
午前中、浦安郷土博物館に行きましたがあまりにも近い。
ドライブというより「ちょっとそこまで」って感じ(笑)。
午後はちょっと足を延ばして
「カレスト幕張」に行きましょう。
それでも往復30キロにも満たない距離(爆)ですが。
狙いは2月14日まで展示されている
「日産R38シリーズ」のレーシングカー。
実は「隠れ日産ファン」の私。
10年以上前、岡谷の「
プリンス&スカイラインミュージアム」でご対面して以来です。
R38と言えばスカイラインの生みの親、桜井真一郎ですね。
彼の一徹な仕事ぶりとその情熱をかけて設計・制作したレーシングカー。
この目でまた、見てこようと思います!
カレスト幕張、初めて訪問しましたが広い!ですね。
駐車場の一台あたりの面積も広く安心(笑)した作りで感心。
まずはお目当ての日産R38シリーズに会いに行きます。
ありました、ありました♪
一台一台、じっくりみていきましょう。
見終わった後、店内をブラブラ。
クルマ用品販売、新車・中古車の展示。
ここ、いろいろ遊べますね。
なかなかクルマ好きには楽しい空間です!
展示されているクルマ、すべてと触れ合うことが出来ます。
セールスの方もこちらから声をかけない限り近づいてこないので安心?!です。
ただ、日産車ばかりなのが「玉に瑕」ですが(笑)。
日産でも軽自動車をOEM販売しています。
ちょっと乗ってみましたが、その広さにビックリ。
街乗りだけなら、ほんとこれ一台で充分ですね。
外国車、ありましたありました。
さすが日産、「ルノー」です。
重点的に拝見させて頂きました。
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以下、長文です。
自分用の備忘録なので、興味のある方のみお読みください。
順番に見ていったレーシングカーの紹介です。
トップバッター
「1967年 R380」ですね。
1964年5月第2回日本GP、生沢徹が市販型の「S54スカイライン」で出場。
そのレースでポルシェ904を抜き去り、一周だけ前を走ったシーンは有名です。
しかしGPはそれほど甘くなく、市販車を改造した程度ではポルシェにはまったく歯が立たずボロ負けでした。
その雪辱に奮起したプリンス自動車は「打倒ポルシェ」を掲げ、日本初の本格的なプロタイプレーシングカーの設計を桜井真一郎に託しました。
その結果、生み出されたのが「R380」です。
R380は二年後の1966年日本GPでポルシェカレラ6を堂々と破り、「打倒ポルシェ」の念願を達成しました。
次は
「1968年 R381」です。
プリンスと日産の合併後の1968年のGPで、桜井氏率いる日産は排気量無制限のクラスに「R381」を投入しました。
(エンジンは残念ながら開幕に間に合わず、シボレー製でした。)
特徴は「怪鳥」とも呼ばれた大きな油圧式の2分割式リアウィング。
コーナー毎に左右のウィングの角度を変えて強力なダウンフォースを発生させることができました。
この装置は桜井真一郎が夢の中でひらめいたという逸話でも有名です。
その年のGPではまたしてもポルシェ908を破り、優勝を果たしました。
そして
「1969年 R382」。
この年からは排気量無制限クラスでレギュレーションの変更があり、可変ウイングが禁止になりました。
その為、日産はシボレーから自社製V型12気筒6.0Lエンジンに搭載替えし、新たなモデルとして「R382」を開発しました。
この年グランプリは各自動車メーカーが意地とメンツを賭けた戦いとして有名です。
トヨタはワークスとして「トヨタ7」を、そしてポルシェはドイツ本国からワークスチームがポルシェ「917」を持ち込み参戦。
結果は日産R382が1、2フィニッシュで3位以下全車を周回遅れにするほどの快勝でした。
R38シリーズ最後は
「1970年 R383」。
このクルマは幻のレーシングカーと呼ばれています。
1969年の「R382」の快勝を受け、翌1970年に向けて「R383」を開発します。
この年は日本版マスキー法が目の前の年でもありました。
日産は苦渋の決断として排気ガス規制車開発に専念するため、70年のグランプリの欠場を発表。
結局この年のグランプリは中止になりました。
その後も北米で人気のカンナムレース出場のためR383の開発を続けました。
しかしこれも結局、中止。
その為、レースでは一度も走ることなく、R383は幻のマシンと呼ばれるようになりました。
最近のレーシングカー、
「R39シリーズ」2台が展示されていました。
これらは「桜井真一郎」の設計ではありません。
その中のまず1代目、
「1997年 ニッサンR390 GT1」。
「R390」は1997年の「ル・マン24時間レース」のために開発されたレーシングカーです。
GTクラスの出場だったので規定によりレースカーの原型とされるロードカー(市販車)も開発。
実際作られたのは1台のみでしたが、販売されることなく現在も保管されていると聞きます。
実際のレース結果ですが、予選ではクラストップ。
しかし、ギアボックスがレギュレーション違反との指摘。
急遽、本選では構造変更したものの、ギアの冷却不足で破損しリタイヤに終わりました。
翌年1998年、弱点のギアボックスを改善して星野一義・鈴木亜久里・影山正彦を起用し、再参戦。
抜群の安定性をみせ、総合3位と見事な結果を残しました。
最後は
「99 ニッサンR391 1999年ル・マン富士1,000レース優勝車(23号車)」
1999年、「ル・マン24時間レース」のレギュレーションが変わり、GT1クラスが消滅しました。
このためR390での参戦は出来なくなり、新たにプロトタイプレーシング型の「R391」を開発しました。
レースでは2台体制で参戦しましたが、電気系統のトラブル等で共にリタイヤになりました。
翌年も参戦を予定していましたが、財政事情により取り止めになり、以降、「ル・マン24時間レース」参戦することはありませんでした。
展示車は1999年富士スピードウェイ35周年として企画されたレース「ル・マン富士1000km(ル・マン24時間レース規定)」の優勝車です。
千葉県習志野市芝園1-2-1
カレスト幕張