だいぶ時間が経ってしまいましたが、今回の長崎旅行の締めくくりでもある、軍艦島クルーズ編を書きます。
長崎最終日となる3日目、昨年、世界文化遺産に登録された、軍艦島をめぐるクルーズ船に乗りました。
夜半から降っていた雨もやみ、いい天気に。前日登った、稲佐山もはっきり見えます。絶好のクルーズ日和となりました。
この軍艦島クルーズは完全予約制で、周遊コースと、上陸コースがあります。
今回、私達が参加したのは周遊コースです。上陸コースは人気が高く、予約が取れませんでした…。
まずは、クルーズ船を運航する会社の事務所で乗船手続きを行います。
すると、全員にこのプレートが渡されます。
そして、乗船場所に移動します。
いよいよ乗船です。奥に見える白い船に乗り込みます。
そして、出港。陸がどんどん離れていきます。
出港後、間もなく遭遇した豪華客船。

イギリスのサファイアプリンセスだそうです。
その次に見えてきたのは、三菱重工の造船所です。
この2番ドックは、戦時中、戦艦武蔵が建造されたドックです。

この日は、自衛隊のイージス艦が建造中でした。
この周遊クルーズでは、まず、軍艦島の北東約2.5キロにある、同じく炭鉱で栄えた高島(たかしま)に立ち寄ります。
ここで、石炭資料館などを見学。
炭鉱としての歴史は、高島の方が、軍艦島より古く、そして長いのです。昭和61年(1986年)まで、採掘がおこなわれていました。
ピーク時は、18,000人もの人が住んでいましたが、現在の人口は1,000人を下回っているそうです。
高島の滞在は、30分程でした。当時の坑口や、あのグラバーさんの別邸跡もあるそうですが、今回は見学できませんでした。次回は、高島もじっくり見たいですね。
そして、いよいよ軍艦島が見えてきました。
軍艦島は、長崎半島の南西部に位置します。南北約480m、東西約160m、周囲約1,200m、面積約63,000㎡(63ha)という、小さな海底炭鉱の島です。正式名称は、端島(はしま)。
岸壁が島全体を覆い、高層のアパートなどが立ち並ぶその外観が、軍艦「土佐」に似ていることから、「軍艦島」と呼ばれるようになりました。
元々は、現在の3分の1ほどの大きさの、草木のない水成岩の瀬に過ぎなかったそうですが、6回に渡って周囲を埋め立てる形で拡張され、現在の姿になたそうです。
ピーク時の人口は、5,300人に達し、当時の東京都の人口密度の9倍という、世界一の人口密度を誇りました。
しかし、昭和35年(1960年)以降、エネルギーの需要が石炭から石油に移ったことで生産量は徐々に減少し、昭和49年(1974年)1月に閉山し、同年4月に、最後の住民が島を離れ、無人島になりました。
島に近づくにつれて、巨大な建物群が目に飛び込んできます。

これは、島の北東部です。主に、島の東側に石炭の採掘設備、西側に住宅が配置されています。
船は、島の北側から、時計回りに、島を一周します。
これは、病院です。

裏側には、隔離病棟もあったそうです。万一、伝染病が発生したら致命的なことになる、島ならではの設備です。
これは、小中学校です。

鉄筋7階建てで、1階から4階までが小学校、5階と7階が中学校、6階には音楽室などの特別教室がありました。
最上階部分が崩れていますが、これは台風による被害だそうです。
そして、その崩れた部分の上に、小さく見えるもの。これは、神社の祠です。
船は、島の西側に進みます。

岸壁が、船の船体のようですね。
岸壁には、このように穴が開けられています。これは、大雨などの際、島内の水を排水するための物だそうです。
先ほどの神社の祠と、職員アパート跡。屋上部分に見える草木は、アパートの屋上に土を運んで作られた、屋上菜園の跡です。

島には、木々を育てる場所が無かったので、この屋上で花や野菜を育てました。これが、日本初の屋上緑化だと言われています。
海に向かって、要塞のように建つ、31号アパートと呼ばれる、この建物。

多くのアパートは、海と直角に建てられていますが、この31号アパートは、海に向かって建てられています。一説によると、防波堤の役目も兼ねていたとか…。台風などの際は、大変だったでしょうね。
この31号アパートには、他のアパートには無い特徴があります。それが、こちら。

写真中央部に、建物を貫いている大きな穴があります。この穴には、ベルトコンベアーが設置されており、ここから石炭を運び出し、岸壁の前に停泊した船に積み込んでいたそうです。
ベルトコンベアーは、24時間動きっぱなしだったとのことで、両脇や、すぐ上の階に住んでいた人は、たまらなかったでしょうね…。
そして、隣にあるこのアパート。

30号アパートと呼ばれる、鉄筋コンクリート7階建てのこの建物は、大正5年(1916年)に建てられた、日本最古の鉄筋高層アパートと言われています。
写真ではわかりませんが、内庭には吹き抜けの廊下と階段があり、地下には売店もありました。
電気は、前述の高島から海底ケーブルを使って、水は、長崎本土から6,500mもの長さの海底送水管を使って供給されていました。
昭和30年代にプロパンガスが使われ始めましたが、それまではかまどを使っていたため、アパートには煙突がありました。
しかし、室内に風呂があったのは、鉱長住宅と、幹部職員用アパートの1棟だけで、他の全てのアパートでは、共同浴場や公衆浴場を利用していたそうです。
島内には、購買会と呼ばれる大きな売店があり、日用品は勿論、最新の電化製品も購入できたそうです。その他にも、映画館や理髪店、郵便局、更にはパチンコホールやスナックなどもあり、生活するための施設は、ほぼ揃っていましたが、2つだけ、無い物がありました。お墓と、火葬場です。この2つについては、近隣の中ノ島に、軍艦島の住民のための施設が建設されました。
船は、島の東側、採掘設備のあるエリアへ向かいます。

この角度からの方が、より軍艦に見えるでしょうか。
鉱山の中枢部分が見えてきました。

山の頂上左側に灯台がありますが、その隣の四角い箱のような物、これは、送水管が出来るまで使われていた貯水槽だそうです。
灰色のコンクリートの建物ばかりの中で、ひと際目を引く、このレンガ造りの建物。

鉱山の中枢だった、総合事務所という建物の跡です。所々白くなっているのは、劣化ではなく、塩が付着したためだそうです。
中には、事務所の他に共同浴場もあったそうです。周辺にも多くの建物があったそうですが、殆んど崩壊してしまったそうです。
鉱山施設も、多くが崩壊していますが、かろうじて残っている物もあります。

主力坑だった、第二坑へ行くための桟橋跡です。多くの「ヤマの男たち」がここから石炭を採掘するために出入りしていたのでしょうね。
閉山から40年以上もの間、殆んど放置されたままなので、多くの建物や施設が、崩壊したり、大きく壊れたりしています。このままでは、あと数十年で、全ての建物が崩壊するといわれています。
「今日、皆さんが見た軍艦島の風景と同じ風景は、この先二度と見ることはできません」というガイドの方の言葉が、印象的でした。
歴史的にも貴重な島ですから、なんとか保存してほしいものですね。
今回、上陸はできませんでしたが、間近から見ることができて、本当に良かったと思います。
おまけ。

島の桟橋に停泊する船。これは、上陸コースの船です。次はこれに乗りたいですね。