
MAG 三菱オートギャラリーにて。
ヒルマンはいすゞのノックダウン生産車として非常に有名ですが、説明板にある通り
三菱が外注先だったんですね。
「国産車100年の軌跡」(三栄書房・昭和53年刊)によれば、中日本重工業(名古屋製作所の前身)によるダットサン及びトヨタのボディ組み立てについて
・要望(図面)と違うボディが載せられて来た
・日産は痛く心証を害し、ダットサン113型から・・・トヨタはクラウンからボディを内製した
・これを見とがめた中日本重工業は、三菱500を作るキッカケと成った
と、述べています。が、此れについては
「まことしやかに伝えられるユニークな逸話だ。」
としており、また独自のデザイン変更については
「元機体メーカーのプライドの成せる業」
ではないか?としています。
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加筆分
再び「国産車100年の軌跡」(三栄書房・昭和53年刊)によれば、初期のトヨペットについて
『1952年3月17日、東京トヨタ自動車において 新型車SF、SFN、SFK の発表会が行われた。
(中略)
同時発売のSGトラック・シャーシーと一部パーツの互換性を持ちながらも、本格的な乗用車シャーシーであった。
当時トヨタ自工は自社内にボディ工場を持っていなかったので、荒川鈑金工業がSFを、中日本重工業名古屋製作所がSFNを、そして関東自工はSFKのボディを製造架装した。現代の感覚では、1台のクルマが製作工場ごとにまったく異なる外観を持つと言う事自体 理解しにくいが、当時は少しも珍しい事ではなかったのである。ただしユーザーサイドで車型を指定した場合、納期は大幅に遅れたと言う。』
『(新型1500ccのR型エンジンを搭載した)トヨペット・スーパーRHN(新三菱重工業ボディ)とRHK(関東自工ボディ)は、53年9月に発売された。』
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RHNとRHK はその新エンジンのパワーゆえ「神風タクシー」の異名をとったそうです。
これら1940年代終わりから50年代にかけての、いわばトヨペットの始祖たちの変遷は非常にややこしいんですが、歴史的には後のクラウンに繋がって行った と言う意味の事が書かれています。
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再び「国産車100年の軌跡」(三栄書房・昭和53年刊)によれば、戦後のダットサンについて
『1948年3月、(ダットサン)DAは流線型のボディに衣替えして、名称はデラックスセダンDBとなった。従来ボディの製造架装は犬塚製作所、京浜木材工場、住江製作所、倉田自動車工業、竹内自動車工業などの下請工場に外注していたが、
これらの工場の生産能力が不充分であったため、DBのボディは中日本重工業に発注された。』
犬塚製作所以下 数社の名称を知りませんが、日産グループを形成していった多くの会社のルーツ(或いは現存する)なのかも知れませんね。
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戦後の混乱期に
(とにかく何か作らなねば!)
と立ち上がった先輩たち・・・
(自分たちに足りない物は持ってるトコに頼もう)
その後は真にライバルとして切磋琢磨していったんでしょうね。
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Posted at
2015/09/21 00:17:47