この話は「青谷上寺地遺跡展示館と鳥取温泉」の続編となります。
鳥取温泉の宿をゆっくり目にチェックアウトし、今日のお目当ては鳥取城。
先ずは、昨日も利用した100円循環バス「くる梨(り)」を利用し、鳥取城近くの県庁最寄りのバス停へと移動。
すると県庁の真ん前にこんな武家門が…
この門は鳥取藩の重役であった箕浦家の屋敷にあった門で、廃藩置県後もその屋敷跡が学校として利用されたことから、この門もそのまま再利用された事から取り壊しを免れ、その後文化財として移築保存され、今日に至っているとのこと。
そして県庁裏手に廻ると、鳥取城址がパッと広がる
見ての通り、藩政期当時の建造物は残存せず、専ら久松山麓の石垣ばかりが目立つ城といった印象。
確かに、藩政期において、事実上の政庁だったのは、この麓の石垣の部分にあった二の丸なのだが…
目線を上に動かしてみると…

※少し違った角度から山頂を撮影した画像
久松山の頂上にも石垣が見え、これが山上の丸と呼ばれる郭。
藩政期以前、鳥取城が政庁としての機能より、戦のための砦としての機能が重視された居た時代は、こちらが鳥取城の中枢で、犬山城のそれに匹敵する規模の天守閣も設けられていたとのこと。
しかし藩政期においては、麓の二の丸が政庁としての機能を果たし、山上の丸の天守閣は御天守奉行と呼ばれる役職の者が管理を行うに留まり、1692年に落雷で消失した後は再建されることは無かった。
そして鳥取城と言うと、1581年に織田信長配下の羽柴秀吉による中国平定戦の一つである鳥取城攻略戦における兵糧攻めと、その兵糧攻めをモチーフにしたゆるキャラ「かつ江さん」の騒動が有名だろう。
Wikipedia「鳥取城」より、関係箇所のみを抜粋
秀吉は播磨・三木城攻め(三木合戦)で行った兵糧攻めをここでも実施した。 陰徳太平記によると、秀吉は若狭から商船を因幡へと送り込み米を高値で買い占めさせる一方で、河川や海からの毛利勢の兵糧搬入を阻止した。 このとき城には20日分の兵糧しか用意されておらず、この作戦により瞬く間に兵糧は尽き飢餓に陥った。 何週間か経つと城内の家畜、植物などは食い尽くされ、4か月も経つと餓死者が続出し人肉を食らう者まで現れた。 信長公記には「餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女、柵際へより、もだえこがれ、引き出し助け給へと叫び、叫喚の悲しみ、哀れなるありさま、目もあてられず」と記されている。 城主の経家はこの凄惨たる状況に、自決と引き換えに開城した。
また「かつ江さん」の騒動と、この戦いについての詳細な記事を紹介しておきたい。(かつ江さんの画像もあり)
http://www.iza.ne.jp/kiji/life/news/140723/lif14072312000002-n1.html
今回はそんな鳥取城を訪問する事になるのだが…前日に入手したパンフレットに目を通していると、ちょっと心配なことがあったので、案内所を訪れ、何点か確認しておくことに。
と、言うのは…この鳥取城、山頂の山上の丸までは「急な石段の続く山道を登る」ことになり、「クマやハチに注意」しなければいけないとの事。
とは言え、そこまで本格的な山歩きの装備はしておらず、スニーカー+クロップドパンツと、至ってラフな服装の私…
この点に関しては、「まあ片道30分くらいですし、少し激し目のハイキングだと思ってもらえれば。まあハイヒールとかで無ければ大丈夫ですよ。それよりも水!水だけは絶対に忘れないでくださいね!!絶対に!!!」との事。まあ私の格好を見た上での返答でもあるので、服装に関しては特に問題なしという事なのだろう。
(但し結論から言うと、鉄杭で補強してある部分なども多く、それなりに足場は悪いので、けがの防止という観点からも、やはり推奨は長ズボンかと。しかし一方で地元の人は普通にハーフパンツだったり、凄い人だと裸足で登っている人までいる程で、本格的な登山というわけでも無いのである。)
またクマやハチに関しては、「ここ最近はあまり聞きませんね。まあお天気も良いので、大勢登っているから大丈夫ですよ。まあ、鈴かラジオを持って行ったら“より良い”のかも知れませんが。」との事。
まあ逆に人の多い山道の場合、クマのリスクよりも、チリチリ鳴らして歩いている方が影響が大きいという問題点もあるので、この点は適当に口笛でも吹きながら歩くことにしよう。
と、言うことで、鳥取城訪問をスタート。とは言え、いきなり登山道と言うわけでは無く、最初のうちは麓の二の丸やその下の丸の内と呼ばれる藩政期の政庁エリアを抜ける形になり、よくある城址公園といった趣の場所を歩くことになる。
(とは言え、石段の上り下りもあるので、ハイヒールで来る場所では無いと思うが…まあそれ以前に男の私の場合、ハイヒールなど履いたことすら無いのだが…)
先ずはお堀を越えて
午後に訪問することになる県立博物館や仁風閣といった建物が建つ、丸の内エリアを通過し、中仕切門(西坂下門)をくぐる
明治維新後も、この門だけが藩政期当時からの建造物として残り、市民にも親しまれていたとの事なのだが、残念ながら1975年に台風で倒壊。現在の門はその後に再建されたもの。
そして仁風閣(明治40年に旧鳥取藩池田家の当主池田仲博により建造された洋館;後刻訪問)を見下ろしつつ歩き
イノシシやクマに注意という看板を見て…
二の丸へと進むと、目に付くのが「登り石垣」と呼ばれる斜面に張り付くような石垣
要は山腹からの敵の侵入を防ぐ目的で作られる石垣で、万里の長城的な役割の石垣と考えて良いとのこと。
そして二の丸
二の丸の一角にある三階櫓跡
山上の天守が消失して以降は、ここに建っていた三階櫓が鳥取城のシンボルとして見なされていたとの事。但し残念ながら櫓そのものは明治12年に取り壊されている。
三階櫓跡からの眺望
少し高台に来ていることは確かなのだが、山頂までの道はまだまだ長い…
そして二の丸の片隅に赤い鳥居が…
二の丸のすぐ上にある天球丸や、山頂へは、この鳥居をくぐって行くことになるのだが…
ここが上へ続く順路だとは気付かない人も多いようで…私は先ほどの案内所に顔を出していたおかげで、係員さんから「赤い鳥居が目印ですからね!鳥居ですよ!!」とかなり強調して案内されていたので、すっと解ったのだが…知らないと意外に苦労するかも知れない。
そしてこの鳥居の奥はお稲荷さん
登山の安全を祈願し、本格的な山道へと進んでいく
とは言え、まだもう一段上に天球丸という郭があるので、しばらくはまだ城址公園の趣
特に城の南半分は大規模な石垣の補修工事が行われており、その現場を見下ろすような形で歩いて行くことになる。
ちなみにこの補修工事…2006年度から30年計画で、将来的には三階櫓などの建造物の再建まで含め、幕末期の姿に復元するというとてつもなく壮大なプロジェクトなのだとか。
そして工事現場を抜けたところで、いよいよ登山口
「本日の登山者」というプレート板があり、どうやら地元の人の中には登城を日課としている人もいる様子。
登山口の真横には石垣が残り、何かの遺構らしく見える
これは城内にあった八幡宮の跡とのこと…いつもの様に説明板を撮影するという手抜きで…
そしてその先は一気に険しい山道となる
とは言え、ずっと険しい山道が続く訳では無く、しばらく歩くと一部になだらかな部分もあり、そこが1合目
「しばらく歩くと」とは言え、後で時刻を確認してみると、登山口からわずか4分程なのだが…
しかしこの段階では、この「1合目」というのが、先ほどの登山口からのカウントなのか、それとも城跡の入り口からのカウントなのか解らず、もし後者だとしたら…と思うとゾッとしていたのだが…
結論から言うと、その心配は無用で、この「1合目」というのは先ほどの登山口からのカウント。
まあ地元の人の言う「所要30分」はスタスタ登った場合であることを差し引いて、初めての人間が写真を撮りながらノンビリ登っていっても、45分程度。
その区間を10に分けたうちの1合という事は…ほんの4~5分毎に1合目、2合目、3合目…とどんどん数字が上がっていくので、坂は急でも、気分的にはかなり楽。
そして確かに急な石段は続くのだが、崩れやすいところなどはきちんとメンテナンスされており、そういう意味では安心だろう
登山口から15分で5合目のお稲荷様に到達
5合目からの眺望
しかし登山口からここまで、他の登山客は全く見かけず…ここまで人気が無いなら、やはりクマ対策(と言っても口笛くらいだが)が必要かとも思い始める。
5合目で簡単に給水した後、再び頂上を目指して出発
道は相変わらず急
登山道脇に往時の石垣などが見えて来た事もあり、ペースを落として、写真撮影などしながらノンビリ登っていくことに
こうして石垣の写真を撮っている間に、何組かの登山者(というか散歩の延長的な雰囲気の地元の人が多いのだが)に追い抜かれ…急に人気が出てきたようでちょっと安心。
どうやら5合目まで誰にも会わなかったのは相当タイミングが悪かっただけで、普通は相当数の登山者がいる様子。
そして5合目から20分余り歩いて、ようやく山頂の山上の丸そのものの石垣が見えてくる
一言で「山上の丸」と言っても、その中に「二の丸」(麓の二の丸とは別物)や「三の丸」に相当する郭があり、山上部分だけで立派な城だった様子。
そして山上の二の丸跡地に、休憩所が設けられている
管理が行き届いているとは言いがたいが、造りは立派な建物で、内部には売店跡らしきシャッターもみられる
実はこの久松山…大阪万博にあやかろうと1969年にロープウェイが開通したものの、僅か7年後の1976年に廃止されるという歴史を持つ山。
もしかするとこの建物はロープウェイが存在した当時のもので、往時は売店なども営業していたのかも知れない。
そしていよいよ山上の丸の本丸へと登頂
ダラダラと登ってきたこともあり、登山口から標準30分のところ45分を掛けての到着である
そしてこの山上の丸の本丸にも井戸があり…
山頂を掘って水が沸くのか?という疑問は払拭できないのだが…
登山道で、山頂の少し手前に山伏井戸なるわき水があったので、このわき水の処まで掘り下げたということなのだろう。
とは言え、凄い色の水で、到底飲む気になどならないような水だったのだが…
しかしこの山頂の水事情では、長期の籠城戦には耐えられそうに無く…しかも羽柴秀吉による攻略戦の際には、大勢の領民がこの山城に逃げ込んでいたとの事で、兵糧以前に、水的にもスペース的にも、この山の上での籠城戦はかなり厳しかったのでは無いかと感じられるところ。
ちなみに鳥取城(久松山)と向かい合うように、電波塔のある山が見えていて…
羽柴秀吉はこの山の山頂に陣を構え、この攻略戦に挑んでいたのだとか。
それ故、現在でもこの電波塔のある山は本陣山、そしてその山中にある陣の跡地は太閤ヶ原という地名で呼ばれている。
本丸から鳥取市街地を見下ろす
ちなみにすぐ下に、ベンチの置かれている郭が見えるのだが、こちらは出丸と呼ばれる郭の跡で、こちらも公園として整備されたものの、現在は落石の危険性があるため立ち入り禁止となっている。
そして本丸の中でも、更に1段高いところが、かつて天守閣が建っていた天守台
勿論、天守台へも登る
ちなみに天守台中央部の石組みは、かつての穴蔵の跡なのだとか。
そして天守台から北方の眺望
主に鳥取市の北部が見えているのだが、特徴的なものは、左手に見える湖山池と、千代川の河口に見える賀露港だろうか。
そしてちょっと視界を右にずらすと、海岸に白い砂丘(鳥取砂丘)も見えている
と、こんな感じで城跡や眺望を楽しんだのだが…
確かに“手頃なハイキングコース”としては良い感じなのかも知れないが…やはりロープウェイを設けて観光客を誘致するには集客力のある施設がある訳では無く、パンチが無いことは否めないだろう。
そして山頂に15分程滞在し、今度は足下に気をつけながら慎重に下山したところ、登山口までの所要時間は丁度30分。
こうして鳥取城山上の丸(久松山)への登城は終了したのだが、今度は往路に立ち寄らなかった天球丸(麓の城郭の中で、最高段に位置する郭)に寄り道することに
上から見下ろした天球丸
ちなみに天球丸という名称は、天球院という女性が住んだことから名付けられたとのことで、特に地球・天文的な意味合いがあっての名称では無い。
現在では、天球丸そのものは完全に原っぱ
しかしその片隅に出土した遺構を解りやすく整備している区画があり…
何でも江戸時代初期には三階櫓(先ほど登場した二の丸の三階櫓とは別物)が建っていたものの、火災で焼失。その際の焼け焦げた礎石を展示するとともに、江戸時代後期にその跡地に建てられた武具蔵の遺構も重なるように出土しており、時代の違う重なり合った遺構を同時に見学できるという趣向。
相変わらずの手抜きで…説明版の写真
そして天球丸から二の丸方面を眺めると、ひたすら「石垣」「石垣」「石垣」…と言った雰囲気
まあ元々、石材に恵まれていたことや、山麓の斜面を利用した城と言うこともあり、石垣が多用されていたのだろうが、建物が殆ど残っていない現状では、石垣ばかりが強調され、「見るからに石垣だらけ」と言った趣になってしまっている。
そして天球丸そのものを支える石垣を見下ろすと…
不思議な球体の石垣が見えている
少し角度を変えて
これは「巻石垣」と呼ばれる技法で、石垣のたわみを防ぐために用いられる積み方なのだとか。
元々は河川や港でよく見られる技法なのだが、江戸時代後期に石垣を修復した際に、この技法を導入したとのこと。
とは言え、見ての通り、非常に登りやすい形状の石垣であり、「城の防御」という目的には合致しにくいことから、城郭で用いられることは殆ど無い技法であり、これはある意味江戸時代の天下太平ぶりを象徴する様な設計とも言えるのでは無いだろうか。
折角なので、巻石垣の下側にも廻ってみることに
こうして城跡散策は終了。
下から見上げても、やはり「石垣だらけ」という印象
そしてかつての三の丸跡にあたる鳥取西高校の正門前へと降りてくる
但し、城跡の整備事業で高校も工事の影響を受けており、現在はこの門は封鎖され、別の通路で登下校している様子。
そして往時は藩士の屋敷や、米倉等として使われていた丸の内のエリアへと戻ってくる。
丁度昼下がりの暑い時間帯と言う事もあり、休憩も兼ねて丸の内に建っている鳥取県立博物館へと避難
少し遅くなったものの、館内のカフェレストランで昼食を取ることに。
何でも鳥取県はカレーのルーの消費量が多い地域とかで、ご当地グルメとして鳥取カレーを売り出し中の様子。
そしてここのカフェレストランでも、鳥取県産の食材をトッピングとして活かしたカレーを出しており、今回は「薬膳鳥取牛すじカレー 黒らっきょうカレージャン添え」をオーダー
もちろんトロトロの鳥取牛のスジも入っているのだが…見ての通り野菜からフルーツまで、あらゆるものが入った、とにかく具だくさんのカレーで、ルーの複雑な味も絡んで、とにかく食べていて飽きない。
ちなみに種のある実が入っていたので、ブドウか何かかと思っていたところ、何とナツメの実なのだとか。
更に黒ラッキョウのカレー醤なるものが別容器で添えられており、「これで辛さの調整をしてくださいね。でもあまり辛くはありませんけど…」と何とも矛盾したような謎の説明を受ける。
最初はおっかなびっくり試してみたのだが…確かに辛さは「そう言われてみれば…」程度にしか辛くならないのだが、味の深みが増すというか、更にルーの味が複雑になる不思議な醤。但しあまりラッキョウっぽくない味なのだが。
そしてカフェレストランで一休みし、鳥取県立博物館を見学。
特別展に関しては美術系の展覧会だったので、あれこれ論ずるほどの基礎知識も持ち合わせておらす、「なるほど、なるほど」としかコメントのしようがなく…
常設展の方は、鳥取砂丘の成因といった地学的な展示から、鳥取に生息する動物の標本、そして歴史、民俗と幅広いテーマを扱っており、それぞれの展示のボリュームもかなりのものなのだが…
昨日の鳥取市歴史博物館と同様、個々のコーナーは充実した展示であるものの、全体的な流れというか、テーマ性が見えてこず、雑多に色々な内容を集めて、しかも一つ一つは妙に深く掘り下げていて…と言った具合。
まあ鳥取市歴史博物館のように妙に奇を衒っていない点はマシなのだが、やはりもう少し全体を見渡した展示構成の流れやテーマ性が合った方が良いのではないだろうか。
そして少し涼しくなった頃を見計らって、博物館の向かいに建つ仁風閣という建物へ
仁風閣の説明は…いつものパターンの手抜きで(大汗
Wikipedia「
仁風閣」より抜粋
仁風閣(じんぷうかく)は鳥取県鳥取市にあるフレンチルネッサンス様式の西洋館。中国地方屈指の明治建築として名高く、1973年6月2日には国の重要文化財に指定されている。
1907年、当時の皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)の山陰行啓時の宿泊施設として鳥取城跡の扇御殿跡に建てられた、旧鳥取藩主池田仲博侯爵の別邸である。「仁風閣」の館名は、この行啓に随行した元帥海軍大将東郷平八郎が命したもの。他の文化人等(作家や歌人など)の所蔵資料が、展示されていることもある。
館内には鳥取藩と池田家に関する資料などが展示されている。2階のガラス張りのバルコニーからは池泉回遊式日本庭園の宝隆院庭園を一望できる。正面右の尖塔は館内にある螺旋階段用角尖塔である。
先ずは外観
旧藩主・池田家ゆかりの建物ということもあり、鳥取城内に位置しているのだが…まあ見ての通り、石垣だらけの城跡には何とも不釣り合いな印象の洋館。
そして内部を見学
外観と同じく、内部も洋風、かと思いきや…
皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)が寝室として利用した部屋は、洋風の造りにも係わらず、床だけは畳という、何とも不思議な空間
そしてその他の部屋は展示室として使われており、主に廃藩置県後の池田家当主に関する展示が多いのだが…
そもそも鳥取藩最後の藩主である池田慶徳は水戸徳川家からの養子で、しかも徳川斉昭の5男であり徳川慶喜の弟にもあたるという血筋。
更に池田慶徳の次々代の当主であり、この仁風閣を建造した池田仲博も養子で、実父は徳川慶喜…
と、そんな家系なので、池田家と言うより、徳川家の一族としての要素が濃く、展示にもそうした色合いが反映されているというのが正直な感想。(展示室内の撮影は不可のため、写真は無し)
そして2階のバルコニーからは、宝隆院庭園という日本庭園が眺められるのだが…
窓からの写真がどうも上手く撮れなかったので、掲載は省略(大汗
その代わり、庭から撮影した宝隆院庭園の写真など…
庭園奥側から仁風閣を望む
意外に洋館と日本庭園がマッチしているのが凄いところ
そして建物に近づくと、完全に洋風の趣
芝生張りの洋風ガーデンから、シームレスに日本庭園へと繋がっており、どの角度から見ても自然に見えるというのが凄いところ。
こうして結局丸一日、鳥取城内で過ごしてしまう事に。実は鳥取市内でもう1カ所気になるスポットがあったのだが…こちらは次回以降に宿題として残すことにしたい。
そしてまた100円循環バス「くる梨」で鳥取駅へと戻る
みどりの窓口で切符類を受け取ると、残り時間は1時間弱。
残り時間を鑑みると、温泉で汗を流すという選択肢はなくなり、また駅の外で食事をするというのも少しタイト。
そこで、駅ナカにある居酒屋の暖簾をくぐることに。
まあ実はチェーン店ではあるのだが、「賀露港直送の魚介」をPRしたり、地物の食材を使ったメニューを多数揃えているなど、チェーン店としてはよく頑張っている印象。
そしてほぼ全席、半個室的な造りになっており、落ち着けるのもポイント大
先ずは地酒…と行きたかったのだが、帰れなくなっても困るので、かぼすサワーで我慢
そして賀露漁港直送を謳う刺身盛り
透明感の無い烏賊を見ても解るように、クオリティはそれなり。
まあチェーン店としてはよく頑張っているとは思うのだが…むしろ自ら「賀露漁港直送」などとPRすることでハードルを上げてしまい、自爆している感は否めず。
あと刺身用の甘醤油が用意され、地元鳥取産の製品。鳥取にも甘醤油の文化があったという点は発見かも。
刺身を見る限り、生ものは厳しそうなので、後のオーダーは火の通ったものを中心に…
山芋の揚げだし
大山鶏もも鉄板焼き
どちらも、まあ悪くは無く、むしろチェーン店としては頑張っていると言えるのでは無いだろうか。
まあ今回に関しては駅ナカで手軽に利用できるという点が重要で、しかもチェーン店であることは承知しているので、元々の期待値はそれほど高くはなかったので、「こんなものかな」というのが正直な感想なのだが…
とは言え、ここのチェーン店は、チェーン名よりも地元の漁港の名前などローカルなサブネームを表に出す傾向があるので…知らない人が過度の期待をして入店するとガッカリしてしまう事は間違い無いだろう。
ただやはり駅ナカという立地は強いようで、他の客を見ている限り、観光客やビジネス客が鳥取を発つ前に、ローカルな食べ物を片手に一杯…そんな需要で成り立っている様子。(逆に言うと地元の人は来ていないということかも…)
そして、特急「スーパーはくと」の発車時間前になると、多数の客が一斉に席を立ち、お会計に向かい、ちょっとした列が出来てしまい…すぐ前に並んでいた年配のビジネスマン4人連れと「大阪行きに乗られるのですか?」などと立ち話。やはりこうした客の需要で成り立っている店なのだろう。
そして往路と同じ特急「スーパーはくと」で帰路につく
但し、帰路はこんな座席を奮発
先ほど、お会計の時に立ち話をしていたビジネスマン4人組もグリーン車に乗り込んでおり、「またお会いしましたね」と和やかに挨拶。
そして自分の席へ向かったのだが…指定された席には上品なマダムが着席しており、本など取り出して、完全に自分の空間を作り上げてしまっている。
声を掛けて、座席の確認をお願いしたところ…やはりマダムが席を間違えていたようで、「あらっ、ごめんなさい。すぐに移動しますから」との事。
しかしマダムはすっかり座席に落ち着いてしまっており、また下車駅も私と同じなので、「じゃあ、もうこのまま席を交換してしまいましょう」と提案して一件落着。
しかし何故、マダムが座席を間違えたのかというと…このスーパーはくと用のHOT7000系車両そのものに問題があって…
実は各座席に視覚障害者用の点字案内板が装着されており、座席番号が点字と可視文字で書かれているのだが、この案内板の場所が九州新幹線のように「座席上部」(持ち手部分など)にあれば誤解は生じないのだが、この車両の場合シート本体の背もたれ後ろ側に装着されているため、後ろの座席から前の座席案内板が見ている状態になっているのである。
そのため、前の座席の背もたれ後方に付いている案内板に書かれている座席番号に着席してしまうと…座席番号は案内板が付いている座席そのものの番号であるため…そう、一つ後ろの席に座ってしまうことになるのである。
もちろん窓の上には座席番号が書かれてはいるのだが、ついつい目線の見やすいところ(特にグリーン車のシートバックは程良い高さになる)にある「前の座席の案内板」を見て着席してしまいがちなのである。
勿論、視覚障害者にとって解りやすい位置であることが最重要なのだろうが、こういう誤解の起こりやすいケースの場合、可視文字は併記せず点字のみの表記に留めるなど、誤解を招かないように考えて欲しいところ。
と、まあ堅苦しい事を書いてしまったものの…実はグリーン車の乗客は、私とマダム、そしてビジネスマン4人連れの計6名だけ。
この間違いがあったことで、マダムと言葉を交わす切っ掛けとなり、またビジネスマン4人連れとは先ほどお会計の時に言葉を交わしている訳で…
まあ知り合いとは言わないまでも、まあ言葉を交わしたことのある人ばかりなので、知らない人ばかりの空間とは違い、何となくではあるものの、車内の雰囲気が和やかに感じられたのである。
更にビジネスマン4人連れは、鳥取まで日帰りで出張に来ていたとの事で、偶然にも智頭急行のキャビンアテンダント(車掌)が往路と同じ人に当たり「行きもお会いしましたね」等と声を掛けて、これまたほのぼのモード。
しかも途中から乗り込んでくる客はおらず、和やかな雰囲気そのままに大阪駅へと帰り着いたのだった。。
<完>