
皆さん、こんばんは。
今日の京都府南部地域は、朝方まで降った雨も上がり、一日中曇り空で梅雨らしく湿気の多いじめじめした1日でした。
今回は横須賀遠征第3弾、まずは横須賀のソウルフード?中井パン店さんから。
5月28日水曜日訪問。

住所:〒238-0014 神奈川県横須賀市三春町1丁目20−4
国道16号線沿いにあります。駐車場はありません。
路駐はいけませんので、お隣にコインパーキングがありますので、そちらに駐車。
地元のパン屋さんらしく、昔ながらに飾り気のない陳列ケースが歩道に面します。

京都市内でも超人気の地元パン屋さんがありますが、おんなじ感じですね~。
リーズナブルな昭和のパン屋さん。
やっと念願が叶いました。行きたかったんですよ~!😊 0750頃到着。
店員のおばさん(失礼!)と会話。
何が1番人気ですか~? そりゃーポテチパンですね~。その次は?
男の人でしたら、ハンバーガーでしょうかね~。
京都から来たんで、やっぱり人気のパンをいただきますわ~。
えー!京都から?! 私出身は大阪なんですー!結婚してこっちに来たんですよー。っていうことでそこから大阪弁がではりました。それじゃーお気を付けてー!ということで、ポテチパンとハンバーグパンを買いました。
ベーカリーのパン屋さんでは、高いとこもいっぱいありますが、むっちゃリーズナブル。どちらも200円ちょいで買えますからね~。

まずは、ポテチパンから。名の通りポテトチップスとキャベツなどが入ってます。
これは初めての食感。美味いですね~。
次はハンバーガー。

食いさしですいません。肉厚のハンバーグがレタスと一緒にサンドされています。
これも美味かったですよ~。ポテチパンと二つを朝食として、お店隣のコインパーキングの車の中でよばれました。お腹一杯になりました。
まさしく、ソウルフード。ご馳走様でした。😊
次は横須賀海軍墓地(馬門山墓地まもんざんぼち)へ。
ちゃんと上着を着て、服装を正します。

明治時代から大東亜戦争までの御英霊一五九二柱が祀られています。
戦前までは横須賀鎮守府が管理していましたが、戦後は横須賀市に移管され現在は一般墓も併設されています。
毎年5月に海上自衛隊横須賀総監部が墓前祭を催行されています。
まずは、門前にて一礼し墓苑に入ります。

さつき、ツツジが満開で、綺麗ですね。一歩一歩お山の上の墓地に上がります。
こちらの海軍墓地は三箇所に渡って、墓地があります。
まずはこちら、下士官兵の方の墓地です。墓石が長年の風雨により、朽ちているものもあります。

合掌、最敬礼。
朽ちているとはいえ、しっかりと文字は残っていて読むことができます。参道沿いの墓石を読み取ると日清戦役での戦闘で散華されておられました。
この御英霊の戦功を称える為、文字を読み取り合掌しています。
一番上の台地には、慰霊碑と御英霊の墓地があります。

上海事変(しゃんはいじへん)戦死者之碑。
第一次上海事変。昭和7年(1932)1月~3月 支那軍(中華民国)との戦闘で戦死約770名、負傷2300名以上の損害を出し、一次大戦を上回る損害を出した大激戦。
第二次上海事変。昭和12年(1937)8月~11月 支那軍(中華民国)との戦闘で戦死9000名余、負傷30000名余の激戦で日本が勝利。支那軍は上海から撤退。
第四艦隊遭難殉職者之碑。

昭和10年(1935)9月下旬、岩手県沖で定時艦隊対抗演習の為艦隊行動をとっていた第四艦隊が台風に遭遇。戦時台風荒天下での練度向上になると判断され演習が決行された結果、当時最新の特型1等駆逐艦初雪が艦橋直下から先の艦首部切断。後に艦首発見後、曳航を試みるも高波で断念。艦首部に取り残された乗員の救出見込みなしの状況で、艦砲射撃で沈められました。
他の艦艇でも深刻な損害がありました。空母龍驤 は高波により、艦橋圧壊。重巡妙高は船体中央部の鋲が弛緩。軽巡最上は艦首外板に亀裂発生。死者54名を出した海難事故です。
軍艦筑波殉難者之碑。明治40年(1907)竣工、当時は一等巡洋艦。大正元年(1912)艦種類別変更で巡洋戦艦となります。
竣工時のポストカード。明治40年代。

竣工後アメリカ植民300年祭記念観艦式に派遣。第二艦隊旗艦として参列。
軍艦筑波は明治の終わりから大正の初めまで皇室との関わりが多く、御召艦として明治天皇、大正天皇、当時摂政宮の昭和天皇も乗艦された軍艦でした。
大正4年(1915)12月、大正天皇即位特別観艦式が挙行され、筑波艦は大正天皇座乗の御召艦をつとめました。

上写真は正面の御召艦に向けて登舷礼式をする下士官兵。
この時は停泊式の観艦式で、錨泊している艦艇を御召艦がその艦首側を微速又は最微速で親閲します。この写真の注目は2点。
まず登舷礼式は通常海側に向けて正体しますが、天皇陛下座乗の親閲艦が艦首側を通りますので、艦首に向けて正体しています。
二つ目は、手前主砲の左側に礼砲が据えられています。
御召艦が親閲海域に入ると、一番近い艦から順に21発の皇禮砲を発射します。
礼砲はもちろん、空砲で音だけです。
【爆沈】
大正6年(1917)1月14日、横須賀軍港内にて爆沈しました。
当日は日曜日のため、半舷上陸で乗員の半数は横須賀の町に上陸していました。
午後3時過ぎ、艦橋と第一煙突の間で大爆発が一瞬にして発生し、5分程で沈没。
軍港内は浅海面のため、艦橋や煙突の一部は海面から露出。
艦内に340名ほどがいましたがその内125名が死亡27名が行方不明となりました。
爆発原因については、主砲砲弾の火薬の自然発火が一番最初に疑われました。
三笠も佐世保軍港で自然発火が原因でこの前に沈没しています。
査問委員会では、人為的に起こされたと結論づけられました。嫌疑者として最も有力とされ行方不明となった二等水兵が爆発当日に窃盗を疑われて、詰問されていたことから自暴自棄になり、犯行に及んだことが推定されましたが、真相は不明。
(写真や解説は一部Wikipediaから引用しています)
これら、紹介した以外にたくさんの慰霊碑、個人墓などが管理されています。
改めて、御英霊に合掌。
御英霊の御霊を守り伝えていくことをお誓いしました。