本を買っても読まない.
模型を買っても作らない.
俺はそんな人間だ.
勿体ない、といいながら、せっかく買ったものを使わない.
手が届くところにある「オクタン」を開いた.
読んだはずだけど、覚えていない、と思った.
本当は、多分、読んですらいないのだ.
内装を全て新品にできる事がすばらしい.
後方の赤いNAのタイヤハウスのスキマ.
これが新車だ.
「ロードスターの登録台数が毎年300台ほど減っている」
この記事の取材にマツダが答えたデータならば、それは国内の、NAの数字であるはずだ.大ざっぱに、一日に、一台ほど、NAはこの世から消えるのだ.
「普通のクルマ」として毎日使われ、やがて「修理に大きな費用がかかるクルマ」として廃車にされるのだろうか?
全く距離を刻まない俺のロードスターを見て、娘もロードスターを日常のものとは思っていない.
新車のような小豆色が、毎日の買い物でスーパーの駐車場に停められ、雨の降る国道を大型トラックに挟まれて通勤を急ぐことはない.
「保険や税金が勿体ない」もうそんな感覚も失った.
わかっている、それはクルマの使われ方として間違っている.
初代ロードスターを「ただのクルマ」として使う事はできる.
しかしそれは「ただのクルマ」を超えた存在である事は間違いない.
日本の自動車の歴史においても、オーナーと毎日走って積み重ねた距離(と記憶)においても、愛され、より尊重されて良い存在であるはず.
マツダはロードスターを生み出し、全世界のオーナーが自分のロードスターを愛している、マツダはそのパーツを供給し続け、その恩恵で自分の古いロードスターを新車のように甦らせる事ができるオーナーがいる.
このキャッチボールこそ日本が誇る数少ない自動車文化だと確信している.
労働使役から開放される事は、ロードスターへのご褒美だ.
それを与える事ができる自分の環境に感謝し、その境遇に幸福を感じる.
俺は間違いなく、自信を持って、ロードスターでしあわせになったと言おう.
使い続けられてすり減って廃車にされるロードスター(とそのオーナー)もきっと幸福(だった)だろう.
しかし「乗らないロードスターのしあわせ」もあるのだ.
そのしあわせは、終わりを迎えることなく続くのである.
Posted at 2021/06/19 12:59:13 | |
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ロードスターのこころ | 日記