
三菱オートギャラリー MAGにて。
左上:1960 三菱500
左下:1962 三菱600
右上:1962 三菱600コンバーチブル
右下:1964 三菱ミニカ
500も600もほぼ僕の記憶にありませんが、辛うじてミニカは覚えてます。
500はまるで途上国のクルマみたいに見えますが(いや実際に当時の日本は・・・)、600はずっとモダーンに見えますよね。
そして鮮やかな赤が目を引くコンバーチブルは第9回全日本自動車ショーの参考出品車で、これは1992のミニカFFのシャーシー上に復元・架装したものだそうです。
「国産車100年の軌跡」(三栄書房・昭和53年刊)によれば・・・
500 は1955年通産省による国民車構想への回答。
1960/4 登場、空冷2気筒OHV493cc21馬力エンジンをリヤに積む。
1961/8 ネーミングは500のまま594ccエンジンを搭載したスーパーDxを設定するものの、市場での人気を得られず、1962/7 初めてコルト名を冠した600にモデルチェンジした。
ちなみに国民車構想とは
①最高速度100km/h以上、定員4人、燃費は30km/L以上
②月産2000台以上の場合、工場原価は15万円以下、最終価格は25万円以下、エンジンは350~500ccを適当とする
通産省の目的は、この条件にかなうクルマを公募して同省が選定、財政金を投入してメーカー育成を図ると言うもので
しかし、当時の多くのメーカーはこのような厳しい条件を「無理」と判断していたそうで・・・
wiki記事によれば国民車構想についてこう書かれています
『(1958/3登場の・・・)スバル360は、それまで各メーカーが「実現不可能」と冷遇していた通産省の「国民車構想」をほぼ満足させる内容で、たちまち軽乗用車市場を確立した。ただし、富士重工の首脳陣および百瀬晋六麾下の開発スタッフの念頭にあったものとしては、シトロエン・2CVのスペック等を参考とした以下の要求
《定員は大人4名
車両本体価格35万円以下(実際の発売時は42.5万円)
当時未舗装が多かった日本の主要道路で、60 km/hで巡航できる事
生産台数を確保するため、三鷹工場(合併前の富士産業)で生産していたラビットスクーター用のエンジンの生産ラインを転用できること
簡易的な自動車ではなく、海外メーカーのノックダウン生産車やトヨタ・クラウン(初代)と比較して遜色のない「乗用車」であること》
の実現を図ったものであり、「国民車構想」にそのまま沿って開発されたものではない。』
『結果的に「国民車構想」は、通産省が自ら企画したそれに沿って開発・発売された「大衆車」に対して補助を行うことはなかった。しかし、それまで自動車とは縁がなかった一般大衆に自動車を身近なものとして定着させ、欧米の自動車先進国に対し、著しく立ち遅れていた日本の自動車産業に画期的な技術革新を促したという意味では、同構想は非常に大きな貢献があったとされる。一方、日本の自家用車の普及は、政府の方針にとらわれることなく開発されたスバル360の功績であり、国民車構想の影響はほとんどないとする意見もある。』
国民車構想がキッカケになったとは言え、独自の目標を立てて開発された と言う点ではパブリカが有名ですね。
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Posted at
2015/10/16 08:20:22