グリッドガール。
その是非についてはいろいろ意見があるだろうけれど、
例えば日本のレースを見ても、グリッドウォーク時には、
灼熱のサーキットの上で多くの人に対応し、
時にはスタート前のタイムボードを持ったり、

レース上で責任ある役割を担っている。
F1のグリッドガール自体、国際親善大使的な役割をする場合もあるし、

今ではOBになってレースクイーンをマネジメントをしたり、
あるいは純粋なファンとしてサーキットを訪れたりと、
多方面から長年モーターレースを盛り上げる一翼を担っている。
そうやって作り上げてきた世界を
いきなりゼロにすることが正しいわけがない。
今回のニュースで感じたのは、
単なる男社会の添え物という認識にされてしまったグリッドガールと、
試合にはなくてはならない存在のチアガールとの認識の違いが、
どうして生まれてしまったのかということだ。
グリッドガールは、スポンサーの意向の下に成り立つもので、
そこに彼女たちの主体性がなく、いくら献身的にチームに貢献しても、
封建的なチームのなかの立ち位置は変わらなかったのかもしれない。
一方でチアリーディングもスタートは似たようものだろう。
それが今では女子の人気スポーツとして認識され、
トップアスリートが集うようになり、
日本でも高校や大学選手権、全日本選手権も開催。
全米選手権に乗り込んで好成績を収めたチアもいる。

アメフトやバスケを見ても、、
チアはチームの一員であり、チアなしでは試合は成り立たない。
プロとしての出口もある。
もともと貴族階級から始まり、
排他的なヨーロッパのスポーツの歴史・環境に加え、
カソリック的な女性観。
新しいものを文化として創造していこうとする
アメリカのスポーツ歴史・環境、
プロテスタント的な女性の存在意義の違い。
そんな2つにきれいに分かれるほど単純ではないけれど、
目には見えないところでの無理解と不寛容が極端な自体を引き越しがちだ。
グリッドに立つのがガールである必要もないけれど、
いきなりなくすより先にやるべきこと、できることがあったはず。
社会規範を大義名分に掲げるなら、まず職業に対するリスペクトを持った上で、
女性として地位を確立すべきサポートを行うのが先で、
こうした行為はそれこそ女性の輝ける場所をすべて奪いかねない。
と、外野の日本人としてそんな風に思っています。
Posted at 2018/02/02 09:43:59 | |
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