FB起稿記事の転載。
元ネタはコレ↓
16万円で初めて体を売った25歳大卒美女の絶望的な「その後」
並びにその後編↓。
週に5日も働けない…パパ活とメイド喫茶で生計を立てる25歳女の「他力本願人生」
万事を運行する物理法則が備える確率分布は万人同一条件ってのが
大原則としてそこに存在する。
だから客観「運」は原則的に「ゼロサム」でしかなくて、
観測固定した際の確率分布に従って生じる偏差をとやかく言うのは
虚しい話だという冷めたハナシね(笑)。
変えたいと思うのなら大元の確率分布をいじるような行為でなければ
意味をなすことなく終わることが大概なのである。
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別のエンタメ関連記事中にあったリンクを
なんとなーくクリックして読んでしまったのだが。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/85680
んー、そんなもんなんじゃないの?今の大衆って。
所謂「健全」っぽい生活にとどまることが出来ている人は
運が良かった、というか、確率分布の右半分布なだけで、
まさに「観測結果」の違いに過ぎないような?
もちっと言えば、
各自、それまで過ごした時のpath上に存在した経験などと
整合性の高い事実を都合よく採用して
各自の言い訳モデルを構築しているだけで、
そのパスがどのように向きを左右に振っていたかで
第三者目線で見た(=客観的)幸/悲に差がついてしまうだけ。
それは無論、主観的幸/悲とも一致しないので、
当人が自分の中で折り合いをつけられることが
実は精神の健康という面では手っ取り早い健全策である。
だから、27歳になってもしメイド喫茶の方から
契約更新を断られたとして、
その際に本人がどう自分を言いくるめる言い訳を立てたかが
具体的に観測されないうちは幸/悲は誰にも語れないよなあ。
そもそも見て見ぬ振りをしていると推測されるのなら、
実父に泣きを入れたらうまくいくのかもしれんし、
寧ろ見て見ぬ振りが出来るその程度の選択の実父に
過剰に畏れをなしている可能性も十分大だよなあ。
まあ配偶者を離婚で切り捨てた?のなら
実の娘も切り捨てられるメンタルかも知れんが(笑)。
いや、客観的な懸念をしてあげるのは分かるよ。
社会的にこれが蔓延するのを危惧する気分もな。
でもな、このパスに至ったのは本人の選択もさることながら
上述のような実父の方針や思想の強制力もあっただろうに、
そういうことを棚に上げて本人の現状ばかり並べて
憂いを口にされても、本質的な解決になんて触りも出来んだろ。
憂うなパスの進行方向の揺れに一定以上の関連性のあった
すべての事象を並べて論じないとなあ。
後半部
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/85681
にある
> 看護師として医療現場で活躍することよりも、
> 定職に就き安定した給料を得ることよりも、
> メイド喫茶で接客する方がはるかに魅力的で、
> やりがいを感じられる仕事だったのだ。
あるいは
> 実社会で仕事をして活躍することに興味が持てない。
> カワイイを追及し、カワイイ自分を評価してもらうことの方が
> よっぽど重要な関心事なのだ。
なんてのも、記事を書く背景設定次第で
型に嵌められずにやりがいを見つけた、的な
「好事例」として祭ることもできるよなあ。
「やりがい」や「関心」がそこにあるんだよね?
この人の場合は。
ならなぜそれを陽に見ない?
そもそも、
「♪世界に一つだけの花♪」
みたいな歌は称賛しておきながら
社会で活躍することを判でついたように称賛するのも
矛盾、非合理、二律背反だと思うんだがな(嗤)。
メイド喫茶でのウケを極めることにやりがいを感じたんだろ?
まあ「しょうがない」んじゃね?
> ハードな仕事を週5日もするなんて嫌
も、全く働きたくないという
アイマスの双葉杏かおそ松さんかといったメンタルより
全然マシな気もするしなあ。
むしろおせっかい的な心配をしてやるのなら
こういう方向の興味、熱意、やりがいを
有効に掬い上げられる社会システムを
どうしたら構築できるのかの議論や思考実験を
行うべきなんじゃね?とな。
お涙的な文面だけ掲げて、これでは全く建設的ではない。
但し、既に存在してしまっている規律や道義道徳観念からも
売春はアカンことになっているので
16万円であっても8万円であっても
「売っている」そのことは捨て置くべきではなかろうけどな。
それも、上述のように経緯の一切合切を網羅するのではなく
その事実だけを取り上げるだけにとどまる場合は
ドライに「どう処罰できるか/するべきか」という
刑事行政の議論を喚起できるに過ぎず、
後の人生のご心配云々なんてのは
読者心理を利用して記事で売上集金するための
こじつけでしかない。
この人は男性の目線が評価基準になっているらしいので
目線を発する信号源を男性から拡げて周囲の目線に
少しでも一般化できたら
それだけで大幅に気にする面が変わるんだろうなあ、とは思う。
価値観を据える領域の境界線と
観測できる身のこなしは相関をみることはあれど
因果関係ではない。
わたしは大概評価基準が内因で外見は二の次な人だと思う。
家の近所くらいなら
いまだに在りし日のちゃーくんくんに爪穴をあけまくられた
あからさまにボロなニットを羽織って平気で出歩いているし
(ご近所さんは「みすぼらしい身なりを…」と思っている可能性大)、
他にも例えばS600を「カッコいいですね」と褒められても
有り難いことなのだが歓喜に値することにはなっておらず
実はあんまりピンときていなかったり(笑)。
※車なんて乗ってしまったら本人には外観は見えんし(笑)。
でもこの人の「やりがい」の置き方はよくわかる気がする。
つまんないことはやっぱりつまんないんだもの。
好きこそもののナントやら、だよ。
何かをため続けたら/削り続けたら、
結局別のところに歪みが現出するだけよね。
だから評価基準が外因であろうが内因であろうが
それは実は採った行動の原因でもなんでもないのである。
社会で成功とされる人生のパターンと
流されてしまっただけのように見える興味の向き/在り処を
あたかも因果にあるような結びつけ表現文を掲げているのも
なんだか違和感を抱かされてしまうのであった。
Posted at 2022/03/08 22:43:11 | |
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