今日は真面目な内容です。
最近、何かと指導と暴力の是非が話題となっていますね。
世論としては当然暴力否定論が大勢でしょうか。
この点について、少し自分の体験と照らして頭を整理してみました。
まず・・・・指導と称して暴力をする場面の典型例を想定すると・・・
①親の子に対する指導
②(学校・塾・他)先生と呼ばれる人の生徒に対する指導
が大半でしょうね。
まず前提としてなぜ暴力がダメか?
それは言うまでもなく、有形力の行使によって権利を侵害するからです。
では、なぜ、①、②の場面で、暴力が一定程度許されるという意見が出るのか?
それは、主に
加害対象が未成熟者であること等の事情から言葉で伝えても効果がない・・・
行為者の目的は加害ではなく、指導である・・・
行き過ぎた暴力と評価できない程度の有形力の行使であれば現実的にやむを得ない・・
といったところではないでしょうか?
ただ、ここで疑問となるのは、それぞれの理由に対応して、
言葉で伝えて意味を理解できない人に対して暴力をふるって、その行為によって伝えんとしている事情が本当に伝わるのか?
後者の理由につき、外形的行為それ自体は全く同一でありながら、当事者の主観によって、正当化されるのか?
暴力の違法性を検討する上で、被害の程度問題は考慮されるのか(責任非難の対象は行為ではないのか)?
という点です。
更に、学術的、統計的、あるいは専門家の意見の大勢によれば、
言葉でいって伝わらない人に対して、言葉のない(言葉が不十分な)状況で暴力をしたところで、対象者に真意は伝わらない。
指導という目的があったところで、行為自体は同じであり、更に、行為者が確信犯的に考えていれば、その違法性がないということについては論理の飛躍がある。
被害程度は行為の結果生じたものであり、行為それ自体が非難の対象となる以上、被害の程度問題は違法性の有無の判断において考慮されるべきではない
となるのでしょう・・・。
そうすると、指導目的による暴力は絶対的に許されないということになりそうですが、さて、では、なぜ暴力が一定程度許容されるべきという考えの人が存在するのでしょうか?
それはもっぱら実体験によるものではないかと思います。
例えば、私は、暴力はいかなる理由があろうと絶対に許されるものではない、というのが本心ですが、心のどこかで、その正論だけでは上手くいかない場面が、現実にあり、言葉を備えた一定の有形力の行使が効果的な場合もあるのではないかと思っている自分もいます。
それは以下の経験からです。
私は、中学3年生の頃、高校受験のために塾に行くようになりました。
ところで、その塾の女性の先生は暴力的な先生で大変有名な先生でした。
問題が解けないだけで往復ビンタなど日常茶飯事です。
目の前で往復ビンタというものを見たのもその塾が最初で最後です。
その塾で往復ビンタをすることは当然子どもらの親も容認しているという不思議な世界でした。
私はただ叩かれるのが嫌という一心で勉強をしました。
その結果、当初、勉強しない日もあり、するときでも1日1時間であった勉強時間が・・・2・・・3・・・・・と増えていき、勉強しない日が減っていきました。
このようにして、中学3年生という限られた1年間を食事と同じように毎日勉強するクセがついたために、
大学生の頃には卒業単位をとった後の2年間は、8時から22時まで勉強し、休憩はお昼休みの1時間だけという生活を続けました。
当然、その間、勉強しなかった日は一日もなく、妹の大学合格祝の家族旅行先にも参考書をもって、家族が寝静まる中一人起きて読んでました(笑)
今、思えば、異常な生活をしていたわけですが、当時は何ら苦ではなく、読書が好きな人が読書をする時間が遊びの時間と同じになるように、勉強が好きで、遊んでいる時間に等しいと感じるようになっていました。
当初は、叩かれるのが嫌で始めるようになった勉強が、1年間続けただけで、その後も日常生活の一部となったわけです。
大学進学後、改めて中学時代のお礼にいくと共に、同塾でバイトをしたこともありますが・・・塾長は昔のままでした・・・
さて、中学校に振り返って、その暴力塾に行っていなければ、どうなっていたのか??
それはわかりませんが、少なくとも違う進路選択をしていたように思います。
誤解されると困るので、一言添えれば、暴力を肯定するわけではなく、むしろ本心では否定したいです。
しかし、現実に、一定程度の指導としての暴力を容認する人がいるということは、
自分の経験で昔は暴力的な指導がされており、今は甘すぎる!俺が昔理不尽な暴力を受けていたのであるから、現在もそうあるべきだ、というように、過去を回帰して、現在もそうあるべきだと引き直す発想の方。
過去の経験において、暴力的な指導によって、結果として良かったという経験を通じて、指導の一態様として考察すべき一方法ではないのか、などと疑問を呈する方。
自分が実際に暴力を振るったことがあるために、指導としての暴力を否定することが、自己の行為をも否定することに結びつくため、何らかの理由をつけて正当化せざるを得ない方。
などといったケースがあるのかなぁと思いました。
さて、今後、私が、子どもたちを育てていく中で、暴力は絶対に許されないという意識を持って、日々を過ごそうと思いますが、大事なのは指導としての暴力を加えようと瞬間的に頭をよぎった瞬間です。
その瞬間どうすれば良いかな?と考えてみました。
結論・・・手を出す前に
これでこの子は俺の真意を本当に理解できるのか?
俺は指導ではなく、怒りの発散方法として、手を出そうとしていないか?
この暴力がその子のために本当になるのか?
と一瞬でも考える時間をおけば、怒りに任せてすぐに手を出すという行動にはならないのかなぁと思いたいです。
指導としての暴力については人それぞれの考え方があるので絶対的な答えはないのかなと思います。
それでも幼い子どもたちが暴力を直接・間接の原因として取り返しのつかない事態になるニュースを見ると、同じ子を持つ親としては本当に心が痛みます・・・・。
子育てに励んでいる皆様、暴力に頼ることなく、共に頑張りましょう!!^^