「人車軌道、または人車鉄道と呼ばれる乗り物をご存じでしょうか? 」
タイトル画像は、1900年頃の熱海の写真です。私は恥ずかしながら、ごく最近まで人車軌道のことを知りませんでした。人車軌道とは、軽量なトロッコのような車両を人力で動かしていた鉄道のことです。
日本には、1900年から1920年頃まで数多く存在していたそうです。とはいえ、日本全国にあったかというとそうでもなくて、そのほとんどが静岡県以東に集中していたそうです。私の生まれの山口にもやはりなかったようで、明治生まれの祖父母からも、小学校での郷土の話からも、どうりで聞いたことがないわけです。
ん?山口なんて田舎なんだから、そもそも需要なんてなかったんじゃないの?と思われたかもしれません。ある意味ご尤もに聞こえますが、
山口県は明治期には実は人口の多い地域でした。私の出身地は、江戸時代には
徳山藩だった辺りですが、江戸時代から物流港を備え、明治維新後には港に合わせて工業の発展が著しかった地域です。明治~大正期には、全国相対的にそれなりな街だったはずです。1897年(明治30年)には通常の鉄道も開通していました。
近場には、人力ではない軽便鉄道(
https://ja.wikipedia.org/wiki/軽便鉄道)ならば、海軍練炭製造所に限定的にあったようですが、旅客用の軌道はなかったようです。皆さんどうしていたんでしょうね、歩いてたのかな!? なお、人車軌道が静岡以東に集中していた理由は定かになっていないそうです。
さて、話を戻して人車軌道ですが、今住んでいる宇都宮は、総延長が30kmにも及ぶ日本有数の人車軌道があった街だったそうです。しかも、人車軌道の多くは単線で台車をかかえて線路脇に出してすれ違っていたらしいのですが、ちゃんと複線だったようです。ほら、こんな感じです。
この写真は明治期に撮られたものだそうで、今住んでいるところの近所の大谷街道です。そう、100年前の大谷街道には路面に軌道が敷かれていたんですね。鉄道に詳しい人なら知っているかも知れない廃線となった東武大谷線(大谷軽便線)ができるよりも前の話です。
この写真には、作新学院が写っているそうなんですが‥‥う〜んどれだろう‥‥左の長い屋根の建物かな!? 今の地形を合わせて想像してみても、どこから撮ったのかははっきりとはわかりません。でも、当時からそれなりに道幅があったことには少し驚きました。写真の通り、明治期の日本にはまだ自動車はほとんどなかったはずで、道路を走るのは馬車ですね。当然、バスもまだない頃なので、こんな感じで人力で人を運んでいたんですね。
この当時の宇都宮は、
3万人から5万人ほどまでに急速に人口を増やしつつある時期だったと思われます。当時の人口から考えて、総延長30kmというのはかなりな規模だと思いますが、庶民の足だったんでしょうね。それと、大谷に行く路線に関しては、こんな感じで大谷石を運ぶのが大きな用途だったようです。

蒸気機関車で運ぶようになったのは、1921年(大正10年)以降のようで、その前は人力で運んでいたんですね。それにしても、大谷石は一大産業だったことが伺える写真です。
昔といえば昔のことではありますが、"自分の歳のせいぜい2倍程度前"に過ぎない高々100年ちょっと前のことなのに、全然知らないものです。なお、1928年(昭和3年)にガソリンカー(気動車)が導入されて、旅客輸送の近代化が図られ、材木町-大谷間の人車は廃止されたそうです。
この大谷街道には、後10年もしないうちに宇都宮ライトレールがやってくる予定です。100年を経て、人車用の軌道だった場所にLRT用の軌道が敷かれるということです。
人車軌道なんて知らなかったくせに、100年前のことに馳せる思いなんてなかったくせに、何故だかとても感慨深いのです。
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2024/11/20 20:57:37