
車とは関係のない随筆です。
もう数年前のことになりますが、たまたま
明治5年(1872年)に行われた
近代日本で最初の人口統計の数値が書かれた記事を目にすることがありました。
するとそこには、
・1位 広島県:92万人
・2位
山口県(!!):83万人
・3位 東京府:78万人
と書かれていたのです。
私は山口県出身なので、これを見たとき素直に驚きました。
驚愕したと言ってもいいです。
今の日本の人口分布が頭にこびりついているので、なかなか理解が追い付かず、
えっどういうこと!?としばらく固まって考えてしまいました。
しばらくして、当時の日本は
全国的に田舎で人口は薄く広く分布していたのだと、ようやく気が付いたわけです。
改めて当時のことを考えてみると、自由に居住地を変えるようなことはあまりなかったでしょうし、明治になったばかりで
工業化が進んでいたわけでもないわけですから、今のように、都市部への人口集中など起きていなかったわけです。江戸時代から江戸は特別な街だったとは思いますが、今のような猛烈な人口格差はなかったということです。
当時の日本は、9割が農業を営んでいた時代だったはずで、
米の収穫量に依存して人口が分布していたのだと思われます。
そういう意味では広島1位、山口が2位なのには、実は他にも少しからくりがあります。

多くの県は今よりも小さく区分けされていたのですよね。
最初の廃藩置県は、江戸時代の藩がほぼそのまま県にスライドした形で行われました。小さすぎる県は明治初期に一斉に統合されていきますが、明治5年の段階では、まだタイトル画像(明治4年12月の地図)にある通り、
今よりもたくさんの県に分割されていました。おそらく明治5年時点では、77使府藩県あったと思われます(当時は都道府県ではなく使府藩県。廃藩置県後なのに藩が残っているのは、琉球藩がしばらく残っていたからのようです)。その後の明治期にも、県の統合・再分割・統合がしばらくの間繰り返されました。
当時の使府藩県別人口の順位順一覧をまとめてみたものがこちらです。
これを基に、現在の県境に合わせて考えてみると、
1. 今の新潟県 = 当時5位柏崎県+9位新潟県+77位相川県 = 145万人
2. 今の兵庫県 = 当時8位飾磨県+25位富岡県+73位兵庫県(+淡路島-丹後地方) = 134万(+20万人-10万人くらい?) →140万人強くらい?
3. 今の愛知県 = 当時11位額田県+12位愛知県 = 121万人
4. 今の千葉県 = 当時14位印旛県+29位新治県+31位木更津県(-今の茨城県南部) = 150万人(-30万人くらい?)→120万人くらい?
5. 今の岡山県 = 当時20位深津県+46位岡山県+68位北條県 = 115万人
あたりが、実は上位だったと考えられます。
その後に柏崎県と統合した
新潟県が、明治期の長きに渡って人口1位だったりします。
山口県は農地面積のわりには人口が多めだったような気もしますが、概ね全国的に農地面積≒米収穫量に人口は比例していたのだろうと思われます。
ところで、先の表の通り、明治5年の全国の人口は3300万人だったわけですが、江戸時代の後半の間、ほとんど人口は変わらなかったようです。
日本では徴税などのために昔からお寺などが「宗門人別改帳」を作成していた関係で、かなり正確な人口推計ができるようで、
江戸時代の初め頃は、1260万人くらいだったようです。
戦いがなくなって農地開拓が進み農業生産力が著しく増加したことから、最初の100年で人口は
3300万人前後にまで激増したそうです。100年を過ぎたあたりで
開拓できる土地がなくなり、その後130年にわたって人口は横ばいだったそうです。(https://manabow.com/somosomo/depopulation3.html)
まさに、米の収穫量にちょうど合うように人口が漸近していたということですね。明治初期の人口は、130年間の蓄積の結果の平衡状態にあったということでしょう。
関連して、明治以降に富国強兵の中で人口は激増していくわけですが、
農業技術の発展によって米の収穫量が大幅に上がったことが重要な要因のようです。
ついでに
私の縁(ゆかり)の地の当時の人口を見てみると:
●今住んでいる
栃木県:当時の宇都宮県+栃木県にあたり、人口は62万人ですね。
ただし、後に群馬県に編入される山田郡、新田郡・邑楽郡が栃木県だったようですので、それを差し引くと60万人を切るくらいでしょうか(←明治4年の地図を見るとすでに群馬になっているように見えるので、その時期は異なるかもしれませんね。62万人で良さそうです。)栃木にはあんなに平野があって
農地が多そうになのに、ちょっと少ない気もします。
●以前に住んでいた
神奈川県:当時の神奈川県は相模川以西を含んでおらず、多摩地区から奥多摩までを含んでいて、入間県(後に群馬とくっつき、最終的に埼玉に統合)と接していたようです。相模川以西は伊豆半島のほぼ全域を含んで、足柄県だったようです。その神奈川県と足柄県を合わせた人口で82万人ですね。多摩と伊豆の人口を推認するのが難しいですが、それらを抜くと70数万人くらいといったところでしょうか。今や
東京に次ぐ人口を誇る神奈川県ですが、当時はまだ
平凡な田舎だったようです。
さて、冒頭に戻って、明治5年の
山口県の人口が全国2位だったということを知ったときに思ったことです。
山口県に生まれると、明治維新で活躍した人物の話などを聞かされて育ちます。県外に出ると、明治維新の話を振られることもままあります。
しかし、私自身はあまり史実にも詳しくはなく、そもそも、山口なんて
辺鄙な片田舎に過ぎないのに、薩長同盟なんてのがあったにしても(弱者連合は弱者だし)、どうして当時の
中央政府を相手に喧嘩を売るようなマネができたのだろうと、なんとなくモヤモヤと不思議に思っているくらいでした。
それが、当時の人口を知ってみると、地方も中央もなく全国どこも似たり寄ったりだったことが窺え、確かに志さえあれば立ち上がることができたのかもしれないと、
急に長年の謎が解けたような不思議な気分になったのです。
例えば、高杉晋作が、武士からではなく広く庶民から募って奇兵隊を作った話は、
田舎で人口が少ないが故の苦肉の策だとぼんやりと
思い込んでいたのですが、そうではないですね。本当に泰平の世で堕落した武士よりも、志をもった庶民の方が戦力になると考えたのでしょう。そして、それが本当に有効だったのだろうと思えました。
一方で、日本が明治後に発展する前の人口は、3千万人程度だったということは、テレビか何かで以前から知ってはいたのです。それでも、今の日本の人口分布が頭にこびりついていて、なぜか今の人口分布のままで絶対数だけが相対的に少ないイメージを無意識のうちに想定してしまっていたのですね。
根拠のない思い込みは理解を阻害しますね。
単に記事を見ただけなのに、それを強く感じた出来事でした。
Posted at 2024/06/20 21:25:42 | |
トラックバック(0) | 日記