2017年01月11日
自分は不思議と現国のテストが勉強しないでも大体良い、という感じで大学まで適当に文系生徒として生きてました。
現代国語なんか勉強して出来るもんじゃないし、というのが友人や家庭教師をした時の口癖でした。やることと言えば、本でも読めば?程度でとくにいう事が無いんです。ロジカルに現国を解くことは出来ますし、そういうロジックを予備校や塾では教えていますが、ボクの感覚からすると、そんなもん別に現国のテストにはナンセンスだろう・・・
まぁそうやって粋ってました、笑。
まぁそんな感じなんで、古典と漢文はいつも0点みたいな点数をたたき出してました。要するに感覚だけで生きていた学童から学生時代なわけですが、今思うと「ボケ、勉強しろよ!」と思います。時すでに遅し、ですが。
そんな自分が現国でとんでもない点数を取ったことがあって、それが中原中也の詩が出たテストでした。確か記憶が間違いなければ、50%くらいしか取れてなかったはず。序盤のデカい詰問で中原中也の詩が出てきて、そこで一気に混乱したというか困り果ててその後の問いもしくじったんです。
普段なら他はダメでも現国は行ける俺ががどうしたんだ・・・
とにかく中原中也が嫌いになりました。二度と読みたくもないし、人物像さえ興味がなくなりました。早死にしたのだけは知っていたので、まぁあんな詩を書く奴だからどうにもならんような私生活だったに違いない、と思ったくらいです。
社会人になって、テストとも無縁になったころに、ふと中原中也の記事だかを目にしたら、なるほど今になってみればどうしてあんな詩が書けたのか解りました。そして、どうしたことか詩の意図というか、気持ちがすっと入るようになりました。
不思議なもんで、変かと言えば時間の流れくらいです。
車にも同じことが言える気がします。免許も無いころは、あんな車に憧れて、そんな車は見もしなかった。それが免許を取って、でも貧乏で買えない中でもがき、お金が溜まってきて買ってみて・・・そんな瞬間瞬間で感じるものが変わってくる。
今思う事は、ある程度の動体能力があり、資金も前ほど枯渇せず、こんな状態の自分が感じるのは欲しい新車がないなぁということです。
いや、正確にいえば買える範囲で沸き立つものが無い、ということ(というか買ってしまった)。
ウアイラとかヴェイロンみたいな破天荒なものは現実に思えませんし。
中也は時代の不足やパーソナルの不足部分から、何かを見出したと思うのです。それは画家でいえば中村彜のような、青年時に自らの寿命を悟ってしまうという究極の生きる道を知ってしまった事とも共通項があると思います。
足りないものを求めたり、見えないものを求めたり、無いものを探しに行ったり、どんぞこを這いつく回る生き物であったり、そういうものから活きる活力を生み出すことがストーリーである場合、今の時代はそういう風な想像を車においても許さない風潮があるような気がします。
そして、エコだとか何だとか、そんなこれからの使命を活力にしなきゃならない、それがカッコいいとも思えるような風潮がリビドー的な発想からして無理があるのかもしれません。
活きる事に素直である、楽しむことに素直である、人との競争に素直である。何事にも素直であった車は実に美しく、渇望されるべきものであったのでしょう。
今はそうでなくて、先々を考え未来を考え便利を考える車だから、つまり考えた車は欲求を根源から満たせるものでは無いのかもしれません。人間て快楽に弱いですから。
今日においても、む!っとくる車はやはり素直な人間の渇望をちょっとでもエッセンスしているものが多いと思います。車ってそういうもんなんですよ、多分。
今年も渇望しなきゃならん!テレビを見ていたらたまたま中也の話が出ていたので、そんな事を思いました。
Posted at 2017/01/11 17:11:41 | |
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