
昨日書いたブログのちょっとした続編です。
ブログに貼った古い写真を見ていると、この場所はより正確にはどこなんだろうかと、もう少し確認してみたくなりました。‥‥って、う〜ん‥‥‥宇都宮にゆかりがなければ、たぶんほとんどの方にとって興味ないですね‥‥。まあ、せっかく調べたので、そのままブログに書きます。
まず、宇都宮の写真として最初に貼ったこれです。
この写真の説明には、
「明治期の大谷街道、一の沢付近の人車客車(旧陸軍輺重部隊、作新学院が見える)」
と書かれています。
輺重部隊とは、軍のロジスティクス部隊のことですから、この2台の馬車がそうなのでしょう。作新学院がどれなのかとなりますが、学校らしい大きな建物は左端のものくらいしか見当たりません。そして、道の奥に山林が見えることから、街の方を向いているのではなく山の方(北西方向)を正面にしているのであろうと考えられます。そう考えると、右に見える林は護国神社のある林ではないかと思われます。
なお、護国神社は、この当時はまだ宇都宮招魂社という名前だったそうです。ここは戦没者を慰霊する神社ですが、元々は、戊辰戦争に殉じた宇都宮藩藩主戸田忠恕および藩士96柱の合計97柱を祀るために創建されたそうです。そのため、長州藩の一部だった周防国出身の私は、もしかすると恨まれているかもしれないなと思いつつ、お参りさせてもらっています。
ちなみに、会津藩だったお隣福島県にて「嫌いな都道府県はどこか」というのアンケートをとると、今でも山口県が第一位になるそうです。150年ごときで戦争の遺恨は消えぬものかということなのでしょうか。嫌われてもどうすることもできませんけども。
話が脇道に逸れました。
では、この写真が撮られた場所は現在どうなっているのか、Google Mapのストリートビューでおおよその場所を探ってみました。おそらくこの辺りから見た風景なのではないかと思います。

護国神社の木々は大きく育ち、創建して間もなかった当時よりも、今は林が大きくなっているのではないかと思います。
次に、昨日のブログで貼った順とは前後しますが、こちらの写真はどうでしょうか。
この写真の説明には、
「出荷を待つ大谷石と人車貨車の脇を、車夫に押されて人車客車が宇都宮市街地方面に向かう。」
と書かれています。
緩やかに右カーブしているところですね。軌道が左で道路が右になっているので、最初の写真と逆です。市街地方面を向いているとのことなので、最初の写真が山の方を向いている裏付けにもなります。
大谷街道の市街地近くは概ね左カーブとなるため、右カーブは少し離れたところにしかありません。一方で道幅が広いことから、市街地からあまり遠くではないと思われます。ということで、おそらくこの辺りから見た風景なのではないかと思います。
撮影地点からボルボがある辺りまで、大谷石を一旦集積するところだったようですね。
この二つの地点と見ている方向を地図に示すと、このようになります。上が①で下が②ですね。(宇都宮に馴染みのない方とっては、だから何? でしょうけど‥‥)

う〜ん‥‥すごい近所。
そして、最後にこの写真です。
この写真の説明には、
「大正期の大谷街道、宝木付近の人車客車(遠くに多気山、奥から人車が近づく)」
とあります。
明治期よりも少し後の写真のようです。台車しかない人車がいっぱい溜まっていますね。
この写真を見ると、軌道の横のスペースは狭く、ほぼ二本の軌道で占められている感じです。多気山を正面に見ているとのことなので、右側の林は、大谷石の採掘場よりも手前に今もある林でしょうか。
ということで、おそらくこの辺りの風景ではないかと思います。
荒針方面と採掘場方面に分岐する少し手前あたりかなと思います。この③辺りですね。かなり市街地から離れた山に近いところです。
この地図の右下に若干出てくる「明保通り」は、大谷石を運ぶための専用軌道が通っていた跡地を使った道路です。それは、上述の大谷街道を通る軌道とはまた別ものです。
明治期に軌間610mmの人車で始まった軌道は、その後(1915年(大正4年))に軌間1067mmの軽便鉄道として大谷から日本鉄道鶴田駅(現日光線)まで通され、後に東部大谷線となったようです。
もう少し引いた絵にすると、こういう感じですね。
市街中心部からの軌間610mmの人車軌道と、鶴田からの軌間1067mmの軽便鉄道とは、合流後には並走していたようです。
大谷石を大量輸送できる鶴田に抜ける路線ができても、大谷街道沿いの人車軌道線はそのまま使われたようです。とは言え、1928年(昭和3年)にガソリンカーが導入されたものの、1934年(昭和9年)には旅客営業がなくなり、1940年(昭和15年)には廃止されたようです。
そして最後まで残った東部大谷線も、1964年(昭和39年)には廃止されたそうです。
諸行無常。
宇都宮ライトレールは、JRの東口から西口に抜けた後、大通りから大谷街道を通り、①を過ぎて②の少し手前まで延伸する計画となっています。
数年後にライトレールができた後に、もう一度、人車軌道の写真と見比べてみたくなりますね。
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Posted at
2024/11/21 21:01:13