昨日うまく貼れなかった過去の沖縄の凄まじい台風のブログのリンクをページ下の関連情報URlにリンク貼れましたので、良かったらクリックしてご覧ください。<(_ _)>ちょっと面白いです。
で、今日は何をアップしようかな~とネタを考えていました。今日は趣向を変えてブログ書いてみようか・・・と思います。
で、僕のオヤジです。
車好きの僕を育ててくれたのが、僕のオヤジです。
大阪に生まれ育った僕。現在46歳。父39歳、母36歳の時に大阪で産声をあげた、ということは当時では高齢出産の子供(最近ではふつ~ですが)なのです。
で、ここで父の思い出と言っても、みんからなので車にまつわるエピソードで。
僕が物心ついた時から、我が家はどこに行くにも車でした。
僕のオヤジは、大阪の「都島工業高校」出身。で、機械、車大好きだったんですね~。でももちろん我が家は富裕層でも何でもなく、単なるサラリーマン家庭。父もサラリーマンとして生涯働き続けた人生でした。
オヤジの乗ってた車の記憶というと、僕の中にかすかにあったのは・・・

コレ。たしか、コロナマークⅡという車。でも思い出もほとんどない。
そして、我が家の車として僕の記憶にも残っているのが・・・

コレ。これまたマークⅡ。
この頃になると、サラリーマンのオヤジも会社でえらいさんになって、会社から新車を営業車としていただいていたようでした。
そして、営業車のはずですが、当時は全くルールなし。我が家のマイカーとなっているマークⅡでした。
次は

コレ
とにかく、我が家の旅行という旅行には必ず車です。
特に思いで深いのは、冬休みと春休みの年2回野沢温泉までの長距離運転。
夜通し父一人でおよそ12時間運転していました。
当時は中央自動車道も今みたいにつながっていなく、どこだったか松本の手前からは国道の下道を延々と走って行ってたように思います。
冬の夜中に、松本ドライブインで休憩。
アツアツの信州そばの味。今どこでおそばをいただいても、あの時食べた立ち食いの信州そばにはかないません^^;
我が家の恒例行事、お正月は野沢温泉。この風習は僕が6歳の時からでしたので兄は10歳と14歳。
お袋とオヤジと5名でこれらのマークⅡにスパイクタイヤ。キャリアーにはスキーの板5人分縛って、荷物満載で長野に向かって走って行ったのでした。
最初の数年は父一人12時間
僕が4年生10歳ごろになると、兄は14歳と18歳。
そのころになると、長男の兄貴が免許を取得。
すると、野沢温泉までの道のりの半分以上が兄が運転するようになり、父は大変な長距離運転の苦労から少し解放されたようでした。
更に、4年後。
僕14歳。そして兄は18歳と22歳。
そう、二男の兄も免許取得。
となると、兄二人で野沢への道を運転するようになり、どんどん父の運転する時間は減っていきました。
更に更に、その4年後。
僕18歳。免許取得。
この頃になると、父が野沢への道を運転することもなくなり、また中央自動車道も長野あたりまで延伸されていたように思います。
こうして、父が運転する時間はどんどん少なくなり、でもやっぱり車好きなんですね~
そして、最後は
いつかは、クラウン
そんな時代を生きた僕の父。
この頃、僕は社会人になったころかな~実家の大阪を離れ遠くで生活していたような・・・
そして、父が「いつかはクラウン」の言葉通りクラウンに乗り始めたってことを聞きました。で、良かったな~念願のクラウンに乗れてって思ったのですが、この頃になると僕も大人になり世の中のことが少し理解できるようになっていました。
クラウンを初めて見たとき
「あれ~、中古だ(゜o゜)」って。その時、僕も悟ったんです。
つまり、ある小さな大阪のお塩の問屋の専務さんにまで、頑張った父。
第一線で活躍しているころは、新車のマークⅡが確か4年ごとに与えられていました。そんな新車ばかり乗っていた父が、社長のお下がりとはいえ、中古のクラウンを乗ってたんです。
意味わかりますよね~(´_`。)
父のサラリーマンとしての晩年でした。
結局、このクラウンが父の最後の車となりました。
そんなオヤジ。
僕は今でも大好きです。
いろいろしばき回されたことも多々(^^ゞ
高校生の時は
ヘビメタ
ギターばっかり弾いてうつつを抜かしていた僕。
当時の愛機ランダムスター

を叩き割られ、その時に僕の部屋の天井にギターが突き刺さり、天井に穴が開いてしまいました。
たたきつけられた方の机は「への字」に曲がり、その衝撃を物語ります。
また、大学生の時のもう一つのエピソード
当時、免許取り立てで僕は大学生活の為に、岩手県三陸町にいたんです。車は母の愛車として父が数年前に新車購入した

KPスターレット
そう、前に愛車遍歴でも登場した僕の1台目の愛車です。
それをパチンコで大負けして、頭がブチキレ(-"-)、そのパチンコの帰り道。友達二人を乗せた状態で、三陸峠のダウンヒルで、
スピン、そして横転
当然、スターレットはくしゃくしゃになり、廃車。
この時、当時は携帯電話もありません。そんな時代でも電話はあったんですが、父からお叱りの
手紙
が届きました。それは便箋数枚に及ぶ父の直筆でした。
スターレットの購入のいきさつから、スターレットで我が家が笑顔になったエピソード。母の通勤車として長年活躍してくれたこと、様々楽しかったスターレットの絡む思い出が記載されていました。
そして、そんな我が家の大事なスターレットを廃車にした僕への説教でした。
涙が出やした(T_T)(T_T)(T_T)
このKPスターレットで事故ったその時、実は2台目の愛車となる

EPスターレットが実家に届いていたんです。
なので、横転事故を起こした瞬間の僕の頭の中
①やべ~Σ(|||▽||| )事故った。しかも友達乗っけてる、友達怪我はないか?俺は?
②よかった、俺怪我してない。友達もシートベルトで助かった怪我ないよ。よかった~(^^)v
③オヤジに言ったら怒られるだろうな~(・・;)事故を隠そうかな~バレたらもっとヤバいかな~
④車がないと、この田舎じゃ~生活できないな~
⑤KPは廃車だけど、俺にはもうすぐEPスターレットが来るもんね~(^^)v
⑥それまでの辛抱だ~^^;
と安易に考え、そのまま車から車検証、ナンバープレートなど、身元の割れるものを外し、峠に車を捨て、夜中にケーサツに見つかり、そのまま大船渡署へ連行される。という行動に繋がったのでした。
こっぴどく、お巡りさんにも叱られましたが、当時の僕。全く反省しませんでしたが、父からの手紙。
これは
反省しやした(T_T)
そして、すぐに来るはずだったEPスターレットの僕への納車は、父の意向でストップされ長らく実家の駐車場で眠ることになり、それから約半年ほど、車のない不便な三陸生活を送ったのでした。
そんな父も、その後数年経つと、晩年はアルツハイマーになりました。
そして8年前。他界しました。
決して、裕福ではなかったので、外車は一台もありません。
でも、車の楽しさを教えてくれたのはオヤジだったのかもしれません。
そんなオヤジの思ひ出でした(^^ゞ
長文読んでいただきありがとうございました<(_ _)>
また、明日からいつもの調子のブログにもどりま~す(^^)/