2020年10月24日
ここは日本ではない。
何処か知らない国に来てしまった私は、ある借家に住む事になった。
借家は正面から見ると階段になっており、左右にそれぞれの部屋がある。
石で出来た階段に、テントを張った部屋が並んでいる。
階段が何処まで続いているのか私は興味はないが、奥へ行けば行く程、暗くなり、ジメジメと湿気が酷くなる。
階段の途中には銅で出来た錆びた扉があり、それには鍵が掛かっていない。
中に入ってしまえば、立って歩けない程狭い通路が続いている。
一番奥に何かがある事を知っているが、通路は迷路のように入り組んでおり、灯りもないので、うかつに入ると迷って出られなくなる。
私が部屋で休んでいると、おばさんが呼びに来る。
どうやら仕事の順番が回ってきたようだ。
いつからこの仕事をしているのか思い出せないが、少し疲れている。
仕事には慣れてきたが、あまり気が乗るような仕事ではない。
私は本当はあの扉に入ってしまいたいと思っている。
一番奥にある何かを見付けられれば、ここから抜け出せるような気がするからだ。
しかし、怖い。
中に入る事を考えると、途中で抜け出せなく感覚に襲われる。
そのまま私という意識が消えてしまいそうな、変な感覚だ。
そうだ、これは初めてではない。
中に入って出られなくなくなる人生を、私は何度も繰り返している。
もう永遠と言える位の時間が経っているのかも知れない。
とても退屈で、誰にも興味を持たれない、ただ漠然とその役割が与えられているようだ。
それでも私は扉に取り憑かれたように、そればかりを考えるのだ。
辿り着けば、今度は抜け出せる気がして。
Posted at 2020/10/24 02:06:32 | |
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戯言 | 日記
2020年10月21日
福岡市南区に『西鉄井尻駅』があります。
上ると『大橋駅』、下ると『雑餉隈駅』があります。
私は近くに住んでいたので、博多区の学校へ通うのに利用していました。
少し行くと『JR笹原駅』もあるのですが、井尻駅の方が近いし、福岡(天神)駅でバスに乗り換える際も利便が良かったので、西鉄を利用する事が多かったです。
ちなみにこの井尻駅、地元では自殺の名所と言われていました。
実際、人が飛び込んだとかで電車がよく止まっていましたし、駅周辺にブルーシートが敷いてあったりして、何かあったのかなと思う事もありました。
私は駅前のコンビニのポプラ(今もある)で、数年間アルバイトをしていたのですが、何故かよく落ちてたんですよね。
棚に陳列したはずのおにぎりとかお菓子とかが落ちるんです。
そこに誰もいないのに、突然棚から床へ飛び下りるようにぴょんと転げ落ちるんです。
勿論、私は店員ですので、落ちた商品を今度は落ちないように並べ直すのですが、しばらくするとまた落ちたりして、なかなか上手くいかない事もありました。
アルバイト仲間の話では、自殺した人の霊がいて、それがそういう現象を起こしてるなんて言う人もいましたが、私はそういうもんかなぁと特に深く考える事はありませんでした。
私は霊感ゼロの人間なので、別にそのコンビニに変な雰囲気も感じないし、怖くもありませんでした。
話が変わりますが、当時のポプラ井尻駅前店は直営店でもオーナー店でもなく、子会社みたいな所が運営していました。
私も融通の利くアルバイトだったので、中洲2丁目店、博多駅前店、井相田店、舞鶴店と、同じ会社の運営する店舗なら、出張してシフトに入ったりしていました。
立地柄、中洲2丁目店なんていうのは面白くて、昼は人っ子一人いない位がらんとしているのに、夜はそっちの人達でカオスと化します。
夜は配達もしていたので、私は当時は何が何なのかわからないお店にお酒を運んだりしていました。
博多駅前店は駅前なのに、客があまりに少なくて、何で潰れないんだろう?と思う位でした。
今でも博多に行ったら、必ず寄るのはこの店です。
井相田店は比較的田舎の方なんですが、大型トラックが停められる駐車場があったので、運転手の方が多かったです。
近くのJR南福岡駅は線路が多過ぎて、すぐ横の踏切はなかなか渡れなかった記憶が…。
舞鶴店も場所が場所で、親冨孝通りの外れにあったので、客は音楽関係だったり、学生が多かったです。
私は福岡市にいた頃は『親富孝通り』だったのですが、今は『親不孝通り』に変わってるみたいです。
私の在籍は『井尻駅前店』だったのですが、他の店舗にも回されたお陰で色々と面白い体験もできたのかなと思います。
もう15年位の前の話です。
あ、そういえば、井尻駅の話でしたね…。
Posted at 2020/10/21 21:09:23 | |
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戯言 | 日記
2020年05月19日
私は幼少期から13年程2Kのアパートに住んでいました。
6畳の和室が2部屋と、廊下を兼ねたような細長いキッチンがありました。
夜寝る時は、母と私と妹が同じ部屋に寝て、父だけ隣の部屋で寝ていました。
父は3交代の仕事をしており、遅番で夜中に帰ってくる事がありましたので、子供らが寝ている時は起きないように、部屋の間にあるふすまを閉めていました。
父は遅番の仕事が終わって、夜の11時頃に帰ってくると、テレビを見ながら、晩酌をしていました。
母も起きていて、食事の準備や後片付けをしていたと思います。
私は時々物音で目を覚まして、ふすまを開けて顔を出す事がありました。
そんな時、父は酒のつまみとして買ってきた焼き鳥を、私にも食べさせてくれました。
母は料理が得意ではなく、普段は味気のない食事をしていましたので、味の濃い焼き鳥がとても美味しく感じられたのを覚えています。
私は夜ふかしする習慣がなかったので、またすぐに部屋に戻って寝てしまいます。
時々そんな事がありました。
目を覚ましてしまったけど、寝てないといけないなぁとか、とーちゃんの焼き鳥を食べていいの?みたいな気持ちがあったのを覚えています。
今はもう日勤で働いている父ですが、昔は早番で夕方には帰ってくる父、遅番で寝てる時に帰ってくる父、夜勤で昼は機嫌の悪い父、色々あった事を思い出しました。
あの時食べた焼き鳥が美味しかったのです。
Posted at 2020/05/19 21:24:32 | |
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戯言 | 日記
2020年05月18日
祖母が生きていて、祖父がまだ元気で、私が子供だった頃、本家の畑に親戚が集まってごぼう掘りをしていました。
今となっては、その畑は殆ど使われていません。
人手が足りない事やその他の事情もあり、秋にごぼう作る事も止め、春に稲作をする事も止めてしまいました。
今のごぼう掘りでは機械を使うので、掘り起こされたごぼうを集めるだけで良いのですが、昔は人力で引き抜いていました。
なかなか抜けない時は、今になって調べて名前を知ったのですが、『掘り棒』という道具で、ごぼうの周りの土を深く掘ってから引き抜いていました。
また、畑に大量の水を流し込んで、ぬかるんだ状態にしてから、ごぼう掘りをする事もありました。
私が上手に抜けずに、茎の部分だけをちぎってしまった時は、近くで見ていた祖母が声を掛けてアドバイスをしてくれました。
大人達が集中して作業をしている中、子供の私も一生懸命手伝いをしていたと思います。
ごぼうを掘ったら、数十本ずつ集めてゴムの紐で束ねて、軽トラに乗せていきます。
この時、日光で焼けないように、毛布を掛けて保護します。
軽トラがいっぱいになったら、作業小屋に運んで、専用の機械で洗います。
洗ったら、茎の長さを揃えて切っていきます。
この時に予め余分な茎はむしり取ります。
むしり取る作業は祖母の役目でした。
洗う所までいけば、もう日が暮れかけているので、水を入れた浴槽に浸しておき、明日に備えます。
翌日は箱詰めです。
水に浸しておいたごぼうを取り出し、サイズ毎に選別していきます。
S、M、L、2L、3L、ベテランがしないと目利きが悪くて上手い事選別出来ないので、ここは子供の出番はありません。
通常は『秀』で出すのですが、状態が良くないものは『優』にする事があります。
選別したら長さを揃えて切っていきます。
切ったらサイズによって異なるのですが、2本か3本ずつ小分けの袋に入れていきます。
袋の頭を専用のテープカッターで、緑のテープで留めていきます。
これでスーパーとかで売られている状態になります。
流れ作業でやるのですが、このテープ切りがなかなかしんどい工程なのです。
何故ならテープを切った後、1箱分を10kgずつ計って、次の箱詰め工程に渡すまでが仕事だからです。
箱詰めは予め組み立てておいたダンボールに綺麗に揃えて入れて、ガムテープで閉じていきます。
そして、箱に入数やサイズのスタンプを押していきます。
サイズや1箱の重量は決まっているので、声掛けが大切です。
『今からMだけんね!』
『1袋足らんけん、次んとから1つ取って!』
『何袋あるや?12?13?』
箱詰めで完成品が溜まってきたら、市場に持っていきます。
軽トラ1台では乗りきらないので、乗用車でも運んだり、市場と何往復かする事もあります。
仕事が終われば、皆でご飯を食べます。
誰かが料理をする事があれば、ほか弁で済ませる事もあるし、出前のラーメンを注文する事もありました。
『今度んとは1箱いくらになっどか?』
『〜円て言いよらしたけん、全部で〜位じゃなかろか?』
『名前ば名の通っとるぜーた家で出すと高なるけん、ねーちゃん家んともうち家の名前で出さにゃんばい。』
『そぎゃんだんねー!』
『来週はまた何列か終わらせんと間に合わんばい。』
『なーん、ぜーたのかせしてくるっけん大丈夫ばい!』
本家では少なくとも曽祖父の代から兼業農家でした。
仕事に行きながら、土日は百姓をするスタイルです。
色々と思い出があります。
太陽の下、泥にまみれて、また農耕民族になりたいです。
Posted at 2020/05/18 23:04:35 | |
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戯言 | 日記
2020年04月15日
隈府小学校の入学式、体育館に並べられた椅子に座った事を覚えています。
入学式が終ると、確か1年2組の教室だったと思うのですが、皆集められて何かのビデオを見ました。
昔の教室は、天井からテレビを固定する吊り下げタイプのアームとテレビ台が生えていて、そこに分厚いブラウン管テレビが乗っていました。
プロジェクターなんてハイテクな機械はありませんから、前の方で見る人は上を向かなくてはならないので、首が痛くなるのです。
私が小学1年生の頃までは、今は無き当時の旧校舎がまだ使われていました。
もしかしたら、私の学年が最後の旧校舎の利用者だったのかも知れません。
それと私が入学した年から、一部の地区の生徒が菊池北小学校に行くよう分離されました。
水源、迫水、龍門小学校が菊池北小学校に統合され、私が隈府小学校に入学した年に菊池北小学校が開校となりました。
幼稚園の頃からその事を聞いていたので、同じ幼稚園の同級生も何人かは隈府小ではなく北小に行く事は知っていました。
桜の木の下で、親が友人同士の同級生の女の子と一緒に撮った写真が残っています。
あんまり覚えていませんが、写真が残っているという事は誰かに撮ってもらったのでしょう。
『覚えている事』
トイレの花子さん。
女子トイレの手前から2番目だったと思うのですが、誰もいないのにノックするとノックが返ってくるという『トイレの花子さん』が話題になりました。
ある日、先生がそれを確認する為に、ノックすると確かに返ってくるようで、先生は老朽化でドアから異音が出ているものだと説明していた気がします。
その事で盛り上がったのは一時期でした。
クラスメートに殴られる。
同じ地区のA君に教室のベランダで殴られるのです。
そして、『ごめん。』と謝って、再び殴るのです。
謝れば殴って良いのかと、また殴っても誤れば許されるのかと、子供ながらに感じた記憶があります。
ただ、強い悪意があったわけでなくて、悪ふざけだったので、私もそれに気づき、そこまで嫌な気持ちにはなりませんでした。
また、クラスメートに殴られる。
朝自習の時間、今度は隣の席のCさんに殴られるのです。
その子も同じ地区だったのですが、こちらは悪意全開です。
家で親からの体罰がある子だったのですが、それを真似してか、嫌がらせのように私を何回も殴るのです。
筆箱を取られて隠されたり、探そうとするとまた上から殴る、私にとって朝自習は最悪の時間でした。
私は反撃も出来ないよう生徒でしたので、どうにかして耐えていました。
今でも嫌な記憶として強く覚えているので、相当私にとってストレスだったのだと思います。
席替えをしたせいか、いつの間にかそれは無くなっていたと思います。
ガラスの音。
木造でボロボロの校舎です。
ドアを開ける度に、ガラガラガラと独特の音を立てるのです。
風が吹くだけで、廊下のガラスもカタカタと音を立てるのです。
キャラの強い担任。
小学1、2年の時の担任の先生は女性のK先生でした。
小太りで、顔に大きな黒子があったと思います。
面白い話や怖い話を学活の時間等に聞かせてくれました。
私はあまり叱られた記憶が無いのですが、一つだけ覚えているのは、掃除時間にほうきの使い方が違うと注意された事です。
先生がお手本を見せてくれたのですが、私は違いが分からず、使っているとまた先生に注意されました。
毛先が減って、なかなか掃けないほうきだったので、使うのが難しかったのかも知れません。
『あのね』が言えない。
『あのねノート』というのがありました。
何に使ったのか具体的な事を忘れてしまったのですが、あのねノートの『あのね』が言えないのです。
吃音症がある人は言葉の最初が『あいうえお』だと、なかなか言葉が出ない事があるのですが、私がどもりの症状として覚えている一番古い記憶です。
教室の自分の荷物棚に置かれたあのねノートを見て、言おうとするのですが、なかなか言えないのです。
給食当番で他の校舎を通る。
旧校舎は平屋で、運動場から見て手前が1年生、奥が2年生でした。
隣の校舎は第二校舎というらしいですが、給食室は第二校舎の隣にあるのです。
1年生の私は2年生を見て、凄く年上な印象を持っていたのですが、給食当番の時は3、4年生が使っている校舎を通るのです。
普段は通らない所なので、少しいつもと違う雰囲気だったのを覚えています。
私が2年生に上がって、旧校舎の解体が始まったので、私達の代は2年生で第二校舎を使う事になりました。
学年が上がる時に教室の移動作業があって、初日私は勘違いして全然違う教室に入ってしまいました。
焼却炉。
今と違って、昔は家庭や学校でも、ゴミを燃やしていました。
掃除の当番が教室の集めたごみを焼却炉に持っていき、焼却炉にいる先生に渡して燃やしてもらうのです。
外には外庭掃除がいて、焼却炉の前で喋ったりして、少し掃除をサボるのです。
煙突のある焼却炉、今の学校ではもう見る事はありませんね。
久しく隈府小には行っていませんが、私達の時の新校舎が今では旧校舎になっているとか。
暇な時にブラっと行って、気軽に入ってみたいのですが、そんな事をしていると今は不審者になってしまうので、そうはいかない時代になりましたね。
Posted at 2020/04/15 19:40:57 | |
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