
評論家・屋山太郎 韓国よ、
「歴史の真実」に目覚めよ
2013.7.17 03:12
最近の記事から以下引用
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韓国の朴槿恵大統領は就任して以来、恒例の訪日を避けており、米国訪問の次には中国を
訪れている。日本には、「歴史認識について反省がない」という理由で、殊更、背を向け
ているようだ。韓国報道機関の論説委員たちとの会合で、「(日韓首脳)会談後に独島
(竹島=島根県隠岐の島町)、慰安婦問題が再燃するようなことになれば、関係が余計に
悪化しかねない」と語ったという。
≪卑下の姿勢が要求招く悪循環≫
中国政府も日本側に、「尖閣諸島(沖縄県石垣市)問題で譲歩がなければ首脳会談はしな
い」と打診してきた。安倍晋三首相は「問題があるなら向こうから話をすべきで、条件付
きの話し合いには応じられない」と断った。
民主党の菅直人政権下、中国漁船が日本の巡視船に体当たりしたビデオを公開せずに、船
長らを早々に特別便で帰国させた。これは胡錦濤国家主席の訪日を実現させるためだった
ことが後に判明した。菅首相がへつらうかのように「胡閣下」に口上を述べるテレビ画像
は全国民が目にしただろう。この卑下した態度こそ、戦後の日本が中韓両国に取ってきた
外交姿勢だった。日韓基本条約で全て解決しているにもかかわらず、文句を言われれば心
付けを出す。相手は日本が非を認めたのだと見て、「もっと出せ」と言い募る。
私は1965年の日韓基本条約締結時、外務省担当の記者をしていた。韓国側は「日帝
36年」の併合時代、「酷い目に遭ったから賠償は当たり前だ」との言い分である。私は
日教組教育を全身に浴びて育ったから、日本側代表が、「互いの財産を相殺すればそちら
側が莫大なカネを払うのだゾ」と反論したのには仰天した。当時の外交当事者は、言うべ
きことは言うという腹が据わっていた。
朴大統領は「歴史認識は千年たっても覚えている。変わらない」としばしば述べる。
「日帝36年の酷い時代」の前、朝鮮(南北)は千年にわたり中国の属国だった。近年に
は清の軍隊が漢城(現ソウル)に駐屯し、中国領になる寸前だった。それを阻止しようと
日本が起こしたのが日清戦争だ。戦争後の講和条約はほぼ例外なく、第1条で、負けた側
が支払う賠償や割譲する領土のことを記してあるものだが、下関条約第1条は、「(これ
により)朝鮮の独立を確認する」と謳(うた)っている。
◆≪仏人宣教師描いた漢城の混沌≫
しかし、朝鮮の独立は不確かで今度はロシアに傾いていく。朝鮮半島がロシアの植民地に
なったら、日本にとってはこの上ない脅威だ。日清戦争後、日本は富国強兵を一段と推し
進め、1905年にロシアを破って後、韓国を保護国とした。伊藤博文初代統監は当初、
併合には反対だったが、ハルビン駅で安重根に暗殺され、併合論が一気に勢いを増す。
併合は英米仏独のほかロシアも認めた。
漢城のフランス人宣教師、ダレ氏が帰国して後の1874年に、『朝鮮事情』という本を
著している。漢城はまさに糞尿まみれで足の踏み場もなく、肺結核、ハンセン病、肺臓ジ
ストマ、赤痢、チフスなどの疫病が流行していた。併合の前年に、日本が入って京城医専
やその付属病院を設立し、医師、看護師、衛生師を養成した。併合後に取りかかったのが
学校の建設で、1945年の終戦までに京城帝大のほか専門学校を約千校設置し、小学校
を5200も開校した。その結果、識字率は4%から61%に上がる。100キロだった
鉄道も6千キロに延伸された。
朴氏の父親、朴正煕大統領の時代、韓国は民主主義国家としての発展を予感させた。が、
在任中に汚職に手を染めて罪に問われる、後の大統領は少なくなかった。
日本と協力して経済発展を遂げる方が容易だと思われるのに日本を脅してカネを取ろうと
いう姿勢は、北朝鮮と同じだ。
◆≪儒教の事大主義と大衆迎合≫
李明博前大統領は「未来志向の関係を築こう」と語り、期待を抱かせた。しかし、支持率
が落ちてくるや、政権末期の2012年、竹島に強行上陸し、「天皇の謝罪」を求める暴
言を吐いた。
後任の朴槿恵氏は、それ以上の反日姿勢を示さないと地位が危うくなるとでも思っている
のだろうか。朴氏は政治、経済を通じて中国にのめり込み、米国に行って日本の悪口を並
べ立てた。まさに、大衆迎合の政治を繰り広げているが、この姿こそが千年にわたる朝鮮
の歴史への回帰である。
韓国に染み渡っているのは儒教思想である。日本にも儒教思想はあるが、仏教の平等思想
で中和されて、それほど浸透していない。韓国の儒教は徹底して上下関係にこだわる事大
主義である。大きいものには従うということだから、中国、米国には従う。日本は、中華
思想からみて下の位置にいなければならないのである。
日本が下にいることの証明の第一が「独島占拠」、第二が慰安婦への謝罪だ。司法も日韓
基本条約を無視して、対馬の寺から盗んだ仏像を返さず、ユネスコ条約違反との声にも耳
を貸さない。これでまともな国といえるか
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17世紀初頭、伯耆国(ほうきこく=現・鳥取県)米子の海運業者だった大谷甚吉(おおやじんきち)
が、航海中に暴風に遭い、無人島になった鬱陵島に漂着した。彼は、新島の発見と考え、帰国後
同志の村川市兵衛とはかり、1618年に江戸幕府(1603-1868)から鬱陵島への渡航許可を受ける。
鬱陵島はその発見から「竹島」や「磯竹島」と呼ばれるようになった。大谷、村川両家はその後毎
年交替で鬱陵島に渡り、アシカ猟やアワビの採取、木材の伐採などを行い、両家の鬱による陵島経営
は78年間続けられた。当時鬱陵島へ渡るコースは、隠岐島から松島(現在の呼び方で竹島)を
中継地にしていた。
大谷、村川両家は、この竹島(旧・松島)の経営をも手がけていた。竹島が航路中の寄港地、
漁猟地として利用されアシカ猟を行っていた記録も残っている。江戸幕府は松島に対する渡航
許可も1656年に出している。(注意:竹島はむかし松島と呼ばれ、鬱陵島は竹島と呼ばれていた。)
日本が江戸時代から、竹島はおろか鬱陵島まで実行支配していたことは、当時の多くの文献や
測量技術による数々の図面が物語っているのです。
歴史を捏造して、金を要求する様は浅ましいを超えた行いです。
支那の属国に等しい環境であったことをひた隠にし、日本は下だという優越感に浸りたいため
劣等感の塊である過去の歴史を捏造しているのでしょうが、今後は関わり持ちたくないと言った
ところですねー