
★別な場所で既読の方も居られるかと思いますが、こちらでも33年前の記録(記憶)を記しておくことにしました。
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1977年10月22日、土曜日の夜、当時中学生だった私は、スロットカー遊びで知り合った友達O君、H君、O君のご両親総勢5名で、’77日本GPが開催される富士スピードウェイに到着していました。前年の1976年、東洋で初のF1の触れ込みで開催された、F1 World Championship in Japanを観戦に行けなかったので、ある意味現在で言うところのリベンジです。
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夕食をどこで済ましたかはもはや記憶にありませんが、夜8時過ぎに到着するとゲートオープンの時間は過ぎており、どんどん観客のクルマはサーキット内駐車場に誘導されていたと思います。このとき乗っていった車はO君のお父さん所有のおそらく日産のワンボックスバンでした。当時まだワンボックスの乗用ワゴンの類は皆無でした。どうせワンボックスのクルマで行くのならということで、場内移動用に後部荷室には2台の自転車を積んでいきました。この時間ではすでに多数の観客のクルマで駐車場は埋まり始めており、場内誘導に従って進み、行き着いた先は旧6キロコースの30度バンク外側にあった、山の上の駐車場でした。富士スピードウエィにはすでに何度か行っていましたが、こんな所に駐車場があったのは、さすがに知りませんでした。6キロコースが使用されなくなってすでに3年が経過していたので、駐車場の周囲は背の高い雑草が生い茂っており、バンク上の観客席への通路が何処にあるのかも全く分からない状態でした。
せっかく自転車を2台積んで行ったので、着いた夜の内に、O君1人乗り、私とH君2人乗りで、メインスタンド方面に偵察に出かけました。まぁ観客が国内レースイベントよりもはるかに多いという点以外は、サーキット内の雰囲気は特に変わりが無かった様な気がします。現在のF1レースの華やかさからは、隔世の感があります。夜10時頃に駐車場に戻り、泊まりは車中泊です。大人2人は座席で寝て、子供3人は自転車をどかした後部荷室スペースで雑魚寝。この季節ですから結構寒かったはずですが、ダウンパーカーか何か着込んで、厚着して寝たのかと思います。床は単なる荷室で鉄板でしたから、寝心地は悪かったはずですが、結構眠れた記憶があります。
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明けて10月23日、夜明けくらいの時刻には目覚てしまいました。とにかく決勝を観戦する場所を確保するべく、観戦席に皆で移動です。狙いは1コーナーでした。当時は1コーナースタンド席などあるはずも無く、コース脇の駐車場~コース際に至る土手の斜面が自由席です。けっこうな早技で行ったので、ピットロードエンドと1コーナー進入部の中間あたりに良いポイントを確保できました。朝はウォームアップ走行があったはずですが、その記憶はおぼろげです。あとは午後の決勝レースを待つのみですが、午前中から、1コーナーのアウト側、いつもなら人がいない場所にも観客が侵入し始めています。あまりに時間があって退屈なので、また3人で自転車に乗ってバンク下のトンネルを通り、偵察に行きました。トンネルをくぐりぬけると、右側に1コーナー外側に登っていくダートの坂道がありました。1コーナーアウト側は、コーナー後半部分は観客スペースでしたが、進入側は危険なので立ち入り禁止区域になっていました。しかし歩いて進んでいくと、この立ち入り禁止場所を区切る金網が大きく破られ、人が簡単に通れる穴が開いていました。後学のため(?)と思い、ここにも入ってみました。するとすでに防護フェンスの内側、外側にも多数の観客が侵入していました。この時はまさか“あの”事故が起こるなんて想像もしていませんでしたが、レースマシンがストレートから1コーナーに入ってくるのが防護壁なしの真正面から見える所なので、子供なりにもその危険性は感じていたのかも知れません。
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朝確保した観戦ポイントに戻り、後は昼寝くらいしかすることがありません。午前中からその立ち入り禁止区域に入った観客を排除すべく、オフィシャルが何度も観客を説得している様子がよく見えました。しかしそこに入った観客は立ち退く気配も無く、最後にはパトカーの警察官も動員して観客排除を始める始末でした。しかし結局、妥協策として観客をタイアバリアの後方に残したまま、レースは開催されてしまいました。
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午後1時3分、レースはスタートしました。ポールポジションを獲得したロータス78のマリオ・アンドレッティはスタートで出遅れた挙句、2周目の100Rでコースアウト、クラッシュしてしまいました(ロータス78を見に行ったのに・・・・ーー;)。
チームメイトのニルソンはこのレースのみの(衝撃的)ワインレッドのインペリアルインターナショナルカラーで走っています。
出だしからハントのマクラーレンM26が独走です。
ニキ・ラウダはこの年、すでにチャンピオンを決定してしまったので日本には来ませんでした(ラウダを見に行ったのに・・・・ーー;)。その代役で、新人のジル・ビルニューブが中団で走っています。
この年デビューした初の1.5LターボF1、ルノーRS01は熟成不足を理由に富士には来ていません(ルノーを見に行ったのに・・・・ーー;)。
フェラーリ312T2、ブラバムBT45アルファ、“ブルーフェラーリ”ことリジェJS7マトラの3種の12気筒の圧倒的サウンドは全部音色が異なり、中学生の頭をかき回す音楽でした。
ティレルP34の6輪マシーンを駆るピーターソンとディパイエの2人は、明らかにアンダーステアなクルマで苦戦しています。
トップ独走で、すでにレースが膠着状態になった6周目、事故が起きました。ティレルのロニー・ピーターソンを後ろからつついていたビルニューブが、1コーナーに向かう減速でピーターソンに接近しすぎました。視野の右端にこの様子が見えた次の瞬間、ティレルの右後輪とフェラーリの左前輪が当たり、フェラーリは宙に舞い上がりました。まるでスローモーションのごとく回転しながら飛行するF1マシーン。シャーシ下面をこちらに向け、フェラーリの180度12気筒の下にある、白い耐熱塗総のエキゾーストパイプがはっきり見えました。飛んでいった先にはまさに、立ち入り禁止区域に入った観客がいました。その真っ只中に飛び込んだフェラーリは観客を何人かなぎ倒し、コース先の数メートルある斜面下に落ちました。ピーターソンはリアウィングをもぎとられ、1コーナー分岐近くのコース上でスピンしストップ。私自身はあまりのアクシデントに、当事者2台や遠目に見えるコーナー先の観客から目が離せませんでした。
レースはそのまま続行されました。5~6分後でしょうか、マシーンから脱出した小柄なジル・ビルニューブがヘルメット姿でコース上に現れ、怪我をした様子も無く、他のマシーンが途切れたのを見て、小走りにコースを横断し、ピットに帰っていきました。
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その後のレース自体は消化試合みたいなもので、甚だ退屈な展開でした。この事故で2人の犠牲者が出たことは、翌日の新聞報道かTVで知ったのだと思います。
レースを見届け、終了後の帰りは大変でした。何しろ駐車場でクルマを動かし始め、メインゲートを出るまでに約6時間かかりました。東京に帰りついたのはほぼ午前様前後の時刻でした。
ジェームス・ハントはレース後、“Bad race!”と一言残し、表彰式をボイコットしさっさと宿へ向かってしまったそうです。
因果な話ですがハント、ピーターソン、ビルニューブとも、すでに故人となってしまいました。
当時のオーガナイザーはこの事故でショックを受けたのか、翌年からの日本GP開催は夢と消えてしまいました。無論この事故は翌日以降の新聞他マスコミネタになり、様々な余波を残したため、役所体質のの主催者は手を引いたという所なのでした。F1レースがついに日本で毎年見られると思って喜んだナマイキな中学生の夢はもろくも消え去り、その後鈴鹿にF1がやってくるまでさらに10年の月日が必要となりました。
★当時まだカメラというモノを所持していなかったため、写真は雑誌等の資料しかありません。画像は最近自分で描きおこした70年代のクルマの素人イラストです。いずれも1976年型ですが^^;
Posted at 2010/05/25 23:36:54 | |
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