2025年11月03日
子供の頃に成功体験が無いまま大人になると、努力できない人間になります。
諦めたらそこで終わりです。
すぐにはできない事でも、諦めずに続けていれば、必ずできるようになります。
何かで成功体験をする機会があれば、自然に努力する事を身に付けられるかもしれませんが、そうでないのなら言葉で教える事も必要だと思います。
努力に大切なのは、他の人に負けない事です。
負けてばかりの人生はつまらないものです。
悔しさをバネにする事が大切です。
誰でもオンリーワンなのは当たり前なのだから、その中でナンバーワンになる事が重要なのです。
人間は頭が良い人もいるし、頭の悪い人もいます。
上には上がいるし、下には下がいます。
ナンバーワンを目指していれば、ナンバーワンにならなくても少しでも上にはいけます。
ナンバーワンになるつもり本気でやってみる、これ以上できない限界まで努力する、子供の頃にそういう経験ができたら、きっと大人になっても同じ事ができます。
ナンバーワンになれなくても良いのです。
本気でナンバーワンになる為に努力する、誰にも負けない気持ちで何かに熱中する、そういう体験が必要なのです。
それだけやれば少しでも結果が付いてきます。
そしたらその頑張った事を褒めてやれば良いのです。
その親からの評価が子供にとって最大の報酬になるからです。
Posted at 2025/11/03 21:16:30 | |
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戯言 | 日記
2025年10月26日
個人的には、かなり時間がかかると思いますが、いずれ宗教は淘汰されて無くなると思っています。
自分自身は無宗教に近い仏教徒という認識です。
個人的な感覚と、後は家が浄土真宗なのもあって、現世利益にはかなり否定的です。
神とか仏とかに願っても、それが叶う確率は願わなかった時と変わらないという事です。
一つやって欲しいのが、例えば受験生に神社とか寺に行って祈願してもらう組と、一切そういうのをしない組に分かれて、それで合格率が変わるかという実験です。
これだと祈願した組の方が僅かに高くなると思います。
本人のモチベーションが変わるからです。
でももしこれが宝くじが当たる祈願だったらどうでしょうか。
多分、祈願しようがしまいが、何も変わらないという結果になるはずです。
当たり前ですが、現実的では無いものを変える力は、神にも仏にも人間にもありません。
全ての物事は因果関係によって起こりますが、それは人間が期待するものとか都合が良いものだけが起こるようにはなっていません。
生きていれば、人間にとって良い事も起きるし、悪い事も起きます。
良い事ばかりを期待する人間のエゴだけが膨らめば、それこそ何一つ思い通りにならない人生を歩む事になります。
深海とか宇宙とか量子とか人間には計り知れないものが沢山残っているかとは思いますが、例えば江戸時代より宗教的なものに頼る人は明らかに減ってるんじゃないかと思います。
確かに見えない何かを信じたいという気持ちは自分もわかるので、すぐすぐ宗教が無くなる訳ではないと思います。
一回きりの人生なので、後悔しないように生きたいとか、誰でも考えると思います。
死んでしまったらそれで終わり。
確かに人間の感覚からすればそれで間違いはないと思います。
ただ死んだ後はもう人間ではありません。
始まりとか終わりとか、そういう人間が理解できる感覚とは違った世界に生まれるのだと思います。
これはあえて、人間の言葉で説明すると「世界に生まれる」になるだけで、実際には言葉では表せないようなものだと思います。
人間は弱い生き物です。
それでも私はせめて神仏に現世利益を求めるような生き方だけはしないように思っています。
Posted at 2025/10/26 21:35:20 | |
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浄土真宗 | 日記
2025年09月09日
生きてれば、良い事も悪い事も起こります。
良い事ばかり起これば嬉しいでしょうが、そんな事はあり得ません。
良い事ばかり起こるのを紙や仏に願うのは人のエゴです。
明日、自分が死ぬかも知れない。
明日、自分の大切な人が死ぬかも知れない。
病気になるかも知れない。
交通事故に会うかも知れない。
私たちはそれが起こり得る世界に生きています。
そんな事が起こるはずがないと思うのも人のエゴです。
生きてれば良い事も悪い事も起こります。
何の保証もない中で生きてるのです。
何かを試練だと考えるのなら、それはそれを試練だと捉える自分がいるだけです。
試練そのものは存在しません。
自分が試練だと思わなければ、そこに試練は存在しないからです。
自分の意思と関係無しに世界は回り続けます。
自分に何かを変える力があるかと言われれば、私には少しの力もありません。
もし何かを変えられたと思える出来事があったとしたらその時は幸いかも知れません。
人は生まれたからには必ず死なねばなりません。
しかもいつ死ぬかを選べません。
自分も人もいつまでも生きていられると思うのは少し傲慢です。
いつだって死んでしまう可能性があるからです。
そういう事を考えると、生きてる今が尊く思えて、少しでも有り難い気持ちが芽生えるかも知れません。
何もわからずの世界に生まれて、思った通りには生きられず、そして病気になって老いて死んでいく。
その中には楽しかった事や嬉しかった事も沢山あるでしょう。
80年も90年も生きれば、時代が変わって生まれた時とは全く違う世界になっていますね。
その人の一生を想像すると、生きていた事が尊く思えるかも知れません。
時代を遡れば、人がまだいなかった時代、恐竜がいた時代、生物が海の中にしか住めなかった時代、地球が無かった時代、何億年も前から時が流れてて、この僅かな時間ではあるけれど、それでも人の感覚からすれば、80年でも凄く長い事のように感じます。
この世界の全てを私たちは知る事はできません。
今生きているこの意識が何なのか私たちにはわかりません。
死んだ後どうなるのか、誰も知る事はできません。
これからも世界は変わり続けます。
滅んでも繁栄しても、それはただの歴史の一部分なのでしよう。
良い事も悪い事も、ただの一個人の思いとは関係なしに世界は回り続けています。
Posted at 2025/09/09 00:58:07 | |
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戯言 | 日記
2025年08月30日
最初は意味のわからなかったインスタンスとかコンストラクタという言葉も、何回かやってみれば何となくわかってきて、いずれは当たり前のように使えるようになります。
列挙体、構造体、連想配列、コレクション辺りのクラスモジュールを学び始める前後で関わってくるような概念も、最初は難しく感じますが、理解できてしまえばそうでもない事に気付きます。
年を取って自分の立ち位置が変わってきて、幅広い知識が必要だと迫られた時に、何が重要なのか考えるとそれは「インプット」だと思います。
簡単には理解出来ないような事でも、とりあえず自分の中にインプットしてしまえば、それは一旦引き出しの中に入ったという事なので、探せば出てくる(アウトプットされる)わけです。
インプットしてないと、探しても見付かる事はありません。
色々経験してると引き出しの数は増えますが、それは経験自体がインプットと同じだからです。
元々その人の特性で構造的な思考が得意だったとしても、引き出しの数が少ないと、ある意味それが役に立たない事になるのだと思います。
行き詰まったら、他の事をやれば良いのです。
同じ事をやっていては「インプット」が不足してくるからです。
それか単に映画を観たり、音楽を聴いたりしても良いのです。
一旦そこから離れれば、インプットしてなかったものが見えてくるからです。
Posted at 2025/08/30 23:38:13 | |
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プログラミング | 日記
2025年05月30日
私は何か特定の宗教を信仰しているとかはありません。
神社にも行かないし、初詣にも行きません。
寺に行くこともなければ、墓参りも行かないし、ましてや仏壇に手を合わせる事すらしません。
でも誰かが神社に行くならば一緒に行くし、たまに本家に行った時に気まぐれで仏壇に手を合わせる事もあります。
カルト宗教が洗脳したりする仕組みとかは興味深いし、興味本位でどんな宗教のことで調べたりします。
よく言われる信じるものしか救わないケチな神様だったなら、それは神様なんかではありません。
私は家が浄土真宗なので、それに似ている感覚の中で生きています。
もう既に救われている、人としての命が終わったら、苦しみのない世界に生まれるというものです。
そこ行く道をただ歩いてる訳です。
私達がお願いしてそこへ行く訳ではありません。
善人だろうが悪人だろうが問答無用で救われて、同じ世界へ辿り着く訳です。
今、全てを救うと誓った仏の願いが叶った世界に生きている訳です。
そんな寛大な世界の中にいるという感覚です。
苦しい思いばっかりしている人、犯罪を起こさないといけない人間に生まれてしまった人、上手く生きられない人、人は皆哀れなのです。
何もしなくても、誰もかもを救ってくれる神様がいるなら、それがホントの神様ではないでしょうか。
私たちはただ普通に生きてれば良いのです。
何を信じてようが皆救われるのです。
Posted at 2025/05/31 00:06:24 | |
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浄土真宗 | 日記