関ヶ原合戦で、東軍は嫌いだけど、藤堂仁右衛門は好き。
という西軍ファンは、結構多いのではないだろうか。
私は関ケ原で彼の物語を語っている。
聞いている人のほとんどは、息を呑んで静まり返り、最後は感動する。
それほどに心揺さぶられる壮絶な出来事が、関ヶ原であった。
旗
藤堂仁右衛門は、藤堂高虎のおいっこ 高虎のお姉さんの子供 になり、本名は高刑。
彼は関ヶ原合戦の15年後 1615年 慶長20年 5月6日 大坂夏の陣にて、長宗我部盛親と戦い、ここ八尾市で戦死した(八尾の戦い)。
享年 39歳。
門
門の塀に5本の白線が引かれている事から、最高ランクのお寺という事がわかる。
そんな彼は、関ヶ原合戦で、何があったのだろうか。
過去にもたくさん書いたが、再びここで振り返ってみようと思う。
大木
(大木の向こうのお墓)
関ヶ原合戦で、大谷吉継は藤堂高虎と戦っていた。
そこで、松尾山の小早川秀秋15000人が裏切って、大谷吉継・平塚為広ら5000人を攻撃した。
それに続き、脇坂・朽木・小川・赤座5000人も裏切って、彼らを攻撃した。
(*小早川秀秋と脇坂安治は、最初から東軍に味方すると約束していたが、その時の流れでしかたなく西軍についていた。島津義弘と同様に京都の伏見城へいき、鳥居元忠(東軍)と共に戦うつもりだったが、鳥居元忠が彼らを城内に入れなかって、そこへ西軍の主力部隊がやってきて、しかたなく西軍に着いた。
小早川秀秋はその後伊勢方面へと向かう西軍の主力部隊から抜け出し、滋賀方面をうろうろ移動し、不穏な動きをしており、合戦の前日にいきなり松尾山に布陣した。
300人で松尾山に居た西軍の大垣城主の伊藤もりまさを押しのけたと言われているが、もともと豊臣秀頼を連れた毛利輝元を迎える予定だったので、毛利筋の人間という意味で三成に招かれて入ったと考えるのが有力。
脇坂安治は大谷吉継と共に北陸へ前田攻めに行った戦友になる。)
大谷吉継は石田三成の親友で、最初は三成が家康と戦う事を反対したが、恩義があり親友でもあっ他ので、これを承諾した。
味方の少ない三成をなんとかするために、五大老毛利輝元・宇喜多秀家を味方に入れるという作戦を提案し、三成と仲のよかった外交術の達人の安国寺えけいの活躍もあり、徳川家康に匹敵する大部隊を手に入れることが出来た。
関ヶ原で三成が家康と互角の勝負が出来たのも、彼のおかげといっても過言ではない。
大谷・平塚らは何度もこれを押し返したが、最後は周りを敵に取り囲まれ、平塚為広は壮絶な戦死、大谷吉継も自害を覚悟した。
大谷吉継はらい病でただれた皮膚を隠すために頭巾をかぶって目だけ出していた。
目も足も不自由。
普段は輿の上に乗って、上から指揮をしていた。
追い詰められた大谷隊の家臣たちは、一人また一人と敵の中に飛び込み、次々と死んでいった。
死を覚悟した大谷吉継は、自分の醜い首を敵にさらしたくないと、側近中の側近 湯浅五助に、
自分の首を斬って、地中深く埋めよ と命じ、腹を斬ってこの世を去った。
ところが、これをみていた人物が居た。
敵が見ていた。
その敵こそが、藤堂仁右衛門だ。
大谷吉継の首を埋めている湯浅五助の前に、ふらりと藤堂仁右衛門が現れた。
湯浅五助は武術の達人でとても強いので、仁右衛門を倒す事はたやすかったかもしれない。
しかし五助は仁右衛門にこう言った。
『自分の首を差し出すから、大谷吉継の首のありかは誰にも言わないでくれ。』
それを聞いた仁右衛門は、五助の熱い忠義心に心を打たれてこれを承諾した。
五助もまた主君の後を追って腹を斬り、仁右衛門は五助の首を斬り落とし、その首だけ持って、家康のところへ行った。
しかし、これをみた家康は何かがおかしいと思った。
なぜならば、大谷吉継は逃げられない。
目が見えない。
足が不自由。
なのに、側近中の側近の湯浅五助の首だけあって、大谷吉継の首がない。
これはなにか変だ と思った家康は、仁右衛門を問いただした。
すると、仁右衛門はあったこと全てを正直に話してこう答えた。
『湯浅五助と約束をしたから、例え家康様であっても、大谷吉継の首のありかは言えません。』
これは大変無礼な発言で、家康に斬られてもおかしくない。
しかし逆に家康は仁右衛門を褒め、褒美まで与え、それ以上、大谷吉継の首のありかについては何も聞かなかった。
だから、今でも関ヶ原のどこかに、
『・・・大谷吉継の首が眠っている。・・・』
と言われている。
首が眠っていると言われているあたりに、大谷吉継のお墓がある。
お墓の下には何にもない。
では何故そこにお墓があるのか。
実はこのお墓は、藤堂家の子孫が建てたお墓だった。
子孫の人たちもまた、ご先祖様たちの行いに心を打たれて、敵のお墓を造った。
そのすぐとなりに、湯浅五助のお墓も建てられた。
二人のお墓は同じ枠の中で、仲良く並んで立っている。
そしてこれら二つのお墓は、今日に至るまで、関ヶ原町の人たちによって大切に保護管理され、現在に至っている。
というお話しです。
石碑
お寺の入り口は北と南と東にありますが、写真の大きな門は東側にあります。
このお寺 常光寺 は、大坂夏の陣で藤堂隊が首実検を行った場所で、お寺の縁側に首を並べたそうで、その首を並べた板をはがして、現在このお寺の天井に 『血天井』 として貼り付けています。
墓所はお寺の奥にありそうでした。
そこへ行くには、お寺の渡り廊下を上げなければならなかったので、
お寺の方に事情を説明して許可を頂き、渡り廊下を上げてから、奥のスペースへと進むと、墓地のある広い空間へと出ました。
大木の向こうにあるのが、藤堂家の墓所になります。
根っこ
これら6つあるお墓が大坂夏の陣で戦死した藤堂家の重臣たちのお墓で、そのうちのどれかが藤堂仁右衛門のお墓 との事でした。
右から
どれが彼のお墓かは分かりませんでしたが、この下に眠っているのは確かな事だったので、ここまでこられた事に感動しました。
左から
そこは都会の街中の静かな空間でした。
関ヶ原合戦にて、人情を取り、敵の情けのために命がけで仁義を貫いた彼は、こんなところに眠っていたんですね。
私は当事者ではないのですが、
『ありがとう。』
という気持ちが胸に沸いてきました。
裏の駐車場から
大阪府八尾市本町5-8-1 常光寺
(駐車場はお寺の西側にありますが、道が細いので、大型車はお勧めできません。)