
5月3日(水)九軍神慰霊碑に参拝のあと、四国横断自動車道 宇和島道路~R56を乗り継ぎ宿毛市の手前、愛南町にある「紫電改展示館」を観覧しました。
この施設も一度は行ってみたかった場所で、関西から四国の南西の端ですのでいままで遠くて行けませんでした。

1026到着。自宅から563km。駐車場はバイクと車で満車状態でした。

小学校中学年くらいに夢中になって読んだ「紫電改のタカ」。
私のちっさい頃はこのような戦記漫画や軍歌のレコード全盛でした。
TVの歌謡番組「家族対抗歌合戦」などでも芸能人家族の父親は軍歌歌ってました。エエ時代でした。
戦中世代が居なくなった頃からメディアの反戦報道が目立ちはじめました。
嘆かわしいことです。

日本国内では唯一の紫電改の実機を展示しています。
(米国に実機3機、兵庫県加西市の鶉野飛行場資料館に精巧な実物大模型あり)
この紫電改は終戦の3週間程前の昭和20年(1945)7月24日に未帰還となった六機の内の1機。

戦闘行動中に何らかの原因で落下し海面すれすれまで水平飛行を保ち、その時にプロペラが海面を叩き、曲がったことが分かります。模範的不時着水のため機体の原型を今に残しています。(当然補修、修繕をした跡は残っています。)
この機体は昭和53年(1978)11月愛媛県南宇和郡城辺町(現・愛南町)久良(ひさよし)湾長崎鼻の海底41メートルで地元城辺マリンクラブ会員によって確認されました。
海底調査の結果、第三四三海軍航空隊所属の紫電改であること、7月24日米艦載機の呉軍港空襲で迎撃し豊後水道上空で交戦した中の1機であることも分かりました。すぐに当時の軍関係者、御遺族に伝えられました。
機体引き揚げの賛否が渦巻くことになりましたが、御遺族の強い意向で引き揚げに決まりました。引き揚げは愛媛県が藤田海事工業(株)に委託し地元漁業関係者の協力を得て発見から八ヶ月後という短期間での引き揚げ作業に成功しました。
これは御遺族の是非7月24日の命日までにという意向に寄り添ったものでもありました。

34年目の浮上。
引き揚げられた機体はそのずんぐりした姿から一目で紫電改と分かりました。
全身にびっしりと貝や海藻を付けていましたが、うっすらと日の丸塗装が認識され、風防先端には潜水作業をしたダイバーからの可憐な花が添えられていました。
この機体を操縦されていたであろうパイロットは下記の方々です。(合掌)
戦闘701飛行隊長 鴛淵(おしぶち)孝大尉
戦闘301飛行隊 武藤金義少尉
〃 初島二郎上等飛行兵曹
〃 米田伸也上等飛行兵曹
〃 今井真一一等飛行兵曹
〃 溝口憲心一等飛行兵曹
この中の誰かの乗機です。

姿をあらわした瞬間、「おーっ!」と、どよめきがあがり、それを見ていた米田、溝口兵曹のお母さん、武藤少尉の奥さんたちからいっせいにすすり泣きの声が漏れ、御遺族はそれぞれ手にした花束をもの言わぬ紫電改に船上から捧げ、長い間静かに合掌しておられました。
紫電改は大東亜戦争終盤に配備された傑作機。特に愛媛県の第三四三海軍航空隊(通称剣(つるぎ)部隊)に集中配備され日本本土防空の最精鋭部隊として米海軍航空隊にも恐れられました。
中島「誉」2000馬力エンジンを搭載し、20mm機銃4挺、自動空戦フラップ、零戦には無かった防弾装備は主翼や胴体内の燃料タンクは防弾タンク、翼内タンクは自動消火装置も装備、操縦席前方は防弾ガラスとなり重武装・防御力・速度・運動性能とトータルバランスが優れた『帝国海軍最強戦闘機』でありました。

燃料タンク。
ゴムで防弾処理が施され、翼内タンクは自動消火装置もついていました。

20mm機銃弾

実機から取り外された部品の多くが展示されています。

館内は多くの観覧者がおられました。小さい子供から若いカップルなどの方が熱心に写真と説明書きを注目されているのを見ると日本も捨てたものでは無いなと思います。 写真は左が飛行服と落下傘バンド、カポック、飛行帽、飛行靴、手袋に身を包んだ脇を締めた海軍式敬礼で写真に納まる展示館の永元館長。
聞く方に寄り添った説明をされますので、安心してなんでも質問されてください。私もたくさん質問し、貴重な情報をお聞きしました。
慰霊碑と千羽鶴。

皆さまも一度立寄られてください。
心が洗われます。
飛行場などでバラバラにされた寄せ集めの実機では無く
六名の方のどなたかが乗られたことが証明されている実機に感動しました。
日本の本土を必死になって守っていただいた御英霊に会えた気持ちがします。
又このような傑作機を必至の思いで製作したメーカー各位へも感謝します。
最後に紫電改の性能を示すエピソードを。
①昭和20年(1945)10月米軍に引き渡す空輸の際、米軍のハイオクタンガソリンを入れた紫電改3機(志賀少佐、田中上飛曹、小野上飛曹)が示し合わせて全速飛行を実施。監視役のF4Uコルセアが付いて行けず置き去りにした。
②米技術雑誌「ポピュラーメカニクス」は100オクタン燃料を使って空軍で試験した結果、速力はどの米戦闘機に劣らず、機銃威力は一番強いと紹介。
③川西航空機設計課長菊原静夫は昭和26年(1951)来日した米空軍将校団に紫電改をテストした中佐がおり「ライトフィールドで紫電改に乗って、米空軍の戦闘機と空戦演習をやってみた。どの米戦闘機も紫電改に勝てなかった。ともかくこの飛行機は、戦場ではうるさい存在であった」と評した。
(①~③はWikipediaより転載)
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Posted at
2023/05/07 17:26:38