
寝酒ならぬ寝本(笑
・・・旧い本を本棚から引っ張り出して、読み返してます。
森 瑤子さんのエッセイ(1983年単行本)ですが、これは角川書店の文庫本。
当時の僕には、オトナの しかも遠い処に居る女性像の代表とも言えるんですよね。
で、エッセイって作られた話ではありませんから 返って面白い。
僕なんかとは、世代も住む世界も違った彼女だけど、読み返せばこの歳になって共感できる部分もある(基本的にオトコには理解不能かも・笑)。
そして やっぱり当時のバブリーな香りが滲み出ていて興味深いです。
『それはこの夏、シンガポールのホテルで、まず、起こった。
(中略)
ホテルのパティオに無数に立ち並んだ孔雀椰子が、王族の使う贅沢なセンスのように夜空に揺れている。重なりあう葉かげの背後に熱帯特有の青さをたたえた夜空が、今にも星をばらばらと とりこぼさんばかりの風情で、おおいかぶさっていた。
(中略)
パティオの他の席には、新婚の三組のオーストラリア人らしいカップルがいて、わきめもふらずに お互いの瞳の中だけを覗きこんでいる。
(中略)
道具だてはこの上もなくエキゾチック、申し分のないほどロマンチックであった。
にもかかわらず、そのパティオでお互いの瞳を穴のあくほど凝視めあって(みつめあって)いないのは、私たち夫婦だけ。
多分、結婚して十六年もたつ夫と妻には、お互いの瞳の中を深々と覗きあって とりかわす会話など、皆無なのに違いない。
(中略)
こんなはずではなかったのだ。私たちが望んだ南国の夜の情況は、こんなふうに、相手の顔から眼を背けあうことではなかった。
私はだしぬけに、泣きたいような気分に襲われて、思わずうつむいた。
ああ、もし私たちが二十歳若かったら、十五歳でもいい。あと十五歳、あと戻りが出来たなら。
(中略)
私が今涙ぐむのは、これほどの条件の中にいて、もはや自分たちが感傷やロマンから遠く離れ去っているという、認識のせいであった。
人生のなんという酷薄さ。
夫に知れないように、そっと指の先で目尻の涙を拭った。
その時であった。せめて傍らにいるのが夫ではなく、誰か別の男(ひと)であったら、と考えたのは。誰か別の男。たとえば、好きな男。情人。
そうすれば、私の心は再び妖しく動悸を打ち始め、瞳が輝き、唇はうっとり軽くひらくのか。
夜がなまめかしい意味を持ち、その夜の中でひっそりと咲き続ける花々の香りが強烈に鼻を打ち、熱風さえも愛撫のように感じられるのだろうか。
(中略)
あいかわらず無言のまま、私と夫はグラスを重ねた。固い透明な小さな音を響かせて、グラスが触れあい、もう一度だけ私たちの視線が出会った。そこに私は友情を見た、と思った。そう断言する寸前に、夫が飲みものの上に眼を伏せたので、確信ではなかったが、少なくとも、私の数少ない真の友だちの瞳の中にある温もり、居心地の良さに似たものが、彷彿としてはいなかったか。
そしてこのことは、私の胸にあふれるばかりの安心感をもたらせたが、その底で寂しさが、ざわざわと立ち騒いでいた。
私たちはシンガポールの一夜、暗黙の友情同盟を結んだが、グラスを合わせながらも、まだ諦めきれずにいる自分を意識していた。
(中略)
けれども、結局それで良かったのだと、考える。この結婚が決して譲り合わない二人の船頭・・夫と私と・・のために、何度も沈没の危機に瀕しながらも、かろうじて荒波を乗り越え、今ようやく穏やかな大海原を漂い始めたのを感じる。
(中略)
家庭という名の小船が決定的な暗礁にのり上げずにすみ、安定と言う最上の形容詞を与えられたことを今、安堵すべきなのだ、と。』
Posted at 2014/05/06 22:50:01 | |
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