いよいよ、
長沼宗政公のお墓へ。
「宗光寺」弁天堂を抜け
東へ。
もう、この写真の中に墓地が写っています。
ずんずん歩いて
お堂が見えてきた。
後ろを振り返ると
宗光寺の森。
東南方向には
筑波山。
たぶん、ここだな。
やっと、来られました。
最初にお堂をお参りしました。
780年余の長い年月、
風雨に耐えてきたんですね。
宗政公は
1240年に
79歳で
ここ長沼庄で亡くなったと伝わります。
お疲れ様でございました。
帰りには
延喜式内社の
高椅(たかはし)神社で
ご朱印をいただきます。
(何度か参拝していますが、
宮司さんのお宅にお伺いすればご朱印をいただけるようなので
トライ)
1029(長元2)年、
境内に井戸を掘ったところ大きな鯉が出たので、
これを都に報告したところ、
時の
後一条天皇は誠に霊異なことであるとして
「日本一社禁鯉宮」の勅額を授けました。
以来、
当社の氏子は鯉を食べず、
鯉の絵が描かれた器は使わず、
5月に
鯉のぼりも立てません。
このことから
当社には
鯉の明神の別名があります。
(お宮が火事になったときは
そばの田川に鯉の大群が現れ
神社へ水を吹きかけて助けたそう)
中世には
下総国結城氏の保護下に置かれ、
歴代当主によって保護されていました。
結城政朝、結城政直、結城政勝、結城晴朝、結城秀康、
各城主の
寄進状、祈願文、修行留等20通余が現存します。
秀康が
越前福井へ国替になった後も
代々例度の代参を欠かすことがなく、
明治維新まで続けられました。
(お賽銭箱の横に
宮司さん宅の電話番号が貼ってある、
というような情報もありましたが
そのようなものは一切なし)
何度かお参りしていますので
「今日こそご朱印をいただくぞ」という強い意志のもと
ネットで宮司さん宅の電話番号を調べ
早速お電話。
すると、
宮司さんのお母様らしき方が電話に出られ
お母さま:「このまま電話切らないで、
その駐車場出て、参道歩いて。
楼門わかるでしょ。その楼門まで来て」
わたし:「あ、はい」
「今向かっています」
お母さま:「楼門まで来た?
東に入口があるからそこから境内を出て。
(この時点で、私は東がどちらになるのか判別がつかず)」
わたし:「はい。今楼門のところです」
お母さま:「楼門まで来た?
いま、大きな車が出ていったでしょ。
そこを出て。」
この日はとても風が強い日でしたので
お母さま:「もう風が強くて飛ばされちゃうから早く来て―。」
わたし:「は、はい」
出口の方を見ると
広ーい田んぼの向こうにある
一軒家の入り口で
手を振っているお方を発見!!
私もうれしくなって
「わ、わかりました!
すぐに行きます!!!」
お母さま:「このまま歩いてくると
帰りも大変だから、駐車場まで戻って
車で来なさい」
見事に、的確に
リモートコントロールされていた
わたくし、なのでありました。
お母さま、ご親切に
いろいろとありがとうございました。
ついに、
念願の
ご朱印拝受。
(真ん中のご朱印は、なんと
神代文字で「タカハシノオヤシロ」と書かれた
全国的にも珍しいものです)
ご神饌としていただいた
おせんべいも
おいしくいただきました。
ありがとうございました!!
ブログ一覧 |
神社仏閣 | 日記
Posted at
2022/12/31 22:10:39