
日曜日にMATRA SportsのTシャツを思わず買ってきましたが、MATRA SportsのF1ワークスチームは1972年までF1レースに出走し、撤退しました。
その後1975年にシャドウにマトラエンジンを搭載してテストしたものの、レースに出るには至らず、1976年からリジェ・マトラとしてF1にマトラエンジンが復活したはずです。
1972年まででは、サスガにリアルタイムで見たり雑誌を読んでいなかったので、ざっとマトラのヒストリーを見直してみました。
概要は
こちら
以下Racing HIstoryよりコピー
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1945年にシルバン フロイラらによりツインエンジンプロペラ機の設計開発を事業目的として設立される。衛星や軍事事業を主とした企業であったが、1962年に自動車メーカー ルネ ボネを買収し、自動車産業に参入する。参入直後経営危機に陥るが、オトモビル ルネ ボネで製造されていたジェットを改良したスポーツカー販売を継続しスポーツカーメーカーとして名を馳せる。1964年よりモータースポーツ部門「マトラ スポール」を設立。F3やF2で成功を収め1967年よりF1への参入する。当初よりエンジンも自社で製造し本格参戦する一方で、セミワークスとしてケン ティレル率いる「マトラ インターナショナル」では、主流であったフォード コスワーズエンジンを搭載して参戦する。初年度より完成度の高いMS10は、速さを見せる。しかし、ワークスチームである、マトラスポールが最高位 2位であったが、セミワークスであるマトラ インターナショナルは、優勝を記録。1969年は、ワークスがスポーツカー活動に集中した為、マトラ インターナショナルのみがF1に参戦。新鋭ジャッキー スチュワートが6勝を挙げ、初の両タイトルを獲得する。1969年末にマトラ オトモビルがクライスラー傘下のシムカと提携し、マトラ シムカと呼ばれるようになる。また、この提携で、1970年よりフォードエンジンを使用できなくなった為、ティレルは、独立する。1970年よりマトラスポールとしてF1に復帰するが、目立った活躍をすることが出来なかった。
その後も、独特なエンジン音が特徴的なマトラエンジンを武器にF1に参戦するが、上位に組み込むことが出来ず1972年をもってF1より撤退。1974年にマトラ スポール解散後もエンジン部門は残り、シャドウやリジェにエンジン供給を1982年まで供給する。また、1972年からルマン24時間3連覇を記録。 1994年にマトラグループは、ラガルデール SCAの下で再編される。2003年に自動車製造部門からの撤退を発表。それをピニンファリーナが買い取り、Matra Automobile Engineering S.A.S に社名変更した。
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コピーここまで
ケン・ティレルは最初マトラのセミワークスチームである、マトラ・インターナショナルを率いて新鋭ジャッキー・スチュワートをワールドチャンピオンに押し上げたのですね。
先見の明ある闘将だったわけです。
肝心のMATRA MS120Cの画像を探しました。
1970~1971年のMS120
1971年のMS120B
1972年のMS120C
MS120Cは現在も実車がヒストリックイベントで走っているようです。
Tシャツの背中にはMATRA MS120c 1971年と記されていますが、120Cは1972年型のような感じがします。特に深追いはしませんが(笑)
今見ても冴えないスタイルのF 1で、現役時代の1971年~72年というと、ロータス72とか、独立したティレルやマクラーレンあたりがトップグループを走っていた頃ですから、MATRA Sportsのマシンが勝利することはありませんでした。
ただし、コスワースのV8が色あせる、マトラV12の悪魔的快音をまき散らして走っていたのでしょうから独特な魅力はあったのだと思います。
私は1977年の日本GPで、ジャック・ラフィーが乗るリジェ・マトラを実際に見ましたから、あの60度V12の音は忘れられません。フェラーリやブラバム・アルファの180度よりずっと鋭く魅力的でした。
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Posted at
2013/08/07 00:08:47