
皆さんこんばんは。京都南部地域は、今日も79年前と同じ暑い日でした。
例年この日は、京都市東山区の京都霊山護国神社に参拝しています。
0830境内に集合し、参拝します。
この時間で30℃くらいですので、神社の木漏れ日の下では涼しいくらい。

東京九段の靖国神社と同じで、こちら京都護国神社でも、みたま祭りが開催されています。
朝の静寂の時間に、これまでの戦闘に於いてまた訓練中の殉職などで、散華された御英霊に対して、尊崇の誠を捧げ、御霊安かれと祈願申し上げました。
境内には慰霊碑が沢山あります。
その中で『歩兵第百九聯隊顕彰之碑』がありますので、ご紹介します。

この聯隊は昭和13年京都第16師団管下特設聯隊として、編成されました。

第百九聯隊は昭和18年11月からの常徳殲滅(じょうとくせんめつ)作戦に参加し、連隊長戦死、八百余名が戦死という大打撃を受けました。
今回ご紹介する第百九聯隊は、私の母方の祖父が所属した部隊なのです。
戦闘地域は中支(ちゅうし)、今の中国大陸中部です。
祖父は明治44年(1911)滋賀県、今の大津市伊香立の農家の次男として生を受け、若いうちから京都へ奉公に出、成人して大阪市都島の建設会社に勤めます。
その建設会社の罫紙に万年筆で書かれた『出戦務表』が私の手元にあります。

1ページ目の先頭です。
この『出戦務表』は昭和14年、建設会社に所属時に召集令状を受け、昭和18年無事帰還、召集解除され職務に復帰するときに、会社に報告したものでしょう。
なかなか几帳面な字で、はじめて祖母から見せてもらったときは感動しました。
表題の下、官名が上等兵とありますね。
祖父は召集時28才ですので、多分2回目の召集なのでしょう。
一行目をよく見ると充員召集とありますね。この充員召集というのは戦時の際、充員のために予備役、後備役(こうびえき)の在郷(ざいごう)軍人から召集するんです。
因みに昭和14年召集時には、私の母は1才と8ヶ月でした。
もう一度一行目を見ると、「歩兵第百九聯隊第三機関銃中隊へ入隊」とあります。

同年兵の記念写真。後列右端が祖父。昭和17年(1942)12月13日撮影。
祖父の軍装ですが、折襟の98式軍衣に赤ベタ☆三つの上等兵の階級章が見えます。
左腰には軍刀の柄がみえます。他の人の腰には軍刀が見えないようです。
足元は巻き脚絆(きゃはん)に締め紐を×に綺麗に締めてます。靴は下士官兵用の軍靴(ぐんか)で底には直径7mm位の丸い鉄製鋲(びょう)が沢山ついて滑り止めと擦切れ防止になっています。
前列左には憲兵の腕章をした同年兵。他の兵と違い一人だけ拳銃用ホルスターを左肩から右腰に吊るし、足元は磨き上げた長靴(ちょうか)。目つきが違いますね。

同年兵は在郷部隊ですので、同じ村や隣村が多く名字も同じ人が多いのですね。

『出戦務表』の最後のページ。
「昭和18年(1943)4月30日神戸上陸 省線(国鉄)にて京都に向かう」
「同日 京都駅着 奈良電車(通称奈良電、今の近鉄京都線)にて長池宿舎に入る」
長池は今の京都府南部の城陽市長池です。当時の長池演習場は今も陸上自衛隊がそのまま使用しています。
「同年5月5日 召集解除」
4年弱、2回目の軍隊勤務、お疲れ様でございました。無事凱旋されたので、戦後叔父叔母が生まれました。もし召集解除が秋までずれていれば、上記の常徳殲滅作戦に参加し、戦死していたかもしれません。
今回ご紹介しました、出戦務表や戦時中の祖父の写真その他は祖母が鬼籍に入ったときに、叔母から形見分けにいただきました。
私の息子にそのまた子孫にと、永遠に受け継いで行ってもらいと思います。
ある時期、国のため命を的にして火の玉となりし、先人に思いをはせ、改めて戦塵に散り、護国の英霊となられた方々に感謝の誠とこれからの日本国の発展をお誓いし、本日は護国神社に参拝しました。
拝
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Posted at
2024/08/15 23:22:39