先日紹介した
大和展in三笠。
数々のプレッシャーと、自分の意思の弱さに負けて(?)行ってきました。
旅の過程や、三笠は置いといて、いきなり本題突入。
まずは予想に反して、速攻レポ。
前編、
後編。
三笠は日露戦争を中心に、大和ミュージアムは呉に特化した感がある。
東西の雄が混じり、日本海軍が集結したように思えたが・・・長門がない。
やっぱり海軍をきちんと取り揃えるのは難しいのかな?
話を戻し、講演会の詳細を。
講堂の客席はほとんど埋まり、大盛況。
年齢層はやはり高かった。
始めの30分は大和ミュージアムの紹介ビデオの上映。
それから館長の日高氏の講演が始まった。
40分くらいかけて、明治維新の開国、呉工廠の設立、戦艦の国産化、軍縮会議とネイバル・ホリデー中の技術の維持を話した。
それからやっと大和誕生に至る。
まずは言い訳がましい内容で、大和の構想開始時期は昭和9~10年頃。
この頃の飛行機は1次大戦記と大して変わらない。
とても飛行機が主役になるとも思えない時期だった。
日本でも零戦の開発が始まったのは昭和10~12年。
飛行機の方が断然小さく、開発スピードも速い。
大和の開発があと1~2年遅かったら、それなりに飛行機対策が施されたのでは?とのこと。
世間では時代遅れと言われているが、それは結果論で、当時は間違った考えではなかったと。
当時から物資が乏しい日本では代替材といって似た材質のものを模索していたが、大和の関しては適応されずに従来の良い材質で作られたとのこと。
そんな明治以降の海軍のお話をして、一区切り。
続いては大和関係者とのお話をしてくれた。
大和ミュージアムは20年前から構想があり、日高氏はそれ以前から博物館関係の仕事をしていたので交流が広かった。
大和の設計主任の牧野 茂 技術大佐。
10年位前に亡くなっているのだけど、亡くなる直前まで大和の設計に対して悔やんでいた部分があったとか。
最大防御部分の鉄の厚さは41センチ。
溶鉱炉の大きさの問題もあり、大面積で肉厚の装甲を作れない。
そこでレンガの壁のように、装甲版を区切って組み合わせた。
ブロックの中心に弾丸が当たれば耐えられる。
だけど、継ぎ目の部分は「・・・」だったそうです。
他にも一人乗りの特攻水雷艇も設計したので、「海軍の最も大きい船と、最も小さい船を設計した」と自慢していたそうです。
あとは名前は忘れたけど、長年副長を務めた人の話。
沖縄特攻の時に退避命令を出した後、伊藤長官が部屋に戻って「カチャッ」と鍵を閉める音を聞いた人とも交流があったそうで。
最後は河合登志男 大先生。
「海の科学館」の1/50の製作もそうだけど、呉の1/10にも関わった人。
そんな話をして、質疑応答。
マニアックと言うより、ちょっとずれてた質問が多かったかな。
それでもきちんと回答して、納得。
こうして約2時間の講演が終わったとさ。
記憶が曖昧だけど、なかなか知りえない事を聞けたので満足。
他の工業製品にはない魅力があるよな~。と、不思議に思う。
Posted at 2007/11/12 22:58:34 | |
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