2020年10月01日
関ケ原合戦から2週間後。
主犯格の石田三成、小西行長、安国寺恵瓊は、京都六条河原で処刑されました。
三成の辞世の句は、「夜に漁師が琵琶湖に小舟を出して、かがり火をつけて漁をしている」 という、昔見た故郷の光景を懐かしむものでした。
大望を望んだ人間でも誰でも、最後はふるさとに帰るのかな と思いました。
また、直江兼続に仕えていた前田慶次が歴史上初めて現れた日でもあります。
長谷堂城で戦っていた直江兼続はもうだめだと思い、自決しようとしましたが、
前田慶次は「死ぬのはいつでもできる。今は生きて帰る事だけ考えろ。」と言って殿を務め、なんとか撤退する事ができました。
それにしても、前田慶次は魅力的ですよね。
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Posted at 2020/10/04 04:53:01 | |
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420年前、なう。 | 旅行/地域
2020年09月24日
関ケ原合戦で勝利した後、家康の唯一の気がかりは、大坂城の毛利輝元だった。
豊臣秀頼と一緒にいたので、下手に動けない。
そこで家康は、毛利輝元に「身の安全」と「本領安堵」を条件に大坂城からの退去を提案すると、輝元はそれをすんなり受け入れ、大坂城から去ってしまった。
しかし、そうはいかなかったのが家康のズルい所。
家康は毛利に対して、「毛利は潰す。毛利輝元は処刑する」と言った。
これを聞いた吉川広家は 「約束が違う。」と怒り、家康のいた草津へ足を運んだが、
家康は 「家来が勝手にやったことだから、知らない。」
と言い、広家は門前払いされてしまった。
しかし再び足を運び、また門前払いされて、3回目、吉川広家は白装束(死を覚悟した)で家康の所へ押しかけ、その勢いに負けた家康は、ついには
「毛利は許す。輝元も助ける。」
と言ってしまい、吉川広家の勢いに根負けしてしまった。
だが、その後の展開が歴史の面白い所。
徳川幕府が衰退していた幕末。
薩長同盟で薩摩と長州が手を組んで、徳川幕府は滅びた。
もしもあの時家康が、吉川広家の押しに負けずにそのまま毛利を滅ぼしていたら、薩長同盟はないので、幕府は滅びずに済んだのかもしれない。
ちなみに薩摩はご存じ島津なので、こちらも徳川に手痛い目にあわされた人たちの子孫になる。
薩摩は江戸時代に、徳川の無理難題の命令「宝暦治水」により、莫大な借金を背負わされ、多くの藩士が苦しみながら死んでいった悲惨な事件がある。
これは明らかに、徳川の島津に対する嫌がらせだ。
長州と薩摩は大名行列で江戸へ行った時、いつも殿様と家臣との間で、恒例の合言葉があった。
「殿、そろそろ 殺りますか?」
「いや、時はまだじゃ。しばし待て。」
彼らはこれを260年間も続けた。
そしてついにその時が来て、殺った ということになる。
先祖から子孫へと恨みが重なる、蓄積は恐ろしいものです。
ちなみに、坂本竜馬は土佐の下士なので、長宗我部一族の子孫となり、こちらも関ケ原合戦で西軍で負けています。
関ケ原合戦で負けてそのあと、大変な苦労を強いられた人たちの子孫たちから、幕末に英雄が誕生して、新しい時代を切り開いた というところが、とても興味深い所です。
ここまで読んで下さって、ありがとうございました。
^^
Posted at 2020/09/25 15:13:39 | |
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420年前、なう。 | 旅行/地域
2020年09月23日
西軍の居城だった大垣城には、7500人の兵がいた。
本戦で東軍が勝利した翌日の大垣城内にて、日向等の大名3名が命欲しさに、仲間の大名の首を売った。
同じ日向の大名(2名)でも、島津豊久とは全然違って、カッコ悪いですね。
大垣城内の大名3名が謀殺され、石田三成の妹婿の福原長たか がいる本丸のみが残った。
しかし、東軍が攻撃するも、幅の広い水堀のある大垣城は容易に落ちなかったが、
徳川家康による降伏勧告により、開城した。
因みに、大垣城主は伊藤盛正なのだが、三成らに追い出されたので、松尾山城へ移った。
しかし、今度は小早川秀秋に追い出されたので、不幸にも二度も追い出されてしまう。
Posted at 2020/09/25 14:52:23 | |
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420年前、なう。 | 旅行/地域
2020年09月22日
「現代風」
石田三成経理部長と大谷吉継人事部長は、徳川家康社長を首にしようと考えた。
徳川家康社長は、大日本国企業創設者である豊臣秀吉会長の遺言を守らず、会長御子息の秀頼ぼっちゃんを追放して、会社を乗っ取ろうと好き放題やっていた。
会長に大恩のある石田三成経理部長は、徳川家康社長の暴挙を許せなかった。
しかし、部長は社長よりも地位が低いので、歯向かっても、僻地の離れ小島の支店へ出向を命じられ、首に追い込まれるだけだ。
そこで二人は、「毛利輝元副社長を味方につけて、仲間を増やして、みんなで社長室に押しかけよう」と考え、巧みな話術で副社長をこちらに引き込んだのが、安国寺恵瓊営業本部長だった。
・・・やり方が、半沢直樹に似ている。
石田三成経理部長たちは、会社の半分の社員たちを味方にして、一気にみんなで社長室へと押しかけた。
本社ビルは数万の反社長の社員たちで取り囲まれ、鉢巻きを締めて横断幕を掲げ、プラカードを持ち、「社長、辞めろ!!」と叫び声が飛び交っていた。
社長一派の社員たちはこれに対抗し、激しい口論を展開していた。
結局の所、裏切り者の小早川秀秋専務の「徳川家康社長に非はありません。」発言により、徳川家康社長の大勝利となった。
立場を失った安国寺恵瓊営業本部長は、石田三成経理部長と同様、必死で逃げた。
体の不自由な大谷吉継人事部長は逃げきれず、会社の未来に絶望して、その場で辞表を提出した。
最初は京都府鞍馬営業所の山中の社宅に身を潜めていた安国寺恵瓊営業本部長だが、「田舎は人付き合いが密接だから、よそ者の噂はすぐに村中に知れ渡る(関ケ原がそう)。それならば、都会に紛れた方が人がいっぱいいるし、都会は近所付き合いも薄し隣に誰が住んでいるかも知らないから、絶対にばれない」と考え改め、京都府六条支店の社宅マンションに潜伏する事にした。
ところが、潜伏先の社宅マンションで、逃げ切れないと思った一緒に逃げた部下の課長に首を絞められそうになったりもした。
420年前の今日、自由の身の最後の夜、安国寺恵瓊営業本部長は何を考えていたのだろうか。
結局、安国寺恵瓊営業本部長は、顔を知っている徳川家康社長の部下の家族に見つかってしまい、徳川家康社長に通報されて、会社を辞めさせられてしまった。
・・・たまにはこういう書き方も面白いね。
Posted at 2020/09/22 06:02:00 | |
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420年前、なう。 | 旅行/地域
2020年09月21日
関ケ原の家々は、藤堂高虎によって「ここが戦場になるだろう」と焼け野原にされていた。
焼け出された関ケ原の村人達だが、合戦前に石田三成が村々を廻り、「もうすぐここで戦が始まる、逃げろ」と伝えたおかげで誰も死ななかった。
村人達は、それぞれの避難場所となる山の中から戦の行方を見ていた。
戦が一日で終わったのは分かっても、恐ろしくて山を降りることができなかった。
当時の農業は二毛作で、先に米を作り、次に麦を作っていた。
麦は自分たちの食料だから、早く下山して農業を再開しないと、飢え死にする。
そこで村人達は、家康にお願いして、禁制(「この村に手を出すと家康が許さない」という証明書)を出してもらおうと考えた。
420年前の今頃、家康は近江の大津城に滞在していた。
関ケ原から大津まで、約80キロ。
関ケ原の村人が、一筋の光を求めて、家康の後を追っていた。
Posted at 2020/09/21 19:06:29 | |
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420年前、なう。 | 旅行/地域