
国土地理院が
昔の航空写真を公開しているサイト(
https://maps.gsi.go.jp/)を見つけたので、私が
生まれ育った地を眺めてみました。
写真を見ていると、まだ感慨にふけるには早いと思いつつも、昔のことが思い出されますね。
まずは、1961〜69年の写真です。
この写真で、右上から右下左下へと
蛇行して流れる川と、ど真ん中
上から左下に続く道、ど真ん中
上から右真ん中に続く道で三方を囲まれたエリアが、私が生まれ育った地区です。この時代にはほぼ田んぼしかなく、民家もほとんどありませんね。
農家の次男として生まれた父が、結婚を機にいくつかの小さい田んぼの贈与を受けてそのうちの一つに家を建てたのが、昭和39年頃のことです。この写真にはその家は写っていません。まだ本家の田んぼだった頃です。そこから考えて、この写真は1963年(昭和38年)以前、すなわち1961~63年に撮られたものだと思います。父が結婚前なので、当然私はまだ生まれていません。
私の最も古い記憶にあるこの辺りの道は、まだ舗装されていませんでした。なので、この写真に写っている道路は、
まだ舗装されていないはずです。
そのエリアの隣の左下の丸を付けたところに、
長屋の集合が写っていますね。ここは今もある平屋の市営住宅です。ここに住んでいた友達も何人かいて、併設の公園もあった(「宅は」「った」の場所)ので小さい頃に遊びに行ったりしていました。こんな前からあったのかと少し驚きましたが、よく考えたら私が小さい頃にはすでに使い込まれた感じだった気がするので、きっと古くからあるのでしょう。
次の写真は1974~78年に撮られたものです。
高度経済成長期が1955〜1973年だったことを考えると、撮影されたのはその後になるわけですが、この通り
絵に描いたような田舎です。
私が小学生だった頃ですね。実家も写っています。この頃にはもう、車が通れる道は舗装されていました。
小さい頃はこういう感じでしたね。基本的には田んぼが広がっていて、周辺の家の多くは
小さな兼業農家でした。ちょうど子育て世代がこの地に住み始めたせいだったのか、家の数の割には私と同世代の子供はたくさんいました。外から来た方もいらっしゃいましたが、地域は全員が知り合いでした。
外からとはいっても近くの地元の人しかいない中、
関西イントネーションの子が引っ越してきたときは、衝撃的だったのをよく覚えています。みんなで「あ
{り⤴}がとう⤵」じゃなくって「ありが
{と⤴}う⤵)」と「と」にアクセントを付けてしゃべる練習をした覚えがあります。あれっ、なんで練習した言葉が「ありがとう」だったんだろう!?‥‥覚えていないなぁ‥‥きっと優しい世界だった(?)のでしょう。
そういえば、そいつは山口弁にはすぐに慣れたのに、イントネーションはなかなか抜けなかったなぁ‥‥それが普通でみんななんとも思わなくなりましたけどね。
小さい頃には、この川で魚やえびを捕まえたり、岩場を上って遊んだり、この写真の少し上にある山を探検してカブトムシを捕まえたり、空き地でソフトボール風の遊びをやったり。冬場には田んぼを駆け回ったり、無限(嘘)に糸を伸ばして凧揚げしたり。
新しい家の棟上げ(むねあげ)のときには、餅撒きが必ずあったのも懐かしいですね。子供だろうが容赦なく大人が必死なんですよね。(ちょうどケンミンショーで、山口県民は餅撒きが大好きってやっていましたね。そうなのか、山口ではまだ餅撒きやりまくってるんだ。)
まあとにかく、小学生の頃は近所の友達と
外で遊びまくっていました。
そういえば小学生の頃と言えば、
こんな田舎にもスーパーカーブームは到来していましたが、まあこんな田舎なのでそんな車とはまったく無縁でした。きっと実在するのだろうけど、
テレビの中の世界だと思っていました。
ところで、隣接する先の市営住宅には、今から思うにいろいろな事情を抱えた人が集まっていた気がします。大人になってから気が付きましたが、仲の良かった友達のお母さんはメンタルのご病気だった気がします。昔の片田舎なので、おそらく治療機会はなかったと思え、そう思って小さい頃を思い返すと少し胸が苦しくなります。他にも、あまり話をしたことがありませんでしたが、いつも洗濯されていない服を着ていた同い年の女の子もいました。近所の友達は私も含めてみな避けるように遠巻きに見ていて、陰でこそこそ悪口を言っていたり‥‥。親から世話をしてもらっていなかったのだと気付いたときにはもう姿を見なくなり、もう少し話しをすれば良かったと後悔しました。
私の地区の人達は、隣接する市営住宅になんとなく距離を置いていた気がしますが、子供の私はもっと一緒になればいいのにと思っていたのを思い出します。
中学生になると部活の友達中心になって近所の友達とは少し疎遠になり、高校生になると少し遠くの高校に通っていたのもあって、近所の友達とはすっかりしゃべる機会がなくなってしまいました。もうそれっきり話をしたことがありません。みんな今頃どうしているのだろう‥‥会えばわかるのかな‥‥自信がないな。
高校を卒業する頃にはこの写真よりはもう少し家が増えましたが、基本的には
実家を出るまでこういう感じのところでした。
次はいきなり飛んで2008年です。その後の30年間の航空写真がないのですよね。国土地理院さん、もうちょっと集められませんか?
この写真には、実家も実家の田んぼも写っています。この頃までには、駐車場の白線が目立つアパートなんかもできていて、家もかなり増えていますね。
周辺に大きな農家はなかったので、ほとんどのところは自家消費分を賄う目的(+荒れさせてはならないという責任感のような思い)で、細々とやっていたのではないかと思います。おそらく
儲かっている農家は一軒もなかったと思うので、代替わりで田んぼをやめてしまうところが多かったのでしょう。
とはいえ、田んぼはまだまだ残っていて、道の形についても小さい頃からあまり変わってはいません。たまに実家に帰ったときには、少し家が増えたなとは思いつつも馴染みのある風景ではありました。
この写真が撮られた少し後のこととなりますが、今から10年ちょっと前に、一人暮らしだった父が急に体調を崩したことがありました。兄は川崎、私は横浜在住、それを機に父を関東に呼び寄せることになりました。
田んぼは従兄に託したり、畑にして叔父さんや近所の方に貸したりして維持してもらっていましたが、人が住まなくなった
家は荒れていきます。数年後に田畑とともに実家を売ることにしました。一部田んぼ(畑に転用)のままで欲しいという人がいたので、そこだけは田んぼのままで売って、それ以外は宅地開発をしていた不動産屋に売りました。うちが田んぼを売るときに、周囲にまだ残っていた田んぼも合わせてまとめて買い取ったようで、そこそこまとまった宅地が造成されました。
そして最新のGoogle Mapの衛星写真です。
売ったので当たり前ですが、
実家はもうありません。周囲の田んぼはすっかり減って、新しい道が造られ(共有私道でしょう)、小さく分けられた区画に多くの住宅が建っています。
田んぼばかりの場所だったのに、
住宅街に変貌したと言って過言ではないでしょう。父を関東に呼び寄せてから、この地に行くことはなくなってしまったのですが、ここ数年で劇的に変わったようです。
私が小さかった頃から考えると、人口は10倍以上にはなっていそうです。おそらく、今は互いに知らない人も多くいるのでしょうね。ここまで家が増えると、普通に考えて、顔と名前と家とが一致しそうにありません。
地方の疲弊は進み、全国各地で過疎化が進んで限界集落も増えているような中にあって、私の実家のあった地域は、街の活性が高くて人口も増えていることはありがたいことなのかも知れません。が、もはや自分の生まれ育った田舎はなくなってしまったような気がして、少し寂しい気がします。
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2024/06/13 22:08:55