例によってmixiからのコピペだが、
骨子は同じことの繰り返しで、別段新しい要点があるわけじゃないよ(笑)。
単なるブログのバックアップコピー。
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旧車をどう定義するべきか、というのは常日頃問題に思うし、
ちょっと前に、サイクルフェンダー+スポークホイール細タイヤのような
旧車というより
「ヒストリック」
とか
「クラシック」
と呼ぶことが適しているんだろうなあと思う車には
20代、30代辺りの人における実体験に基づく近さがないから、
「ノスタルジック」
には当たらない
(客観的に「古い」ことは分かっても「懐かしさ」という感覚を得ない)
という意見とそれを支持する多数の賛同を見た。
決して「懐かしー!」ではなく、
せいぜい「なんか分からんけどすっげー!」
で、後には残らない。
このことから、
日本における車の造形文化上のイメージに於いては
心理的な標準参照モデルとなり得る普遍像が形成されるほど
市民感情には入り込んではいないことを感じさせられた。
そんな中では
一般的な興味を惹くような枠組みづくりはなかなか難しいよなあ、と。
だから実感の湧く80年代辺りからの車が
今は実際には大きな人気を集めるわけだ。
70年代以前に至るなら
レースベースか、テレビや映画などのメディアベースか、族車ベースか
一部の神がかり的なポジションを得た特定の車種か、だね。
実際、その関係に於いては「旧車」の定義について尋ねられて
せいぜい70年代までだとろう答えたわたしと
明確な認識の違いを確認できた事例もある。
なので、日記でも一般露出のある場に
あまり60年代や50年代以前の車の話や写真を持ちだしても
「は?」
で済んでしまうんだろうと思うと、なんか萎えてね(笑)。
そこで、
京都鉄道博物館の観覧の前に朝方に、
ついでにしては朱雀/壬生川からは結構離れた丸太町

の京都府庁にて開催された
コッパ・ディ・京都のスタートイベント

を見に行ったことについて、
本内容は大幅に省略で、ちょっとだけ。
やっぱり「クラシック」は別格にマイノリティなんだろうなあ、と感じたのは、
その6日前にノリタケの森で見て注目した
シムカ1000アバルト1150ss

(注:先日の同一個体がこれ)

をまた見かけたり、
もちっと実走個体数の多い新しめの車種でも
「あ、これ、あそこで見た」
って再見車を多く含むようになっていることね(笑)。
いやまあ、希少車だから当然こうなるんだ、って話もあるし、
過去生産車は減る一方で増えはしないから
愛好者母数を増やそうとしても不可能なんだという理屈も
頭では理解できるが、
でも、車種に依ってはもうちっと現存路上車はあるだろうともね。
結局はごく一部の同じ人が複数のイベントに参加しているだけで
各地でイベントがあって、メディアとかで「懐かしい」と採り上げられても
本当に懐かしさに動かされて趣味の世界にまで到達している人は
「マイノリティ」
なんだよなあ、というか、必然的にマイノリティ枠内に留まり
経時上じわじわその傾向は進む一方でしか無いんだろうなあ、と、
なんかそう感じたイベントだったりしたわけだ。
ま、以前から理解はしているんだよ。
だからこそ、カテゴリの厳密に限定されない
オープン(≠DHC。参加資格特定がないという意味ね)系のイベントには
観覧客としてはどこにでも足を運ぶけど
あえて車輌出展側にまでなる気力も乏しいわけだが、
60年代以前車については案外わたしと同じ感覚のオーナーも多いのかもね。
積極参加のイベント貢献派と
自分で乗ってほくそ笑んでいられたらそれでいい消極派に分かれるから
なおさら一般の目に触れる貢献派の見かけのマイノリティ度は上がるし、
露出されている個体のバリエーションが限られるから
何回か見たら飽きも来るし自己保有を試みるには遠く親近感育成にも至らず、
既に同じ趣味世界に入っている内輪同士しか
なかなか呼び合わないという閉じた世界になる。
資金力のある金持ちなら道楽範疇で力技でアイテムを買えるので
実感年齢条件の関与を外すにはどうしてもそっち系の社会地位層になるしね。
でも、それはそれで社会的地位階層間で排他的だし。
現になんか、あからさまに「常連」的な挨拶と会話ばかりが耳に入って
なかなか一見客は寄せ付けづらい雰囲気も否めないしね。
一般化したいとも思っていないなら
なんら問題はないわけだが、
今後、世代間ギャップは今以上にどんどん開いていって
やっぱり「旧車」を明確に別の種別に分割しなければ
話が通じなくなってゆくことだろう、なんて、
そんな感想が残った。
こういうクラシックカー・ラリーのスタート/ゴールに
よく京都が選ばれているのは
なんとなく「金」と「通」の作る排他性を「粋」とする文化に類似性があるからかも?
なんてね(笑)。
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「標準参照モデル」について補足しておくと、
心理学上、「懐かしさ」というのは実体験に基づくものでなくとも
社会通念として流布している概念に基づいて感じるものだ、という話の
その「社会通念として流布している」ものを呼び指したもの。
例えば、
実際に茅葺屋根の山村で生活した経験なんて持っている方が希少だが、
でも白川郷のようなそういう環境が現存している環境に行くと
「懐かしい」
と表現する人が多数存在する、ということね。
それは、ジブリ映画なども同じで、藁葺や茅葺きが田畑の中に散財する景色を
「古い『懐かしい』日本の風景」
として後付け的に、或いは単なる知識として学習し備えているから。
冒頭の
> (客観的に「古い」ことは分かっても「懐かしさ」という感覚を得ない)
という意見は、去るトヨタ博物館のパレードを報じるネットニュースが
「懐かしい」という表現を用いていたことを押しつけがましくて
懐かしいとは全く感じないという意見を述べていた方がおり、
そこに多数の同意フォローコメントがついていたこと。
旧車の場合、古いブガッティなどが走っている状況が
「懐かしい」
という一定以上の共感を得られないということは
日本における車文化の一般化や定着性が
「その程度である」
という事実を如実に示しているということなんだろうな、と思料するものである。
補足が長くなったが、
そういうことを考えると、
過去の自動車に関しては世代間の細分化はやっぱり必要で、
無理に同じクラスタに押し込めようとすると
解消できないストレスが見えない場所に溜まっていくか
(だから「懐かしい」を押し付けるな、的な意見が出る)、
このタイトルのように古い世代から順にマイノリティ化の進行を受け入れ
ゆくゆくはほぼ消滅に行き着くことも自覚しないといかんよね、ってこと。
この国における自動車は時の流れを包括できる自立した文化には至らず、
現存メーカーの商売的訴求(現在や将来の技術力誇示)や
購買者の財産/資金力誇示や
世代におけるファッションの「道具」的な意味合いに
留まっている、ということに帰着してしまった。