ店がなかったので大和郡山市の販売店に手紙を書いて送ってもらった当時の自分にとっての宝物だった。(カタログはいまもちゃんと実家に置いてある)
展示車の98スペックのインテグラを前にしたとき、あのカタログを中学に持っていき、授業中にチラチラと眺めていたという思い出が急に蘇った。日頃からあんなに大衆セダンが良いだとか、欧風ハッチバックだとか抜かしているが、少なくとも13歳の頃にインテRの様な心が熱くなるFFスポーツモデルにも心惹かれていたのだ。(ちなみにブラピが映った標準仕様のインテグラのカタログはクラスの女子にせがまれてあげてしまった。)
インテRは成功作となり、プリモ店扱いのシビックにもタイプRが設定された。
1.6Lでありながら185ps(リッター116ps)というB16Bのハイパワーは2.5Lクラスの出力を誇る。当時、トヨタの4A-GEは20バルブの黒ヘッド(165ps)では歯が立たず、日産のSR16VRの青ヘッド(175ps)であっても当時のシビックタイプRに積まれたE/Gの特別感は少しもスポイルされなかった。
柳の下のドジョウ的な追加設定だが、群雄割拠だったテンロク・ライトウェイとスポーツ市場の覇者となった。NSXやインテグラのようにストイックな軽量化を推し進めたタイプRであったことと較べるとシビックもまた同じだが、コンフォートPKG(A/C・電格ミラー・PW)を選べばそれなりに現実的であり文化的なスポーツカーだった。
まずホンダの象徴的な本格スポーツカーNSXでタイプR(サーキットに特化した軽量高回転型NAで実現するホンダにしか出来ない走り)を明確に規定したあとで、インテグラに続き、ホンダの看板車種シビックでタイプRを展開することは、ホンダの企業イメージアップには大きく貢献しただろう。尊敬すべきは、その思想にブレがなかったことだ。
タイプRとは名ばかりのSiRをベースにライトチューンに留めてコスメティックなエアロをつけたバッチだけのタイプRを作っていたらブランドそのものを毀損していただろうが、当時のホンダは真面目だったのか頑固一徹にタイプRをやり切ったと言える。以降、超高回転型スポーツエンジンの時代が続くが、シビックタイプRだけが何とか命脈を繋いで現在に至っている。
これは
MATUDOKI・RUSEではない。
小型車を作るのが上手いダイハツは1970年代にリッターカー「シャレード」を発売し、ヒットさせた。初代と比べると、グッとボクシーになった2代目シャレード自体は1983年に発売された。1981年発売のホンダ・シティのヒットもあってかハイルーフ仕様を設定し、コンパクトでありながら広さも訴求していた。また3気筒1LのガソリンE/Gと、それをベースにしたディーゼルE/Gが存在している事も大きなニュースだった。(高専時代、実習用のE/Gがこのダイハツ製ディーゼルだった)
2代目はキープコンセプトで失敗する2代目のジレンマから離れて攻めの姿勢で
リッターカー市場で確固たる地位を築くことに成功していた。その中でワイドバリエーション化の一つとして若者向けスポーツモデルは当時からよく選択された選択肢だった。
1.0Lターボが設定されていたが、自ら猫科のターボと呼びとその中のスペシャルモデルとして用意されたのが「デ・トマソ」である。1970年代の「スーパーカーブーム」で有名になったデ・トマソの名を冠した「シャレード デ・トマソ」は
イタリアンスーパーカーのエッセンスをうまく使ってエキゾチックなホットハッチとして1984年にデビュー。カンパニョーロやらピレリやらMOMOステやら、後付けすると高価なパーツが最初から奢られた赤黒のツートンカラーは競合車にはない独自性があった。このモデルそのものの思い出は、幼稚園の頃、前期型のMT車に乗っていた同級生のお母さんがいた、あるいは、
イカさんの後期型を運転させてもらった思い出があるが、2代目シャレードのデ・トマソの体験は残念ながらない。
続く3代目シャレードでは
別コンセプトのスポーツモデルが存在したため、デ・トマソは無かったが、私が小学生の頃にはシャレードが4代目となりデ・トマソが復活し、1.6Lを積むマニアックなスポーツモデルになっていた。
このモデルは後年、大学の友人が愛車にしていた。当時の大学生っぽいドレスアップが図られた黒いデトマソで峠道の走り方の手ほどきを受けたことが懐かしい。全然聞かないから「カスビス」とオーナーが読んでいたビスカス式LSDの
立ち上がりの俊敏さに衝撃を受けたのも懐かしい。私がビビってブレーキを踏んでしまうコーナーでも、彼はアクセルを抜いて荷重を前に乗せて曲がるんだと言ってデトマソをキレイに曲がらせていた。深夜になっても全く眠くなることのない体力と意欲があった頃の話である。
そう言えば1993年頃に竜王工場に社会見学に行ったことがあるがそこで流されたオリジナルビデオの魔法の呪文が「でそまそ・しゃれーど・開けゴマ」だったことからも当時のダイハツにとって大切な車種だったことが窺える。
いや、現代になってもデ・トマソ風のコンセプトカーを発表している事からも、ダイハツは今も大切なヘリテージとして考えているらしい。段々と自動車ビジネスが「ヘリテージビジネス」と化して来た感があり、ダイハツもいずれ何らかの形でデ・トマソを復活させる日が来るかも知れない、と期待したいが親会社から小型車の開発を禁じられ、独自性を大いに削がれている今の現状ではそれも厳しいか。
第二部「独自のデザイン」
自動車が欧米で発明されて発展した機械である限り、日本をはじめとする欧米以外の自動車はどうしても欧米を追いかける形になる。デザインもそれと同じで欧米の流行を取り入れる、欧米の優れたアイデアを拝借するという流れは発展期においては仕方ないと言える。
日本の自動車産業が大成功し、一定の自信を得たこの時代になると安くて実用的な自動車を作ることが出来るようになった。日本第二位だった日産は「パイクカー」という実験的試みを続けていた。これは、90年代後半以降で欧米各社が追従して過去のモデルをモチーフにしてファッション性と実用性を兼ね備えたフォロワーが出たという意味で日本から産まれた商品コンセプトである。
日産は手持ちの信頼できるコンポーネントを使って、もっとファッショナブルな方向性にシフトした商品を、量産を狙わずに作ろうとした。第一弾は1985年のBe-1であるが、一連のパイクカー群はレトロなデザインを最大の特徴としていた。
1991年にデビューしたフィガロもその一つである。見る人が見ればプジョー403(刑事コロンボの愛車)を連想してしまうが、マーチをベースとして徹底的にお洒落性能を高めたエボリューションモデルである。
2ドアオープンという趣味性全開のボディタイプはマーチベースとは思えないほどプロポーションもいい。パイクカーは総じてレトロをテーマにしているが、今あるボディキットとは違い徹底的なクオリティでその世界観を追求している。繊細なメッキモールは植物の蔓をイメージしているというが、こういった車はいかに世界観を守るかが重要で、360度見回してもインテリアをのぞき込んでも妥協を感じない。
展示車にはフェンダーポールが着いていたが、汎用品流用でも良いところを専用品で頑なに世界観を守っているのはすごい、の一言だ。こう言った細部に亘る作り込みは当時の日本の美点であったが、「どうせ分からないところに工数をかけるな」という類いの正論によって作り込みを諦めてしまう車が多くなった現代から見ればついため息が出てしまう。
パイクカー群で最も販売台数が多いのはPAO(31000台以上)である。マーチベースという点はエスカルゴを除いたパイクカー共通の特徴だ。PAOもクラシカル全振りという感じだが、「都会リゾートの冒険」をテーマにし、アパレルブランドの「バナナ・リパブリック」の世界観を車に落とし込んだという。そう言えば会社のブランドの同期がここの服が好きだったが、旅と探検を服で表現するというアパレルのコンセプトは確かにPAOに通じている。
都市で便利なサイズ感でありながら、外板強度を意識した波板パネルや外ヒンジドア、三角窓、折りたたみ開閉式クオーターガラス、キャンバストップや外に持ち運べるオーディオというのもどこか外国の荒野を冒険するクラシカルな車を思わせる要素も併せ持つ。
当時通っていた幼稚園のN先生は「先生PAO買ったんだよ」と教えてくれた。既にカーマニアだった私は「すごいね!カッコイイ」といった感じで答えたと思う。ほどなくして幼稚園の裏の駐車場にはFFセルボ(担任)、REX VIKI(ピンク)なんかに混じってイメージカラーのPAOが止まっていた。
断トツでファッショナブルなPAOは、私が免許を取るような年齢になった2000年頃でも中古車として流通しており、高専時代の同級生が買うというので付き添ったのも良い思い出だ。MTでノーマルルーフという壊れにくそうな仕様を選び、購入を決めるのだが中古車屋が「ヘッドレストを外して専用合皮シートカバーでもっと可愛く出来ます」などと薦めてきた。・・・が、せっかくのお洒落な内装をスポイルすべきではないし、ヘッドレストは安全のためについている機能部品であり取り外すべきではない旨、しっかりオーナーに理解してもらいノーマルで納車された。その後、彼女は沖縄にPAOと共に渡り、結婚。その後追突被害事故で廃車になってしまったと聞いている。
決して速くもなく、60km/hも出すと風切り音も酷く洗練された車ではなかったが、力を抜いて全方位で高得点を目指さなくても、デザイン一点集中で売ってしまうようなプロダクトは日産のパイクカー群がはじめてだったのではないだろうか。
当時既にクラシックな部類に入っていた2CVやVWやスバル360などと言った車達と同じような温かみのある内外装と現代的な実用性・耐久性を兼ね備えるというのはありそうで無かったカテゴリーであり、後のPTクルーザーやBMWミニなどにも影響を与えた。
第三部「小さな高性能」
日本の軽自動車は、元々サイドカーの様な簡易的な自動車を想定して作られた規格であった。各社がオートバイ以上、小型自動車未満という簡素な軽自動車を提案していた中で富士重工がスバル360によって本格的な小さな乗用車を開発した事から「軽自動車」は立派なの小型版としての立ち位置を決定的なものとした。
庶民のゲタ代わりとしてのミニマムトランスポーターとしでだけでなく、若者の初めての自動車、地方家庭のセカンドカーなどの役割を果たしながら、常に登録車(≒小型車)の流行を横目に発展を遂げる。
ただし、当時の技術水準では排気量360cc、あるいは500、550ccという排気量では大衆車(1000cc~1300cc)との性能差はハッキリ分かるレベルであり、その分棲み分けがハッキリしていた。
1979年のボンバンの発明により、廉価でベーシックな移動手段として磨きがかかりもしたが1980年代のFF化やターボ技術の下位展開によって、従来よりもゆとりのある室内空間や大衆車ハイパワーを手に入れることになった。
軽自動車を若者向けエントリーカーとして見た場合、腕次第で下手な大衆車をカモれるホットハッチとして仕立てられたスポーティなモデルも出現した。そのうちの一台がこのミラTR-XXだ。アルト対抗として生まれたミラのスポーティ仕様としてターボを積んだTRが存在し、その上級仕様がTR-XX(ダブルエックス)である。
競合よりパワフルな52psを発揮する2気筒ターボE/Gやフルカラードエアロを身に纏い、大衆ハッチバック車を意識したモデルとなっていた。ターボが搭載されて以降、各社のパワーウォーズはスズキが3気筒ターボで64psを達成したアルトワークスが決定打となって64ps規制の発端となってパワー戦争は一息ついたが、軽量な車体に64psのパワーは確かに刺激的であろう。(なお、wiki情報では当初は78psで出そうとしていたが当時の運輸省に難色を示されたためデチューンされた結果64psになったとされる)
展示車仕様の白いミラTR-XXは、当時至るところで見かけるモデルだった。当時はスポーツモデルの人気が高く、ミラとはちょっと違うミラとしてTR-XXの様なモデルがラインナップされていた。現代ならそれがアウトドアを意識したSUV風グレードということになるのだろう。
かくして小さな極東の島国である日本らしい「小さな高性能」というカテゴリーで軽ターボは個性が際立っており、それが海外の好事家の目に留まり面白がられているのであろう。
軽自動車は昔から何でもアリの仁義なき戦いが繰り広げられる過酷な販売競争が現代でも続いている。バブル期においては人々の嗜好が高級化し、軽自動車は「簡易的な疑似自動車」ではなく、「小さい乗用車」という方向性が一層強まった。この時期の軽自動車にも登録車の新技術がどんどん降りてきてニュースに事欠かなかった。
マルチバルブE/Gが流行しだすと、1気筒5バルブDOHCが出たかと思えばマルチシリンダーとも言える4気筒、あるいは4WDに4WS、CVTにスーパーチャージャーなどが各社の新型車に目玉装備として搭載された。
質実剛健で地に足が付いていたはずのスズキですら高級志向のモデルを企画するに至っている。1990年、アルトの上級スペシャルティ的な立ち位置だったセルボをFMCして「セルボモード」いう名称に改めた。ノッチバックを意識した水平基調の落ち着いたスタイリング、上質なインテリア。
そして最も注目すべきはスズキ唯一の4気筒F6B型を積んだ4輪駆動のSR-FOURをラインナップしたことだ。初めて軽に4気筒を積んだスバルはレックスのFMCとしてヴィヴィオをデビューさせ、三菱はミニカをFMCして4気筒にDOHC5バルブヘッドを組み合わせた。さらにNAモデルも用意して1.6LにV6を用意した三菱らしいこだわりを見せた。そしてダイハツもミラに「森口エンジン」を搭載して各社に4気筒E/Gが出そろった。
登録車の世界でもL4が常識だった2LクラスにV6が増え始め、1.6LのV6が登場するなど一クラス上の豊かさを実現するマルチシリンダーE/Gの動きが出たことが軽自動車への4気筒E/G同時多発に繋がっている。
バブル経済を経験すると、人々の贅沢嗜好が右肩上がりになるとつい想像してしまいがちだったが、実際にはバブル崩壊によって日本市場は急速に楽観的嗜好が改められることになった。多くの会社は新規格による買い替え需要が一段落付いたあとの目玉として4気筒を考えていたのかも知れないが、実際に蓋を開けてみると、時流に対して過剰なスペックが与えられていたに過ぎなかった。
そして日本の消費者達は、安易にメーカーの思惑に流されずに「軽は3気筒で充分である」と判断した。
マルチシリンダのメリットは主に高回転での伸びと1気筒あたりの強制力が小さくなることと回転バランスの良さからNV性能の良さがあるが、一方で部品点数の多さ、摩擦損失の多さが欠点として残っていた。つまり、スポーツモデルであればまだしも、元々実用域での力強さが必要な軽自動車に合わない特徴を持っていた。事実、フルライン4気筒のスバルは低速トルクを補うために貨物仕様にまで5速ミッションを与えていた。
技術志向のスバルは全て4気筒に切り替えたが、それ以外のメーカーは上位機種向けのスペシャルE/G的な性格が強く本来は図れるはずの部品共通化も進まない事から、以後4気筒は廃れていく。スズキはセルボモード以外に4気筒を積まずに1997年に終了し、三菱はブラボーやパジェロミニへ展開を見せつつ、2002年に終了。前述の通り全モデルに4気筒を乗せたスバルは軽自動車の自社生産そのものを中止することになり2012年に終了。ダイハツはミラ以外にムーヴやオプティに特別なE/Gとして4気筒を積んできた。最後にコペンにも4気筒を積んだことは英断と言えたが、2012年には生産終了となり軽自動車の4気筒は全て廃止されてしまった。
あのスズキが、「小・少・軽・短・美」のスズキであっても、結果的にセルボモードのためだけに4気筒E/Gを開発してしまった、というバブル期の特異な空気を現代に伝えている。
同じバブルに踊らされたスズキの軽でも1991年発売のカプチーノは一目見ただけでスペシャルティな雰囲気に溢れている。平成ABCトリオと称される軽スポーツカー群の中では最もアダルトでオーセンティックな一台だ。
ロングノーズショートデッキという戦前からの文法通りのスポーツカーシルエットを身に纏ったクラシカルなクーペスタイルなのだが、3分割のハードトップをトランクに格納するとタルガトップになる。リアガラスもロックを解除することで倒すことができ、さらに分割することでフルオープンに変身する。こうなると古式ゆかしい純スポーツカーである。ルーフがない分剛性が不足しがちな車体をねじ伏せて直射日光や砂埃や潮風、時には夕立をを全身に感じながら乗馬の如く運転を楽しむ車に変身する。そして楽しんだあとは、手動ながら耐候性に優れたハードトップを採用して小粋なパーソナルクーペとして使える点も所有するハードルを下げている。
最大の特徴はエブリィのコンポーネントを上手く活用した後輪駆動を採用している点である。縦置きゆえに鼻先が重くなるセルボの4気筒は使わずに、コンパクトな3気筒を活用し、4輪ダブルウィッシュボーンでFRという本格的なスペックのスポーツカーを作り上げた。
ABCトリオの中ではカプチーノが最も長く販売されているが、それはカプチーノが最も奇を衒わない本流の良さが評価されたのではないかとも言えるし、4独、FR、DOHCといったスペックを気にする人にとっても本格スポーツカーとして遜色ない仕様の良さもあるのでは無いか。
いずれにしても、上に挙げたセルボモードとカプチーノはバブル期のノリの良さから産まれたプロダクトでありながらも、軽らしからぬ大人びた雰囲気が好ましいハイセンスな点が好ましいと私は考えている。
初代コペンはカプチーノの中古車市場における人気を根拠に企画されているとされており、さらに次期コペンがハイゼット系のコンポーネントを使ったFRで開発が進んでいる事を考えるとスズキの永遠のライバルたるダイハツはカプチーノの良き理解者なのかも知れない。
展示順に紹介してるのでお次はBということで1991年に発売されたホンダビート。2輪感覚で乗れる元気印のミッドシップオープンである。スクープされているときはS660という名前で呼ばれていたりもしたものの、発売時は2輪の名前をリバイバルさせてビートと命名された。3気筒NAながら各気筒独立スロットルを持ち、8100rpmで64psを発揮し、8500rpmまで許容するという超高回転型ユニットを積んでいるのも2輪のようだ。
ピニンファリーナ説もある魅力的なエクステリアデザインは例えばクラムシェル型フードを使ってフェンダー見切り線を減らし、ヘッドライトをホイールアーチまで回り込ませることで一体感のあるフロントマスクを作った。その見切り線を延長しドアのキャラ線とし、Rrインテークに繋げていく事で短い車体の中でも長さを演出している。RrエンドはS800を思わせる大形リアコンビランプによってボリューム感を緩和するなど細部にわたって配慮が行き届いた今見ても完成度の高いエクステリアデザインをしている。
インテリアも独立したメーターフードで2輪間隔を訴えつつ、ゼブラ柄のシートを採用する点も非常に面白いがオープンで走ると外から見られる機会が多く人の目を惹いたもの勝ちである。
軽初のミッドシップであり、記号性の高いオープンボディであることから、誰しもが平成に蘇ったS800の後継モデルであると思いがちだが実際は「ミッドシップアミューズメント」というコピーの通りスポーツ性よりもファンなコミューターを志して作られている。S660と名付けなかったのは敢えてそのイメージから脱却したいという思いもあったことだろう。
魅力的な車だったが1996年に販売を終えてしまったのは発売時点でバブル崩壊が起こり、景気が急速に冷え込む中でこの手の底抜けに明るい車に対する感度が落ちてしまっていたこともあるだろう。2015年にビートを思わせるミッドシップオープンの
S660が出た時は遂にSシリーズを名乗るコンパクトオープンが出たと嬉しくなったものだ。
平成ABCトリオで最もエキセントリックな(常軌を逸した)一台が1992年にマツダがオートザムブランドで発売したAZ-1だ。アルトワークスのターボE/Gをミッドに搭載し、「究極のハンドリングマシン」をテーマに開発されたスポーツカーである。BとCが絶対的な性能を過度に追わないキャラクターだったのに対してAZ-1はテーマもさることながらクローズドボディを持ち、シャシに外板を取付けただけのスケルトン構造を採り、ガルウィングドアを外観上の最大の特徴としていた。サイズ感こそ違えどこれはまさに1970年代の少年達が熱狂したスーパーカーではないか。こういったモデルは普通車で作ると「もっと良い車に」「モアパワー」という負のスパイラルで立派に重くなる。そうなると扱いにくいものになる、原価が高くなり消費者の手に届きにくくなる。軽自動車でこれをやるというのは「軽だからこれ以上は無理」という現実的な制約によってむしろ現実的な手段なのではないかと思う。軽自動車という企画の中であればトラックもスポーツカーもオフローダーでもハードトップでも1人乗りコミューターでも自由自在に作ることが出来るのだ。
AZ-1は丸目の愛くるしいは見た目の割に乗り込む瞬間からサイドシルを大きく跨がないといけないハードさがある。タイトな居住空間は簡素を極めて助手席を固定式にしてしまったほどだ。A/Cは付いているがサイドドアガラスの開口は極めて小さく、高速道路の通行券や有料駐車場での所作はスキルが求められる。しかしこれを買った人がそれを不満に思うことは無いのでは無いだろうか。明らかに不便そうであり、乗る人に我慢を強いると最初から宣言しているからだ。それでは、どの車がとは言わないがカタログに楽しそうな使用シーンを散りばめて、カタログ上の無意味な諸元値を競い、いざ共に暮らそうとすると思いのほか使いにくく、気付かぬ間にストレスフルな動的性能を披露するフレンドリーなモデルとどちらが良心的なのだろうか?
・・・と誇らしげにガルウィングドアを跳ね上げているAZ-1を見ているとそんなことを考えてしまう。現役時代、1部だけカタログを貰ったので大切にとってあるがページをめくるだけでワクワクしてしまう。くそ真面目に規格の中でなんでも実現しようとしてしまう日本に軽規格があって良かった。AZ-1は、軽という枠の中でこそ羽ばたいた小さなスーパーカーだった。
●番外編
企画連動で新しい寄贈車としてマークIIツアラーVが展示された。92年にデビューしたマークIIは社会現象とも言える空前のヒット作となって先々代、先代を引き継いだ。バブル崩壊後に発売されたが、企画された時期がバブル期だったことで他社製品同様に大型化して贅沢志向だったこともあり先代ほどのヒットを飛ばせなかった。堂々の3ナンバーボディによる居住性、120kgもの軽量化、4輪ダブルウィッシュボーンサスペンションの採用などレベルアップを果たした部分も大きかったが、先代でこのクルマに憧れた層は離れてしまった。後期型では、コストダウンのための部品の剥ぎ取りが進み、商品としてはなかなか苦しい立ち位置だった。
ただ、901活動の成果が織り込まれたスカイラインの飛躍的な動的性能の進化を目の当たりにして競合たるマークII陣営は走りに対してのレベルアップには気を使っている。特に先代までGTツインターボと呼んでいたターボE/G搭載のスポーツモデルはツアラーVという新しいグレード名を得て、大型ブレーキや前後異サイズタイヤなど足腰を鍛えた。また、ムード派のための自然吸気のツアラーSも用意し、今後に繋がる新境地を開拓した。
私が子供の頃は、販売に苦戦したと言っても現代のセダン市場を思えば遙かに売れており飽きるほどパールホワイトのハイメカグランデを見てきた。中学の担任が2.5グランデGを大事に乗っていたのも懐かしい。
数年前、仕事で九州を訪れたついでにレンタカーでトヨタ自動車九州に立ち寄った。このマークIIは設立されたばかりのトヨタ自動車九州で生産されており、その1号車が保管されている。マークIIは当時は高級車のエントリーモデルであったが、現代のトヨタ自動車九州はレクサス専用工場となり、複数のレクサス車を生産している。
展示車は素晴らしいコンディションのツアラーVでしかも希少なマニュアル車だ。
ドリ車にならず、センスのない中古屋にいじり壊されることもなく33年もの長い時を生き抜いてきた貴重な個体である。
●感想
トヨタ博物館が開館してまだ数年だった頃、今回の企画展で主役となっている車たちは、当時はどこにでも走っている現役車で、希少価値などまったくありませんでした。
私は開館直後、母の友人のご主人(ほぼ他人ですが)に初代パジェロで連れてきてもらいました。この方は某社のカーデザイナーとして活躍されていた方で、幼い頃からとても可愛がっていただいた記憶があります。
当時の展示は、2階にレーシングカーを含む欧米車だけが並び、日本車は3階にまとめられていました。トヨペットSA型や希少な左ハンドルのRS-L、フライングフェザーやフジキャビンなど、戦後の乗用車が明るい展示スペースに整然と置かれていたのを覚えています。
現在では2000GTとヨタハチが鎮座するお立ち台には、当時はトヨタの功労車である初代カローラと3代目コロナが展示され、その正面にはダットサン・サニーとブルーバードが向かい合うように置かれていました。3階の最後、今はMIRAIが展示されている場所には70スープラがありましたが、当時はただの現行車だったので、正直まったく気にも留めていませんでした。
――あれから36年。
公式紹介文にもある通り、当時の想像とは違う形で1980~1990年代の日本車が世界中のファンに愛される存在になりました。あの頃は「時代が進めばもっとすごい車が出てくる」と無邪気に信じていましたが、現実は…(以下略)
今回の企画展に並んだ車たちは、私の世代ならどれも現役時代を知っている“懐かしい顔ぶれ”ばかりです。普段の企画展では、自分が生まれる前の車が数台あって「昔はこうだったのか」と学ぶことが多いのですが、今回はすべての展示車が「●●先生が乗ってたな」「グランツーリスモで遊んだなぁ」といった“再会”の連続でした。特にスポーツカーが多く、当時なぜこんなに各社がスポーツカーを揃えられたのか、改めて不思議に思います。
やはり若者が車に強い興味を持ち、尖った車を求めるニーズが旺盛だったこと。そしてバブル経済を背景に、各社が技術開発に十分なリソースを割けたことが大きかったのでしょう。
今は技術があっても、カーボンニュートラルや電動化といったテーマが優先され、技術をコストダウンに使わなければ会社の存続すら難しい時代です。この企画展で扱われた時代のように、未来へつながる可能性があるのは軽スポーツくらいかもしれません。JDMブームの中では軽自動車や軽トラを面白がる風潮もあり、もしかするとスポーツカーよりもN-BOXのような車が“推し”として扱われる時代が来るのかもしれません。
1982年生まれの私にとって、今回の企画展の車たちは「憧れつつも現実離れした存在」でした。あと10歳年上なら、実際に購入して楽しんだ方も多いでしょう。私は当時、学費のためにアルバイトをしており、趣味の車を所有するなんて夢のまた夢。普段は親のライトエースノアに乗り、ようやく手に入れたマイカーはヴィヴィオのバン。走らせる事で充分楽しくて、スポーツモデルとは縁遠い生活でした。(大学で頑張ってバイトしていた友人たちは、シャレード・デトマソやMR2に乗っていましたが)
ガソリンスタンドでアルバイトしていた頃、フリーターの同僚たちはシビックSiR、スターレットGT、インプレッサWRX、ミラ・アヴァンツァートなどに乗っていました。皆、私より5歳以上年上で、仕事終わりに夜の阪奈へ走りに行ったこともありました。
あの頃は若かった――こう書くと一気に“おじさん臭”が出ますが、そう書くしかありません。
思い出深い時代の車たちが海外からも注目され、愛されているのは嬉しい反面、10年以上前からじっくり育ててきたJDMブームが実った結果でもあります。だからこそ、この流れを絶やさず、現代の車も楽しんでもらえるような“種まき”を続けなければ、未来の人々に「やっぱり80〜90年代の車はすごかった」とだけ言われる時代が来てしまうかもしれません。
ところが、今回の企画展のラストには来館者が自由に書ける
「あなたのイチ推し ’80~’90年代日本車は?」
「あなたのイチ推し、将来名車になる現行車は?」
というコーナーがありました。
特に後者を見ると、驚くほど多様な“推し”が並んでいて、こんなにもファンがいて、こんなにも十人十色の愛があるのかと安心しました。同時に、各メーカーにはぜひ日本市場をもっと面白くするために頑張ってほしいと強く感じました。
思わず、仲間に入れて欲しくて絵心がないことを忘れて書いてしまいました。