皆さまこんばんは。
今日の京都府南部地域は日中は青空も覗いてましたが
今の時間はどんよりとした雲に覆われております。
だいぶ日中暑くなってきましたね。お身体御自愛ください。
さて、昨日は明治38年5月27日の日露戦争海軍最大の決戦「日本海海戦」が
あった日でありまして、レガシィアウトバックで単艦横須賀に行って参りました。
記念艦三笠での戦捷記念式典に出席するためです。
私は三笠保存会の終身会員でもありまして、毎年出席したいところですが現役のサラリーマンの悲しさで土日しか動けません。
今回は10年ぶりに参加が叶いました。
1200過ぎに三笠公園内の記念艦三笠に到着です。
公園入口には東郷平八郎聯合艦隊司令長官の銅像がお迎えです。
ここの公園は猿島への船の発着場でもありますので、たくさんの人で賑わっておりました。
信号旗「Z旗」の標識の下が記念艦三笠のおみやげ屋さん。
三笠を艦尾から撮影。昭和20年まではこの日が海軍記念日として海軍の重要な記念日でして、満艦飾で飾っています。当時は夜は電灯艦飾やサーチライトの照射も実施されていました。
後部甲板には紅白幕が展張され祝宴の用意がされておりました。
左舷から一般の観覧者は乗艦します。
艦首方向から。ご覧のように海に浮いているのではなく船体はコンクリートで固めてあります。
式典会場の受付を済ませ、艦首下入口から乗艦すればそこが式典会場でもある講堂です。式典は1330からでまだ時間がありますので艦内旅行(海軍ではこういいました。)を致します。乗艦するのは10年ぶり・・・。
前部砲塔、戦艦の甲板は木材(チーク材)が敷き詰めてありました。
艦橋に上がります。
露天艦橋直下にある司令塔。分厚い装甲に囲われた部屋で戦闘になると指揮官(三笠の場合は聯合艦隊司令長官)と幕僚がここに入り指揮をする。
露天艦橋。
明治のこの時代の戦艦はまだ主砲弾の飛距離も短く、艦橋及び敵艦の距離を計測する測距儀も低い位置でよかったが、昭和の時代になると艦橋トップは上へ上へと主砲の飛距離の増大と共に高くなりました。
写真で床から伸びている筒状の先がラッパになっているのは「伝声管」といい、艦内各部へパイプが通じており、艦橋からの指示により声で伝達していました。
昭和になってもこの伝声管は残っていました。海自の護衛艦でも古い船はありましたね。
東城鉦太郞画伯による「三笠艦橋之圖」。海戦中指揮を執る東郷長官以下幕僚が描かれている有名な絵です。
上の艦橋の写真に床にステンレス製のプレートが数個あります。
これは三笠艦橋の圖に描かれた東郷長官と幕僚の位置を示すプレートです。
日本海海戦での聯合艦隊司令部は司令塔に入らず、三笠艦長以下各科長と共に戦闘指揮を執りました。
加藤友三郎(後の首相)参謀長が何度も東郷長官に「長官、ここは弾よけがありませんから、司令塔にお入りになりませんか?」と促しても「おいどんはここがよか。おはんらが入りなさい。」と断固として固辞されたとのことです。
ロシアバルチック艦隊と4000メートル前後の至近距離で撃ち合いましたが、長官と参謀長など幹部は奇跡的に無事だったとのことです。
会戦後東郷長官が艦橋を降りると長官の足元だけチーク材の木の床が濡れていなかったという逸話まであります。
露天艦橋から前部砲塔を見る。
艦内に降りて各部の展示を観覧です。
東郷平八郎大将の実物軍服が展示されています。
写真手前は「正装」。別称大礼服で最上位の礼装です。この服に所持する勲章全部佩用します。
正装の向こうは「通常礼装」。上から三番目の礼装です。この服に正装の正肩章と大礼帽を被ると二番目の礼装のその名も同じ「礼装」になります。
海軍の軍服は上から
正装、礼装、通常礼装、軍装(紺の一種、白の二種)となります。大正に入ると青島攻略戦などからカーキ色の軍装も制定し、昭和には南方用の防暑衣、第三種軍装なども制定されました。
艦内旅行を終了し、1300に着席します。まだ来賓席もまばらですが5分前にはほぼ埋まりました。
式典は三笠保存会事務局長の司会で定刻開催。
開会の辞、国歌斉唱、黙祷、主催者挨拶、来賓挨拶(自衛艦隊司令官、米海軍第15駆逐隊司令)、来賓紹介(横須賀地方総監、護衛艦隊司令官、国会議員、県会議員他)、祝電披露、閉会の辞。
その後は前甲板にて横須賀音楽隊による演奏会が開かれました。1420~1450。
演奏曲は日本海海戦(海路一万五千余浬)からはじまり、7曲程度でしたかはっきりとは覚えておりません。艦首の前甲板に音楽隊が陣取り観覧者が露天艦橋まで一杯で、演奏に口ずさんでおられました。
又三笠公園の散歩の方も足を止め、花壇に腰掛け演奏を聞いておられ手拍子と拍手も盛大におき、よい演奏でした。横須賀音楽隊に感謝です。
ラストはお待ちかねの行進曲「軍艦」。
司会の「海軍軍楽隊から海上自衛隊音楽隊へと受け継がれ、先人たちと同じくここ三笠艦上で演奏できることは、わたくしたち音楽隊員にとっても感慨深いことです。歴史に敬意を表して演奏致します。行進曲「軍艦」」。
帝国海軍の時代から海上自衛隊へと途切れることなく受け継いでいる、伝統を背景に我々は意義深く演奏するという気概が言外に表われている良い紹介でした。
次に場所を後甲板に変え1500から祝宴です。
後部砲塔の連装砲塔の下で自衛艦隊司令官齋藤聡海将の開宴の挨拶。
齋藤海将主要幹部は御夫妻で参加です。こういう儀礼には御夫妻で参加というのが国際儀礼(プロトコール)です。
乾杯の後はたくさん飲んで食べて会話して、歓談させてもらいました。
京都からの参加ということでも話が盛り上がりました。
私にお声かけいただいた老御夫妻がおられまして、お話を伺うと海軍兵学校77期のオールドネイビーの方で兵学校の話題に花が咲きました。
又昭和14年生まれの方は戦後満州からの引き揚げで父上が満鉄助役で助かった話を聞かせていただきました。
女性の参加者の方とも会話し海自から入って艦これで帝国海軍に興味が出たとの会話とか、若いカップルの方からは海上自衛隊への期待と帝国海軍の再認識が皆さんから語られ意義深い式典、音楽演奏、祝宴でした。
最後に三笠保存会理事長井上力元海将へもご挨拶し、舞鶴地方総監時代のお話で盛り上がりました。
武漢コロナで自粛していましたが、昨年は小規模の開催で今年は制限なしでの開催となりかなりの盛況でしたが、武漢コロナ前はもっと凄かったとのこと。
最後までご覧いただきありがとうございました。
是非横須賀鎮守府管下(帝国海軍時代・・・)の記念艦三笠をご観覧ください。
明治維新からたったの38年で大国ロシアを打ち負かした、明治の人というよりも脈々と受け継いだ日本人の民度の高さで勝利を納めた栄光の勝利艦三笠。
今のウクライナ侵略とまったく同じことを118年前もロシアは日本に行いました。
日露の戦いに海陸とわず戦った先人に対し感謝しかありません。
本当にありがとうございました。
あなた方が戦っていただいたから今の日本があります。拝