『When team-mates tied for a WRC rally win』
最近のギリシャのアクロポリス・ラリーでサミ・パヤリとロベルト・ヴィルヴェスがWRC2クラスで同着優勝したのは印象的だったが、WRC(世界ラリー選手権)の総合優勝で同着優勝したほどではない
ギリシャで繰り広げられた出来事と、1985年のコート・ジボワール・ラリーの出来事の間には明らかな違いがあるのだが、奇妙な事に、どちらのイベントもトヨタを駆るフィンランド人が勝利した
コート・ジボワールの場合、ユハ・カンクネンがトヨタのチームメイトであるビョルン・ワルデガルドとの同タイムながら勝利したのだが、2台のセリカ・ツインカムターボは、3位のアラン・アンブロシノ(日産 240RS)に1時間半以上の差をつけていた
「ロードイベントのみで、ステージはありませんでした。[代わりに] オールタイム コントロールでした」と、カンクネンの勝利に貢献したフレッド・ギャラガーはDirtFishに語った
「実際のところ、数字はまったくわかりませんが、TC25からTC26が同点判定になるとレギュレーションに書かれていました。つまり、相手より1分か2分もタイムを縮めた方が勝つということだったのです」
「でも、あれからほぼ40年経った今でも、ユハと私は同点判定のルールが何なのか、知らなかったと言っていたと思います」
「でも、本当に知らなかったのです」
カンクネン(右とギャラガーは、1985年にサファリとコート・ジボワールの両方で優勝しました
これはカンクネンにとって、23回のWRC優勝のうちの2回目であり、4度のワールドチャンピオンに輝いたカンクネンは、その年の3月のサファリで躍進的な勝利を収め、そのシーズンのアフリカでの快勝を達成した
コート・ジボワールはサファリとはまったく異なるチャレンジでしたが、勝つには同様のアプローチが必要でした
「サファリに似ていましたが、はるかに荒れた路面で、速度も遅いルートでした」と、ギャラガーは回想します
「宿泊施設は、当時のケニアにあるものと比べると、見劣りしましたが、レッキでホテルに着くと、どの町にもフランス料理のレストランがあったことです。コート・ジボワールはかつてフランスの植民地だったので、いつもおいしいディナーとおいしいワインを楽しめました」
「でも、それは楽しみではありませんでした・・・ご存知のとおり、当時のサファリのように毎年戻ってくるなんて夢にも思いませんでした」
「その年のサファリでは、シェカー・メッタが通常通りであれば1位か2位、3位にはなるであろうと思いました。シェカーに失礼な言い方になるかも知れませんが、ユハはシェカーよりかなり速いドライバーでした。そしてトヨタはシェカーの日産よりかなり速いマシンでした」
「だから最初の2、3日はシェカーを追いかけて彼のペースで走るというアイデアで、実際にそうしたところ最初のサービス後には8位から3位まで上がりましたが、その後シェカールはコースアウトしました。その頃には、走るペースがわかっていましたので、それをコート・ジボワールに持ち込みました」
コート・ジボワール・ラリーで勝つには、戦術的なアプローチが必要でした
「Gr.Bのマシンで1時間半の大差を付けて勝つなんて、とてもリラックスしたレースで、まったくストレスはありませんでした。ヘンリー・リドンは素晴らしいチームマネージャーでした。ヘンリーはアフリカを知り尽くし、アフリカを愛していました。ですから、成功の大部分はヘンリーのおかげです」
1985年、トヨタにとって最大の脅威となったのは、コート・ジボワールでWRCに初参戦したミシェル・ムートンのアウディでした
控えめに言っても波乱に満ちたレースで、最も有名なのは、アウディが夜中にマシンを入れ替え、ムートンにチームメイトのフランツ・ブラウンのスポーツクワトロを渡したのではないかという憶測が有名な事です
しかし、ムートンはイベント前のレッキでもトラブルに見舞われました
「ユハと私、 ビヨルンとハンス・ソルセリウス、そしてアルネ・ハーツと一緒にいたミシェル・ムートンは、一緒にレッキをしました。当時は本物のマシンを使っていたので、全員がGr.Bのマシンに乗っていました」と、ギャラガーは語った
「ミシェルが先頭で走っていて、砂ぼこりなどのために2分の差がありました。ユハと私は2番目で、当時のラリーのスピードでレッキをしました。そして、コーナーを曲がると、右側の溝にかなり廃車になったアウディが横たわっていて、ミシェルは鉄道車両にマシンをぶつけていました」
「 ビヨルンは素晴らしいメカニックでもあり、数時間後にはクワトロを運転可能な状態にしましたが、運転席のドアが外れたり、いろいろなものが壊れていました。ミシェルはショックで運転できなかったので、ユハがアルネ・ハーツと一緒にアウディ・クワトロを運転しました。ビヨルンはハンスと一緒に先頭に立ち、全員のメモを取りました。私はミシェル・ムートンをコ・ドライバーとしてトヨタ・セリカ・ツインカムターボ Gr.Bをドライブしました。約200~250kmのグラベルを走行しましたが、私の本業はドライバーではありません」
左から: ギャラガー、カンクネン、ワルデガルド、ソルセリウス
「このことを彼女に話したのは確か数年前だったと思うけど、彼女は当時ショックを受けていて、何も覚えていないと。そしてもちろん、それはアウディが夜にマシンを交換したがリタイアしたイベントで、大きな話題のラリーでした」
しかし、見出しを飾る同タイムでの勝利については、ギャラガーは個人的な満足感を味わってはいない
「どちらのクルーも勝利に値したので、実際に勝利を分け合えなかったのは、ある意味残念で、クルーでは無くチームの勝利だった」と、彼は語った
「どちらに転んでも、まったく恨みはなかった。私たち4人はとても仲が良かった。何でも共有していた。いつも一緒に食事をし、一緒に飲み、一緒にパーティーし、一緒に旅行した。とにかくみんなが仲良くしていた」
----------
現在のWRCスポーティングレギュレーションでは、同タイムでフィニッシュした場合にはオープニングステージで速かったドライバーの順位を上とすると定められていることから、ギリシャの勝者はパヤリとなりました
当時のコート・ジボワールは、今では考えられない程のイベント総距離4103.00kmと言う長丁場で、TC25からTC26が同点判定になるとレギュレーションに書かれていたと言う事ですから、最終日の最初のSSと次のSSか、最終SSと1つ前のSSだったのでしょうねぇ
それにしてもWRCの長い歴史の中でも、トップカテゴリーで同タイムだったと言うのは、この1戦だけなんでしょうね
ブログ一覧 | 日記
Posted at
2024/09/20 19:09:33