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2023年09月03日

関東大震災100年 帝国海軍の被災者支援

関東大震災100年 帝国海軍の被災者支援 令和5年(2023)9月1日は大正12年(1923)に発生した関東大震災100年にあたります。死者・行方不明者は推定10万5,000人、明治以降の日本の地震被害としては最大です。ここにあらためてお亡くなりになられた方々にご冥福をお祈りします。




現在も陸海空自衛隊は被災地の支援を積極的にやり自衛隊への国民感情のアップに繋がっていることは皆さんも周知の事実と思います。
昨今の関東大震災関連の報道で当時の陸海軍の被災地支援を取り上げた報道は皆無ではないでしょうか。朝鮮人に対するデマや虐殺などばかりが報道され、軍、警察、消防、民間の消防団、自警団が被災者支援に奮闘したことなど報道されません。「昔の日本人ってほんとに悪い人たち」とのレッテル張りをしているようにしか思えてなりません。

自然災害で陸上交通手段が途絶した大震災では海からの物資補給と被災民輸送は海軍の力が必要なことは東日本大震災でもお分かりと思います。

今回は関東大震災発生当時の帝国海軍の活動を見てみたいと思います。
当時の首相:山本権兵衛海軍大将


第一艦隊司令長官兼聯合艦隊司令長官:竹下勇大将


第二艦隊司令長官:加藤寛治中将


 阿川弘之著『軍艦長門の生涯』(新潮社)から当時の帝国海軍の被災地支援を紹介します。


戦艦長門:竣工1920年 震災時はまだ竣工後3年目の新造状態。

大正12年(1923)8月30日、旗艦長門率いる聯合艦隊は支那の大連北方裏長山列島の泊地に入った。ここで一週間にわたる年度恒例検閲を受ける予定になっていた。軍艦の学期末試験のようなもので各艦ともよい成績を得ようと外舷を綺麗に塗装し、真鍮の金物も磨き上げ緊張して検閲に望む。
長門の指定検閲日が九月一日、僚艦陸奥が九月二日であった。

長門では、一日の朝、いつもより15分早く「総員起こし」の号令がかかり、八時からの分隊点検で検閲が始まった。午後は戦闘教練、防火教練があり、三時過ぎようやく解散になって、みんなほっとし、釣道具を持ち出す者、前甲板で涼しい風に吹かれて話に興じている者、乗組員は誰もまだ地震のことを知らなかった。

当時、海軍大尉で最年少の聯合艦隊参謀として「長門」に乗艦していた福留繁(のち中将)は、昭和四十六(1971)年に著した『海軍生活四十年』(時事通信社)のなかで、一日の午後三時頃、水雷戦隊司令官の中村良三少将が艦隊司令部にやって来て『電波の様子をみると、どうも東京に何か大変なことが起こったようだよ』ということであった。

第二艦隊長官の加藤寛治の震災日誌は『九月一日、聯合艦隊裏長山列島に在りて恒例検閲中、午後三時船橋第一信新聞電報の末端に於いて警を伝ふ』と記し、大正十三年版海事参考年鑑に『船橋電信所は九月一日午後三時頃震災の概要を各方面に発信した』とある。「一日の午後三時頃」というのは諸種の記録がほぼ一致している時刻で、多分これが震災に関して聯合艦隊の得た最初の情報であった。

ただし加藤日誌の『爾後(じご)続々として船橋電来り(きたり)』とあることが、どの程度正確であったかは分からない。なぜなら、聯合艦隊が救援に腰を上げたのは翌二日の夕刻であり、乗員一般が大震災の模様を知らされたのは二日の午後で、それまでは竹下長官以下、比較的悠長にかまえていた節が見受けられるからである。

当時新婚早々の高木惣吉大尉がこの時第二水雷戦隊の駆逐艦航海長として裏長山にいた。震災の思い出を、『公電は簡単だが、新聞電報ときてはまったくデタラメで、横須賀が海底に沈没した、逗子、鎌倉は津波で全滅、東京は大火災で死傷幾十万とか、判断のつけようもなかった』と書いている。

要するに、情報が不足しかつ混乱していて「新聞電報の末端」で聯合艦隊が行動を起こすわけには行かなかっただろうと思われる。
東京船橋間にやっと人馬による連絡がつき、海軍電信所が公式の重要電報を発信できるようになったのは、九月二日の午前であった。

裏長山列島の第一艦隊では、二日の朝、予定通り陸奥の検閲がはじまった。
聯合艦隊が比較的悠長に構えていたという証査に、検閲はともかく、この日長門の方は、午前中休業、半舷上陸を許可している。上陸し陸上競技に汗を流す者もあれば、艦内で記念写真の現像をやっている者、ボートを出して釣りをしている者もあった。

当時長門乗組の高橋角次という一等機関兵が日記を残しており、この人は電気屋らしい几帳面なたちで五十数年間一日も欠かさず日記をつけていて、この年の長門の行動に関するかぎり、最も信頼すべき資料の一つかと思われる。

高橋の日記には『九月の二日とは云へもう初秋のようなここの気候、午後にでもなると暑いどころか寒い風が吹く。
三時頃だ。自分が対岸の日露戦役の祭の艦隊根拠地記念碑を眺めていると、何となく艦内が騒がしい。
「何?六時半?」「出港?」「横須賀・・・地震・・・火災」、とぎれとぎれに聞こえる。早速駆け下りてみる』と書いてある。

船橋電信所を通じて、聯合艦隊が震災の公電第一報をうけ、海軍次官の帰国命令に接したのは、この一時間ほど前で、長門の司令部から「恒例検閲中止。各艦至急点火、準備出来次第単独出港、所定二従ヒ被災地又ハ待機港二急航セヨ」という命令が出た。一週間停泊するつもりで休ませてあった長門の四室二十一個の水管式ボイラーには、すぐ火が点じられた。

聯合艦隊の初動は今のSNSがある世界から見れば、ずいぶん遅く海軍次官の帰国命令を受けて裏長山に停泊中の各艦がボイラーに火を入れたのは、震災発生から27時間後の9月2日午後3時頃のことだった。
しかし、初動は遅かったけれども、このあと聯合艦隊の救援活動は、めざましいものがあった。

艦隊側では、『こんな時こそ、海軍は国民の役に立たなくてはならん』という思いが、強く将兵の胸にあった。

二日午後五時前後には、第一第二水雷戦隊の駆逐艦群、第三戦隊の巡洋艦球磨、多摩、大井、第五戦隊の巡洋艦名取、長良、鬼怒など、身軽なものから、順に錨を上げて裏長山列島をあとにした。
戦艦戦隊や巡洋戦艦戦隊は、そうすばやくはいかなかった。検閲のためいろんな機械が分解してあった。それらを組立どうにか長門が僚艦陸奥とともに泊地を出港したのは二日の午後六時半であった。

横須賀籍の長門には罹災地に家のある乗組員がたくさんいた。海軍は平素、港々で女と酒はつきもののようなことを言っているくせに、意外な愛妻家やフェミニストが多く「鎌倉は全滅だというから、俺の女房はもう生きとらんだろう」としょんぼりしている士官もあれば、「下宿娘、大丈夫かなぁ」と心配そうな下士官もおり、艦内は震災の噂で持ちきりであった。

ちょうど二百十日の台風シーズンで、翌九月三日午後から長門は台風の暴風圏に突入した。上記の高橋日記には右舷砲廊が浸水し、最上甲板に出るのは危険な状態になったと書いてある。

各艦単独航海のため、脚の早いフネは次々と、追い越せるかぎりのフネを追い越していった。駆逐艦や軽巡洋艦ははるか前方にマストも煙も見えなくなった。ふだん演習の時、艦隊がこういうてんでばらばらの行動をとることはないので、いくさにすれば極端な乱戦追撃戦の様相であった。

復興資材の電線を積み取りに、別途釜山へ向かったフネもいる。次第にはげしくなる時化の中を、連続二十ノットの高速運転で白波をかぶっている長門の近くには、同じく巨体に白波を浴びる陸奥の姿だけが見えていた。
一夜明けて長門と陸奥は九月四日の午前九時、鹿児島県志布志湾の一角、現在宇宙ロケット打上センターのある内之浦湾に入港した。

「浅草の十二階がたおれた。三越も帝劇も焼けた」と情報が入ってくる。陸奥の搭載している食料品を長門に積替え、伊勢、日向も食料医療品を、長門に移した。救援物資を満載した長門は午後三時十五分、単艦で内之浦湾を抜錨した。

あとは一路、横須賀へ、横須賀へ。その思いを、若い一等機関兵だった高橋角次の日記に「この食料品とこの薬品で困窮の人たちを救うのは、実に我々の任務である。行方は如何に。唯早く到達したい一念ばかり」と書き記している。

宮崎県の都井岬よりまっすぐ、伊豆半島突端の神子元島に定針して、長門は文字通り横須賀へ急行した。長門が伊豆半島沖にさしかかったのは、九月五日の朝十時ごろであった。連日、デマとも真実ともつかぬニュースに悩まされていた乗組員たちは神子元島灯台がちゃんとたっているので、いくらか胸をなでおろしたが、やがて浦賀水道に入り、観音埼灯台を正横に見て左へ変針すると、行く手に一面の黒煙が望見された。








艦橋は、大型望遠鏡を覗く人々でいっぱいであった。軍港の岸に並んだ大重油タンクから油が流出し、火災の火が移って海はまだ炎々と燃えていた。
午後二時半、長門は横須賀に入港。内之浦湾を出てから二十三時間十五分という異例の早さであった。鎌倉、逗子、横須賀方面に妻子のある者だけを下ろして、すぐ東京へ向かった。

芝浦沖に着いてみると、首都の被害が予想以上に深刻な事が分かった。すぐに救援物資の陸揚げを開始。芝浦の岸壁上に、まもなく、米麦、乾麺包、砂糖、毛布、味噌樽、医薬品の梱包の山が出来上がった。

巡行を取りやめた練習艦隊も入港し、さかんに物資を下ろしはじめた。特務艦の富士と第十四駆逐隊は長門入港前から東京の警備と救援についていた。第二艦隊旗艦の戦艦金剛が六日の朝、品川に入港した。午後横須賀防備隊所属の小さな三等駆逐艦二隻が真水をもらいに長門に横付けした。

「二日の早朝横須賀を出てから、品川、横浜、横須賀、品川と征ったり来たりで、休む暇も無ければ真水をつむひまもない。洗面も入浴も全然していない」と言いながら、不服そうなそぶりは少しも見せなかったという。誰もが不眠不休であった。

やがて、東京市内に家族親戚のある乗員の慰問上陸が許されるようになり、長門の下士官兵たちも、背負い袋にコンデンスミルク、菓子、煙草、缶詰類を積めるだけ詰め込んで上陸していった。縁故者のない兵隊は散歩上陸すら認められないからこの連中が帰ってくるのを待って、争って話を聞く。

「本所深川あたりは完全な焼け野原で、そりゃぁもうひどいもんだ。一週間以上たっているのに溝の中にも道ばたにも死骸がごろごろ捨ててある。広場は死体の山で整理なんかまだ全然ついてやしない。生き残った人間は、疲れ切って腹を減らして、夢遊病者のように肉親を捜し回ってるよ」とそういう話である。

九日の朝には日向、比叡、霧島が入港し山なす食料品を団平船に移して波止場へ運ぶ。午後には陸奥も最上甲板に米麦を満載して呉から入港した。
海軍は陸奥、伊勢、山城、迅鯨、浅間、磐手、平戸その他古いフネ、新しいフネ、七十余隻の艦艇をあげて京浜地区と阪神、又は清水港とのあいだの避難民輸送に従事した。水兵は舷梯を上がる老婆を背負い、軍医はけが人の手当をし、主計兵は赤ん坊のミルクをこしらえた。

人々は軍艦のデッキに上がると、一様に非常な安堵の色を見せ、中には兵隊の手を握って「ありがとう、ありがとう」と泣き出す者もあった。

避難民輸送にあたったフネのうち一番新しい出来たての軍艦は潜水母艦迅鯨であった。迅鯨は三菱長崎造船所で完成後、横須賀へ回航中土佐沖で震災発生の報に接し横須賀へ急航した。横須賀に入港すると、すぐ横須賀清水間のピストン輸送を開始した。清水へ向かう時には士官たちは皆老人や病人に私室をあけわたして、艦橋に立ちっぱなしであった。

塗り具の新しい上甲板まで、避難民でいっぱいで清水港に入って人々を下ろすと今度は夜通し貨物の積み込み作業をやって、寝ずに横須賀へ帰ってくる。
これを四回も五回も繰り返したあと潰れた海軍機関学校の江田島移転輸送を担当して震災救援任務を終了した。

海軍は九月十八日をもって総数三万四千四百三十一人におよぶ避難民輸送を打ち切ったが、これは帝国海軍八十年の歴史を通じて、平時の活動として最大のものであった。輸送打ち切りの翌日、品川沖に在泊した艦船は、長門、陸奥、扶桑、金剛、比叡、霧島、富士、浅間、千歳、出雲、北上他特務艦、駆逐艦、商船を合わせて八十隻を越えていた。

長門は聯合艦隊旗艦として九月五日以来ずっと錨を入れたままであったが、九月二十一日ようやく陸上の秩序が回復したのを見届けて芝浦沖をはなれた。横浜と母港の横須賀でしばらく休養かたがたの任務についてから、十月四日訓練地の佐伯湾へ向かった。《転載終わり》

海軍も、たとえば横須賀海軍工廠の庁舎は全壊、軍需部重油タンク焼失、石炭庫全壊、機関学校の大半や海軍病院、技術研究所、海軍大学校、軍医学校などが焼失、大佐を筆頭に軍人軍属125名が死亡、337名が負傷(9月20日時点)という大きな被害を受けていた。海軍病院では、地震発生直後、若い看護兵3名が、薬品倉庫に引火したのを見るや防火につとめ延焼を防いだものの、薬品の爆発の巻き添えになって3名とも即死したという。海軍病院の看護婦と看護兵は入院患者600数十人を無事に避難させた。

現在の海上自衛隊でも同じように被災地支援の活動を国民の期待の中、しておりますが、1995年の阪神淡路大震災では被災地の神戸市魚崎浜にあった海自阪神基地隊の仲摩徹弥司令は戦後初めての都心部での震災の対応に当たったとき、活動初期にはまだ上記のような雰囲気ではなかったことを話されています。神戸市庁舎への軍服(制服)で入ることも許可されなかったということです。

海に囲まれた日本列島で、昔も今も頼りになるのは海軍・海自。応援しましょう。
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Posted at 2023/09/03 15:15:19

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