
一般的に中華製品や物産に対する評価は芳しくない。若しくは、「安かろう・悪かろう」という範疇において評価されている。
ウチの家内も「これは中国製だから。。」といって、食材を買うのをためらうことがある。喝!
「お前は国粋主義者か!西洋崇拝主義者か!」
ちなみに、中華という意味はエドワード・サイードがオリエンタリズムとして、西洋人が東洋諸国を一律に定義したようなある種の差別的な語感のある言葉どころか、自身の国が一番であるという明確な意図を表現した言葉である。
私はだからといって、大陸中国を批判しないし、そういう考えがあってもいいと思う(もう数千年も続いているのだし)。
日本にもそういう高飛車な面もあるし、江戸時代には日本を中華とする、つまり、日本こそが一番であるという発想をする知識人たちも多く、それが明治維新後にも繋がった面もあるかと思う。
さて、たとえば、大方の市井の民にとっては、中華産鰻の値段は非常に魅力的ではないかと思う。
四千円の鰻を食べるのであれば、千円で牛丼屋の鰻を食べる。
これが市井の民の姿勢としては健全な消費行動ではないかと思う。
私個人的には、四千円を我慢するという発想はなく、おいしい鰻屋さんに行くという目的や意欲があるときであれば、高い鰻屋さんに行ってしまうけれも、
毎回、四千円のお店に行くわけではなく、牛丼屋さんで食べることもある。
美食家たらんとする気はないし、価格による記号に踊らされているだけで、実のところ、どちらに価値があるのかなんて、わかりやしないのだ。
これが資本主義の実勢ではないか?
今やどの国の製品が使用されているかなんてことは原材料から含めれば複雑錯綜していてわかりにくいし、普段から国産愛好家をきどっても仕方あるまい。
要は既存のスキーム(中華=イマイチのもの)から抜け出すことだ。ノマド的な思考が要請されている。
といいながら、私は中華料理とアジアンエステ以外は、あまり利用しない。
製造が中華というパターンはあるのかもしれないけれど、タイヤも国産が多い。
これは別に中華への低評価によるものではなく、単に欲するものが、タイヤの場合、国産だったというだけの話である。
中華製品といえば、インプレッサに後付けの空気圧モニターを設置している。説明書がすべて中国語ならはっきりわかるのだけれども、要領を得ない日本語で解説しているので、まずは解説書は解説書でないと割り切ることが必要だ。レヴィ・ストロースの言を借りるならば、「文明の思考」というものは捨てきったほうがいい、ブリゴラージュを駆使して、野生の思考を以て、すなわち、状況に対して柔軟に対応しながら、
問題を都度、解決していくことが必要な場合が多い。
さて、空気圧モニターだが、3キロ以上の圧が入ると、警告音が鳴ることになっているのだが、その音が非常にやかましく、ネイティブらしからぬ発音でおそらく空気圧が高まりすぎていますと述べているのだろうが、聞き取りは困難である。
警告音の調整などできないし、解説書を見ても、よくわからない。
適当に何度もボタンを押してみる。「空気圧の表示の値を設定されました」
という日本語が流れるのみだ。
よし、ブリゴラージュな発想をしてみよう。このボタンはこういう機能があるという先入観があるからいけないのだ。その先入観は日本人独自のものではないか。
そのように考えた私は、おそらく警告音(これはどうも物理的に音を発する基盤を破壊しないと無理っぽい)が鳴るレベルの設定変更に成功したのだ。
夏場で3キロくらいは上がっちゃうよね。
まあ、野生の思考の一例であり、モニターとしては非常に優れていると思うので(しかも二千円もしなかった)、今でも愛用している。
どちらかというとトラックやダンプが走っている印象の強い街にこじゃれた喫茶店を見つけた。ニューミニが停車しているくらいなのだから(記号に毒されている?)、おしゃれなお店なのだろう。
なるほど、この近辺では珍しいくらいにしゃれている。白金や青山にいる気分である。
駐車場入庫時に心地よい排気音を響かせられてよかったなと心から思う。
昼過ぎに馴染みのお店に来店。相変わらず、ダットサンフェアレディ風のロードスターが放置されたままだ。
ここで、Hさんが、スズキの某車とホンダの某車のどちらが良いですかと聞いてくる。「ん?」予想だにしない展開。
じゃあ、ホンダ車で。スズキ車はさんざん乗っているし、私は実のところホンダ車が好きなのだ(なので、過日もEK9に乗った)。
VTEC非搭載のホンダライフの走りはなかなかのものだ。しかし、以前、筑波山で登坂できずにいた個体(本当に登らなくなる)とは違うような気もする。
足踏み式パーキングでなかった気がする。
筑波の中腹で必死で停まったときのライフはハンドブレーキだったと思う。
が、今回は筑波の裏道再挑戦はせずに、布施弁天でスイーツ。もうメシを食べている人もいるようだけれども。
境内前の駐車場で骨董市が開かれていたので、思わず買ってしまった。カウンタックはLP400や500Sに限ると思うほどの世代ではないけれど(アニバでもOK)、当時の国産車と比較すると、
欧州車のレベルは動力性能だけをみてもすごいものだったのだなということが改めて思い知らされる。昔は外車は金持ちが買うものだという風に言われていたけれど、実際に販売価格も為替を考慮しても高かった。一方でアメ車はビック3以外のスモールカンパニーであったAMCから出たロードペーサーみたいなクルマがあって、それはそれで今見るといいなと思う。
当時は日本の厳しい排ガス規制の絡みで日本への輸入もごくわずかで、そしてしばらく途絶えていたという。
ぶらり旅でも立ち寄った馬橋の煎餅屋さんに立ち寄ろうとしたのだけれど、カーナビの画面が無いだけでも(普段は遠出しても明確な目的地が無い限りはナビは使わないけれど、画面は参照している)、自分がいかに道を覚えられていないのかということがわかり、愕然。
概略的な地理感覚はあるから、迷いまくったということはなかったけれども、文明の利器って本当にいいものなのかね。
オーストラリアの原住民で、方向感覚が抜群の民族がいて、自分がどの方角を向いているのかがわかるそうだ。が、その原住民の抜群の方向感覚も都市への移住とともに薄れていくのだそうだ。どちらがいいわるいの問題ではないけれども、我々が利便性を求めて何かを作ったり、成し遂げようとしたときには、そこにはある種の喪失が伴うように思える。
さて、そういうわけで、なんでも国産というスキーマを捨ててしまおう。
鰻も四千円のものの方がうまい気がするけれど(食べる場所も要因としてあると思われる)、所詮は記号に踊らされているだけかもしれないから。
