
先日、写真展「福井空襲80年~記録写真で振り返る~」(福井県立歴史博物館)に行って来ました。
『昭和20年7月19日の福井空襲では、福井市街の約85%、市民の90%が被害を受けました。
戦後80年の今年、当時の記録写真から、福井空襲について振り返ります。』
当時16歳だった母から聞いた話・・・
その夜、”空襲警戒警報”が夜半に”空襲警報”に変わり、程なくB29の轟音が聞こえて来た。
普段から心構え・物の準備が出来ていたのでしょう(なんせ米軍が上陸してきたら竹槍で応戦すると言う訓練までさせられていたそうですから・・)、4人の弟たち(つまり僕の叔父さん達)に防空頭巾を被せ
『新田塚のお宮さん(現福井市新田塚町・
新田塚に眠る悲運の勇将、新田義貞)で待ってろ!お姉ちゃんとお母さんは直ぐ追いかけるから!!』
父(僕の祖父)は既に戦前に亡くなっていたそうで、この時の家は現・福井市田原2丁目付近、松本通りから少し北側に入った所だったそうな。。。
弟たちを送り出したが、そうこうして居る内に段々とB29の轟音が迫って来る。彼女の母親(つまり僕の祖母)は腰を抜かして一心不乱に仏壇にお経を唱えていたと言う。母を家から引きずり出して、外に飛び出たら 数km東の方(松本町・町屋町方面)は照明弾によって通りが昼間の様に明るく照らされ、恐ろしい音と共に焼夷弾が炸裂。。。
道中振り返ると、大きな三角屋根の工場が炎に包まれて崩壊するのを見たが それが何だったかは分からない。
間一髪で市街地を抜け、通称「芦原街道」を北上し「新田塚」で弟たちと無事再会したという。。。。。
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翌日、家に帰ってみると
と言うか 福井市街地は一面の焼け野原だったが
植えていたサツマイモが空襲による火災によって
『ほくほく』
に焼けていたそうで(笑
普段から空腹を抱えていた故に
『その美味しさといったら!!!』
こう言う事は人生何があっても忘れないんでしょうねぇ。
出来れば母に この話を再度聞きたい僕です。
※画像右の古い
「九十九橋」の欄干は僕の記憶にもちゃんと残ってます。
Posted at 2025/07/26 22:52:55 | |
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