もうじき1週間経ちますが、5月2日•3日にスーパーGT 第2戦 富士500kmレースが行われました。
いきなりオチから述べますと… ワタシ、久しぶりにスーパーGTの決勝レースの生中継で泣きました(T-T)
いったい何があったのかはここからウダウダと書くとして、まだ決勝レースのネタバレを見たくない方は一旦ブラウザの「戻る」を押していただき、また後日コーヒーでもテーブルに置いてお越し下さい(^_^)
2014年 第2戦 富士500kmレースにて。
No.88 マネパ ランボルギーニ GT3が1コーナー手前で派手にクラッシュしています。
2015年 先日行われた富士500kmレースにて。
同じNo.88 マネパ ランボルギーニ GT3が1コーナー手前でタイヤバーストからオイルが漏れて出火しています。(^-^;)
まさしく、既視感と書いて… 「デジャヴ」でしたww
そんなスーパーGTも、アメリカとヨーロッパを巻き込んでハコ車世界一決定戦になりそうな雰囲気が出てきました。
スーパーGTが持続的な成長を続けるためには、年々レース内容が進化していくことがとても大事になってきますが、スーパーGTの規模が年々大きくなっていくにつれ…
こんな頃からレースを観ていたワタシからしたら、少し寂しい気もします(>_<)
現代のレースは監督がいて、さらにはエンジニアがいて、数多くのデータを分析する人がいて…、
チームで描いた作戦を忠実にこなすエンジンのECUのようなドライバーがいる…
そんなチームが強いチームと言われています。
与えられたタスクを確実にこなす、そんなドライバーがイマドキのドライバーなのかもしれません。
実際に今年の第2戦 富士500kmレースのGT500においても、
先にコースレコードを叩き出し、ポールポジションの椅子に座りかけていたNo.1 MOTUL AUTECH GT-Rに対して、セクター2まで1000分の1秒の狂いもなく同じタイムでアタックするNo.12 カルソニック IMPUL GT-R!!!
結局はMOTUL AUTECH GT-Rが、さらに予選タイムを更新してポールポジションを獲得しました。
カルソニック IMPUL GT-Rは予選2位でした。
迎えた翌日の決勝、メチャクチャ端折って書きますと…
最後のピットストップが終わった81周目、ピットロード出口でMOTULとカルソニックが重なることに!!
そしてそのままお互いノーミスで110周を走りきり、GT500クラスの優勝はNo.1 MOTUL AUTECH GT-Rが獲得しました。
ものすごい端折りましたが、イマドキのレースをよく表した内容だと思います。
1号車も12号車も互いに完璧な戦略とテクニックで、世界的に見てもものすごい高いレベルで競っている証拠です。
一方、今から25年くらい前のこの頃はといいますと…
今ほど電子機器も発達しておらず、数字としてデータに残らなかったので、コンピューターならぬ「カンピューター」が冴えていました(笑)。
ドライバーが「アンダーステアだ!」と監督に訴えると、「それはお前の腕の力が足りないからだ!」と言われ、
レース中のバトルの続きはパドックでやっていた熱い時代でした(^_^;
国内のツーリングカーレースで、ようやく外車相手に対等に戦える戦闘力を持ったマシン… スカイラインGT-R。
富士のメインストレートで、離陸するほどの弱いエアロパーツを身にまとったスカイラインGT-Rを、何とか速く曲がろうと工夫した星野一義さんの縁石またぎ。
フルタイム4WDの特徴を生かしたこのダイナミックな縁石またぎ走法で、星野一義さんは“日本一速い男”と言われていましたね。
…縁石またぎ走法はFRの頃からやっていたんですね(爆)
そんな星野一義さんの勝ちパターンはいつも、2位以下をぶっちぎった圧勝でしたね。
この勝ち方をレースファンの間では“星野パターン”と言っていました。
星野一義さんに現役時代を振り返ってもらうインタビュー企画で、星野一義さんはご自身の“星野パターン”の事を…
「ただ怖いから逃げたいだけ。逃げて逃げて逃げて…レース前半からいっぱい差を広げておきたい、ただそれだけだった。」
いかにも星野一義さんらしいコメントです(^^;)
そんなナイーブな星野一義さんの息子さん 星野一樹選手も国内モータースポーツで活躍する現役のレーシングドライバーです。
幼い頃からレーシングドライバーを夢見ていた一樹選手に対し、自分と同じ辛い目にあってほしくない親心から、レーシングドライバーの仕事より普通にサラリーマンになって欲しかった一義パパ。
そんなパパの言う通りに帝京大学を卒業し、卒業後の進路としてレーシングドライバーを目指した一樹選手。
レーシングスクールに入学したのが22歳と、義務教育前からカートに乗っているような英才教育を受けたドライバーと比べるとかなり遅めのスタート。
父親から引き継いだ負けん気とあきらめない強い心で、デビューから8年目にはGT500のドライバーにまで成長します。
ただ、その後は大きな壁にぶち当たり、GT500で残した結果は2006年の鈴鹿1000kmの1勝のみ。
この1勝も一樹選手にとっては屈辱的なもので、トレルイエ→一樹→助っ人→トレルイエ→助っ人(うろ覚えです^^;)の順にドライバー交替をして勝ち取った1勝でした。
レギュラードライバーだった一樹選手が、助っ人ドライバーより頼りにされてなかったという非情な采配ww
そんな非情な采配をふるったのは親父の星野一義監督でした。
親父のチームから放り出された星野一樹選手はGT300のチームを毎年渡り歩き、
今は親父と同じ時代に日本のモータースポーツで活躍した長谷見昌弘監督の元で、日産の若手ドライバー育成プログラムの選手兼コーチのような立場に立っています。
ホシノとハセミといえば、これですよね(^.^)
グループAでカルソニックブルーの星野一義選手と真っ向から戦ったライバルでした。
“日本一速い男”といえば星野一義選手で有名ですが、BNR32がグループAで活躍した4年間のうち、シーズンを制した回数はお互いに2回ずつでした(^^;)
さて、話はどんどん逸れていきますが、
そろそろスーパーGT 第2戦 富士500kmレースのGT300クラスについて振り返ります。
富士スピードウェイのGT300クラスのコースレコードを持っていた星野一樹選手の No.3 B-MAX NDDP GT-R。
そんな優勝候補のB-MAX NDDP GT-Rに対し、ハイブリッドパワーであっさりコースレコードを更新したのがNo.31 TOYOTA PRIUS apr GTです。
コースレコードを出すほどの速さがあるのに燃費もいい…、この大会の優勝候補です。
一方、No.3 B-MAX NDDP GT-Rで星野一樹選手のパートナーになるのが1993年生まれの高星明誠選手です。
1977年生まれの星野一樹選手は、この日産の期待の若手を日産のエースに育てる役目があります。
そして迎えた決勝…
決勝レース前の予想ではプリウスが後続をぶっちぎると思ってましたが、意外とプリウスのペースが上がらず、序盤から星野一樹選手がプリウスを追いつめてオーバーテイクしていきました(^.^)
そして41周目にピットイン♪
星野一樹選手から高星明誠選手にドライバー交替します。
ピットインのタイミングで3位まで順位を下げたB-MAX NDDP GT-Rですが、そこから高星明誠選手もグイグイ追い上げますo(^o^)o
そして、自分の仕事をきっちりこなし、何とか2位のポジションを守りきった72周目…
1コーナーの手前で突然タイヤがバースト!!
ここまで星野先輩と共に作ってきたレースが一気に壊れ、優勝どころかポイント獲得も怪しくなる展開に……
不運なことに富士スピードウェイの1周 4.563kmを丸々3輪で走行しなければならず、ライバルのプリウスにもあっさり抜かれてしまいます(>o<)
それをモニターで観ていた星野一樹選手は慌ててドライバー交替の準備を始めます。
ただ、モニターに映る3輪走行の高星選手を見つめる目がとても印象的でした。
…その目にはレースを諦めた心がひとつも感じられなかったのです!
B-MAX NDDP GT-Rは2度目のピットインを済ませ、ドライバーも高星明誠選手から星野一樹選手に交替します。
がっくり肩を落とす高星選手…
このときB-MAX NDDP GT-Rは9位まで順位を落としていました。
一方で、なかなかペースが上がらないプリウスをNo.11 GAINER TANAX SLSがぶつけられながらもオーバーテイク!!!
滅多に感情を表に出さない平中選手もカメラに向かってこのポーズwww
(…レース中に歯を見せると後で痛い目に遭うんだよね~)
そして、Jスポーツのエイミーが高星選手からがっかりコメントをいただいている頃…
星野一樹選手は鬼神の追い上げで周回ごとに順位を上げていき、カメラがフォーカスした時には4位までジャンプアップして来ました!!!!!
この頃から、ワタシ… 目が潤んできました (;ω;)
星野一樹選手の駆るGT-Rと、パパが乗ってたスカイラインGT-Rが重なって見えてきたんです。
現代のレースでは、タイヤの寿命だの特性の違いだの… レースファンからするとブラックボックス的な要素で優劣が決まってしまいがちですが…
GT-Rを通して星野一樹というドライバーのキャラクターが表に出ていました!
当日コースサイドで観戦してた方やテレビ観戦をしてた方は、GT-Rのボディと星野一樹選手が一体になった瞬間に気づいたと思います。
それは、まるで…
星野一義のDNAが星野一樹に乗り移ったようでした。(敬称略)
そんなGT-Rの姿を見た長谷見監督は、自身の現役時代を思い出したのか、無線で指示を送る監督業務を捨てて、ピットウォールから顔を出してGT-Rを見つめます。
ご自身も星野一義選手と共にスカイラインGT-Rで一時代を築いたレジェンドです。
B-MAX NDDP GT-Rを駆る星野一樹選手の姿と、現役時代の星野一義選手が重なって見えたのでしょうね。
そして… 2位争いをする3台がメインストレートに帰ってくると~…
ピットウォールから体を出して星野一樹選手に向かって右手を上に降り出しましたwww
無線やサインボードとかいろいろ伝える手段があるにも関わらず、とても原始的な手段に打って出ました(^-^;
“日本一速い男”のDNAが流れる星野一樹選手の勢いは止まりません!
ヘアピン立ち上がりでプリウスにベタ付けして~…
300Rでアウトからオーバーテイク!
これで3位!!!
モニターを見つめる長谷見監督。
こんな長谷見監督は見たことないですwww
星野一樹選手の勢いは衰えることなく、2位を走行中のGAINER TANAX SLSを1コーナーでオーバーテイク!!!
見事、タイヤバーストした時の順位まで復活しましたヽ(;;)ノ
長谷見監督もハンディカメラに向かってこのガッツポーズwww
完全に我を忘れてますわ(^◇^;)
そして110周に渡る富士500kmレースはチェッカーを迎え、GT500もGT300も日産GT-R祭りという結果になりました(^-^)
GT-Rから降りて高星選手と固く手を繋ぐ星野一樹選手。
ワタシャ、涙ポロポロ(;_;)
一方、お父ちゃんの方もNo.12 カルソニック IMPUL GT-Rが2位に入り、グランドスタンドに向けて両手を挙げて声援に応えます。
そして、レースイベント終了後の5月6日にモータースポーツ関連のニュースで知ったのですが…
写真右側のホシノインパルの取締役副社長でホシノレーシング代表取締役の金子豊氏が亡くなられていたんですね(/_;)
享年72歳。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
星野一樹選手にとっては伯父さんにあたる金子豊さんが亡くなられた日が…、
5月3日(日)……
富士500kmレースの決勝日だったんです。
この訃報と決勝レースの行方との関係は私なんかが知るはずもないですが、もし星野一義さんと長谷見昌弘さんが知っていたとしたら…、
金子豊さんが安心して天国に行ける、素晴らしいレースを富士スピードウェイですることが出来たことになります。
日本のレース界にとって、とても大切な人が亡くなられましたが、日本のレース界の古きよき時代と若者達が作る新しい時代が垣間見えたいいレースでした。