伊丹空港から全日空機で出発
富士山を眺め
成田空港でデルタ航空のB757へ乗り継ぎ
最近やたらとビジネスクラスに乗っている気もするが…
往復利用して追加料金が一万数千円と、国内線アッパークラスの追加料金と大して変わらないので、今回はビジネス利用とした次第。
但し見ての通り、シートはお値段相応。それなのに立派な寝具が付いているというのはある意味嫌がらせのような…
こういう寝具はフルフラットのシートで使いたい…
とは言え、サービスは完全にビジネスクラス。
ちなみにCAはアメリカ人2名+日本人3名という構成で、アメリカ人2名がビジネスクラス担当、日本人3名がエコノミークラス担当。
客層的には、ビジネスクラスの乗客の方が日本語での対応が必要そうな感じなのだが…それでもやはりお偉い様がビジネスクラス担当という事だろうか。
機内食(夕食)のチョイスも3種類だか4種類あって、今回はエビをチョイス。
決め手は「ライスが付いている」事だったのだが…パンを配るときに、竹皮に包んだライスという選択肢もあり、「ライス」を決め手にする必要性など無かったというオチ。
ちなみに帰りの機内食(朝食)はこんな感じ
4時間半あまりでコロールに到着
で、空港からはホテルの送迎車で移動するのだが…「5分程待っててね」と言いつつ、小一時間待たされ…いきなりパラオ時間の洗礼を受けることに(苦笑
宿のハード面は…どうも今ひとつな感じで特に特筆する事もないので省略。
ちなみに今回は、飛行機の時間の関係で…初日はパラオに到着して寝るだけ、更に最終日は朝2時にチェックアウト…と、言った具合。
で、ここパラオは1919年から1945年まで、日本の委任統治領(南洋諸島)であり、中心都市であるコロールには南洋庁が置かれ、日本統治の中心であった場所。
今回のブログでは、日本時代を今に伝えるスポットの探訪を中心に紹介することにしたい。
で、翌々日の午前中、先ずはパラオ国立博物館へ。
建物内の展示は撮影不可の為、紹介は出来ないのだが、パラオに残る日本時代の建造物なども紹介されており、興味深いところ。
あとユニークな展示物としては、日本時代の郵便ポストが展示されている。
何でも今のパラオには郵便の集配システムが存在せず、郵便を出すにも受け取るにも郵便局に出向く必要があるとかで、郵便ポストが「日本時代の思い出のシステム」の名残として展示されているのである。
ちなみにここの博物館には日本人スタッフが勤務していて、日本語で対応してくれるという凄さ。更に言うとここの博物館のお土産コーナーはかなりリーズナブルで穴場なのだとか(笑
で、この国立博物館は小高い丘の上にあり、日本統治時代は測候所だった場所。
当時の建物も博物館の図書室として現存してはいるのだが…
この国に残る日本時代の建造物に共通する特徴なのだが…あまり「文化財として保存」という概念が無いようで、その後に他の目的に転用された際に、遠慮無く増改築されているため、当時の面影が薄いというのが少々残念なところ。
(博物館の展示に当時の写真もあって、見比べてみると面白そうなのだが…撮影禁止なので、紹介することはできない)
こうして国立博物館の見学は終了。
ホテルに戻り、昼食にカロリーメイトを囓りつつ一休みしてから、今度は日本時代に南洋諸島の総鎮守として創立された南洋神社の跡地を訪問してみることに。
しかし市街地から数キロ離れており、アップダウンもあるので徒歩で行くのは大変そうなのでタクシーを利用することに。
ホテルのフロントで英語を使ってタクシーの手配を頼むと、「どこへ行きますか?」と聞かれたので、「Nanyo Shrineへ行きたいのだけれど」と返答したものの、パラオ人のフロントマンはピンと来なかったようで…
フロントマンは会話を流暢な日本語に切り替えて、「日本語では何と言いますか?」と尋ねてきたので、「南洋神社ですね」と返すと、「ああ、パラオ神社ですね。地元では『ジンジャ』の方が通りが良いですよ」との返答。
更にフロントマンは「あまり行く人は居ませんね。実は私も行ったことがありません。でもそうした事に詳しいタクシードライバーが居るので、連絡を取ってみましょう。」と言って、わざわざ詳しいドライバーに連絡を取ったうえで「パラオ神社は私有地にあるので、オーナーにも連絡を入れておきますね。」と、驚くほど万全な手配を整えてくれる。
それにしても日本人が聞いても全く違和感のない日本語を話し、海外とは思えない細かな仕事ぶりには、ただただ感心するばかり。
たとえ、もし日本で同じ事を依頼しても、ここまでスムーズに事が運ぶとは思えず…
正直言って、ハード面では今ひとつなホテルで、ランク的にもそこまで高いわけではないのだが…しかし人的なサービスレベルの高さにはただただ驚くばかり。
そして事情に詳しいドライバーが到着し、南洋神社跡へ向けて出発。
※今回のブログでは、神社跡の現況を淡々と紹介することを主眼としています。
(南洋神社の再建の是非といったテーマをここで論ずるつもりはありません。)
先ずはコロールのメインストリートを走っていくのだが、市街地を抜けた辺りで、神社の石灯籠がそのまま残されているのが見える。
振り返って
先程のフロントマンとは違い、タクシーのドライバーは日本語を話さず、専ら英語でのやり取りなのだが、石灯籠だけは「イシドウロウ」と日本語で案内してくれる。
詳しく聞いてみると、日本語の「石灯籠」がそのまま現地で広まってしまい、パラオ語でも「イシドウロウ」と呼ぶのだとか。
更に言うと、戦前はパラオ人の中には、(強制されたからという訳ではなく)熱心に神社にお参りする人もおり、なんと自分の子供の名前に「イシドウロウ」と名付けてしまった人も居るのだとか。
まあ後でもう少し触れる事になるのだが、パラオ人は日本語や日本人名をそのまま名前や名字にしてしまっている人も多く、ビックリするような名前や名字を色々聞く事になるのだが…
そしてメインストリートから脇道へと入り、しばらく走ると、参道入口の石橋と石灯籠が見えてくる。
車を止めて見学させて欲しい、とお願いしたところ、快く応じてくれる。
先ず参道の石橋なのだが…
欄干などは既に失われて(?)いるのだが、造りは丈夫なので、上に乗っても大丈夫との事。
(ちなみに「大丈夫」もそのままパラオ語になっており「ダイジョウブ」で通用する)
しかし戦時中に機銃掃射を受けたらしく、生々しい弾丸の跡が等間隔見られるなど、痛々しさも感じられる。
そして石灯籠
台座の部分に「奉納 南洋興発株式会社」の文字が見られる。
ちなみに南洋興発というのは、満州鉄道等と同じ日本の国策会社で、「北の満鉄、南の南興」と呼ばれていたのだとか。
「ここに書いてある文字の意味は?」とドライバーに尋ねられ、そのまま色々と聞かれたのだが…正直「国策会社」の意味を英語できちんと説明できたかどうかは自信がないかも…(汗
再び車に乗り込み、舗装された坂道をグルッと回り込むように登り、民家の庭先のようなスペースで行き止まり。
まあ見ての通り、旧南洋神社の敷地は完全にパラオ人の自宅になってしまっているのである。
そして上の写真で車の止まっている辺りが、かつての南洋神社の拝殿跡。
往時の写真で見ると、拝殿がこんな感じで建っている。
※著作権の保護期間が終了したパブリックドメインの画像をWikipediaより引用
原典:南洋神社「官幣大社南洋神社御鎮座祭記念写真帖」
で、拝殿の奥に石段があり、その上がかつての本殿跡。
その当時、一般の参拝者は拝殿から先へは自由に入れなかったと思われるのだが、今ではその石段を昇って本殿跡まで行く事が出来る。
それにしても…今では植木鉢などが並べられ、完全に民家の庭先になってしまっている。
そして上へ昇ると、かつての本殿の基礎が残る中に、比較的新しい祠が設けられている。
これは1997年に再建された(新)南洋神社であり、その趣意を記した石碑も建てられている。
本殿跡を角度を変えて
かつて扉か何かが設けられていたのだろうか
更に本殿跡の片隅には、近年設置された、「バイ」と呼ばれるパラオの伝統建築を象った石碑が見られる。
そして「パラオ松島」と呼ばれる絶景を見下ろせる石段があり、ここが参道跡かと思ったのだが…
ドライバーによると「参道は反対側だよ」との事。
しかし反対側は建物が建っており、当時の参道を上から眺める事は不可能。
しかし参道の話が出ていた事もあってか、帰り道に「参道はこの奥だよ」と車を止めて案内して貰える事に。
舗装道路から、特に道もない林の中へと入っていくと…
かつての参道の石段が、自然に帰りつつあるものの、それでも荘厳な雰囲気を今に伝えている。
ちなみに当時の写真ではこんな感じ
※著作権の保護期間が終了したパブリックドメインの画像をWikipediaより引用
原典:大月書店「写真図説 日本の侵略」
(パラオに関して「侵略」という単語を用いることについての是非はさておき、ここでは“原典の題名”なのでそのまま引用)
そして上の写真の赤い矢印の場所には、かつて石灯籠が建っていた土台ものこされている。
なお当時の境内配置図と、その図の上に今回の訪問ルートを大雑把に重ねて記してみる。
※著作権の保護期間が終了したパブリックドメインの画像をWikipediaより引用・加筆
原典:南洋協会「南洋群島(5巻7号)」
こうして旧・南洋神社跡の訪問を終え、コロール市街へと戻ることに。
ちなみに今回のタクシー料金は、ホテル経由での手配であり、規定料金の「片道US$5」×往復分で、合計US$10をホテルに支払っている。
しかし流石にこれだけ詳しく案内して貰って、この値段では申し訳なく…些少ながらチップをお渡ししておく。
(と言うか、ホテルの定めている規定料金が、現地相場のほぼ下限と、かなり良心的過ぎる設定なのだが)
コロールの市街地でタクシーを降り、そのまま徒歩でコロール市内を散策することに。
先ずは旧・南洋庁跡地へ。当時の建物は空襲で失われてしまい、現在は教育省の建物が建っている。
教育省とは言っても、パラオは人口2万人の国…スクールバスの駐車場を兼ねていたりと、日本で言うと“町村の学校教育課”と言った風情。
そして旧・南洋庁(本庁)跡地から、道を挟んだ向かいには旧・南洋庁パラオ支庁の建物が現存し、裁判所として使用されている。
少々味気ない外壁塗装になっているため、歴史的建造物といった重厚感は感じないのだが…
1967年に撮影された写真
※米政府機関が業務として撮影したパブリックドメインの画像をWikipediaより引用
原典:太平洋諸島信託統治領政府「太平洋諸島信託統治領公文書写真集」
実は画像検索をかければ、日本統治時代の写真も出てくるのだが、原典が不明で権利関係がクリアに出来ないので、ブログへの引用は行っていない。
また画像検索の結果を見る限り、かなりこまめに外壁塗装が行われているようで…その都度、色の塗り分けが変わっていたりするのが面白いところ。
しかし「白色をベースに水色のアクセント」というのは、少々違和感が強いような…まあよく言えば「涼しげ」なのだが。
車寄せ
中庭へ廻ってみると
往時の写真では歴とした「中庭」なのだが、現在では味気ない駐車場になってしまっている。
そして裁判所をあとに、歩き始めると…
ヤスイマートなる商店を発見
この「ヤスイ」というのが、「安い」という意味なのか、それとも人名の「安井」なのかは解らないが…
先述したように、パラオ人は日本人的な名前を名乗っている人が多いのだが…名字と名前の区別が付いていなかったようで、ファミリーネームにはもちろん、ファーストネームにまで「ヤスイ」「ヤマダ」と言った名字を付けてしまっていたり、更には「ヤスイサン」「ヤマダサン」あるいは「ヤスイヤ(安井屋)」「ヤマダヤ(山田屋)」と言ったように敬称や屋号まで含めてそのまま名前にしてしまっているケースまであるのだとか。
(ちなみに「ヤマダサン」の場合、アルファベット表記は「Yamadasan
g」なのだとか)
そんな訳でパラオ人の名前が「ヤマダ ヒデオ」と言ったような完全な日本式の名前の人が居たかと思えば、その人の兄弟が「ヤマダ ジェームス」だったり、更には「ヤスイ ボナパルト」と言った具合に日欧のファミリーネームが組み合わさったような人も居たり…と、とにかくカオス。
こうした話を知ってしまうと、今時のキラキラネームなど可愛く思えて来てしまうから不思議。
※流石に実名をそのまま掲載できないので、ここで登場した人名例は(例えば)「スズキ」を「ヤマダ」に置き換えるなど、雰囲気が変わらない程度に少々アレンジして記載しています。
まあ問題の無い実名を挙げるとすれば…パラオの初代大統領はハルオ・レメリク(Haruo Remeliik)、4代大統領はクニオ・ナカムラ(Kuniwo Nakamura)と言った具合なのだが。
更に歩いていくと、今度はゴミステーションに日の丸が…
後日、現地在住の日本人の方に尋ねたところ、「ゴミの分別」という概念が日本から移入されたため、この様に日の丸が描かれているのだとか。
とは言え、ゴミステーションに国旗というのは、あまり気分が良くないかも…
そしてコロール島から、隣のアラカベサン島まで足を伸ばしてみることにして、二つの島を繋ぐ「陸橋」と呼ばれる土手道のような海上道路を歩いていく。
ちなみにこの陸橋も日本統治時代に作られたもので、現地では「ニホンバシ」という呼称で呼ばれている。
アラカベサン島の長閑な光景を眺めながら歩き
2006年に首都がマルキョクへ遷されるまで使われていた旧・大統領府の前へ到着
とても数年前まで使われていた大統領府とは思えない程の長閑さ。
そしてマルキョクにある現・大統領府もなかなかユニークなのだが…この話はまた機会を改めて…
そしてアラカベサン島北側の海岸へと下っていくと…
海辺に広場のような空間があり、実際地元の祭りなどにも使われているとの事なのだが
近くで見てみると、港といった雰囲気
しかしこの構造物の現地での呼称は「スコージョウ」。日本語の「飛行場」が訛ってそのままパラオ語になってしまったのだが…実は元々これは日本軍の水上飛行機用ランプだったもの。
当時のものなので、縁などは随分と痛みが見られる
そして海側の先端は水上飛行機が上り下りできるようにスロープになっている。
しかし今では完全に広場・公園的なスペースになっており、地元の人がふらっと夕涼みにくるような憩いの空間となっている。
しかしこれ以上アラカベサン島に長居してしまうと、日が暮れてしまいそうなので、ここからコロール島へと折り返すことに。
そしてコロールのメインストリートへと戻ってくる
ちなみにこのメインストリート…日本統治時代には既に舗装され、路面電車まで走っていたのだとか。
しかし米国統治時代に入り、日本時代のインフラを嫌った米国により、路面電車はおろか道路の舗装まで剥がされてしまったのだとか。(実際、上で紹介した1967年の裁判所の写真を見ると、道路が舗装されていないことがわかる)
そしてメインストリート沿いにパラオ唯一の高等学校(パラオでは高等学校まで義務教育)があるのだが、その門柱が石灯籠風になっている。
戦前はここの敷地に娯楽所が存在し、当時は碁会所や簡易的な映画上映会場として使われており、この石灯籠風の門柱はその頃から存在していたものなのだとか。
更に歩いていくと、ショッピングセンターの敷地の一角に「パラオ公園」の石碑が残されている。
このショッピングセンターは、日本時代のパラオ公園の跡地に建っているとのことだが、パッと見た範囲では石碑以外の遺構は無い様子。
更にその近くには「アサヒフィールド」という野球場があるのだが
日本時代に「旭球場」として作られた野球場が、改修を重ねながら今でも現役の球場として使われ続けているとのこと。
実はこの野球場の脇にパラオで一番とされるハンバーガースタンドがあり、球場のスタンドは、若者達が集まりハンバーガースタンドのイートインコーナーのようになってしまっている。
(但し今回、私はこのハンバーガースタンドを利用していないので、味についてのコメントは出来ない)
しかしこの野球場のスタンド裏には…
戦車などが生々しく放置され、この一角だけ重たい空気が漂っている。
そして野球場の隣は「刑務所+警察署」
左手の「POLICE」と書かれた建物の上に監視塔があり…このコラボは効率的と捉えるべきなのか、捜査機関と刑務所が同居している事を問題視すべきなのか悩むところだが、最低限まあ裁判所が独立していれば問題ないのだろうか。
ちなみに刑務所内には刑務作業品を扱う「刑務所ギフトショップ」なる店舗もあるとのことだが、今回はもう時間が遅いため店内には入らなかった。
そして再びメインストリートへと復帰し、飲食店やショッピングセンターが建ち並ぶパラオで一番の繁華街へと進んでいく。
上の写真はショッピングセンターなのだが、台湾資本で建設され、中華民国旗が風に靡き…更に言うとこのショッピングセンター内に中華民国大使館まで入居している。
ここパラオは世界でも数少ない「中華民国と正式な国交がある」国と言うこともあって、台湾から膨大な援助や資本投下があり、午前中に訪れた国立博物館をはじめ台湾の援助で建てられた施設も多い。
※中国の場合「一つの中国」に拘るため、中華民国と中華人民共和国の双方と国交があるケースは有り得ないため、中華民国と国交があると言うことは中華人民共和国との国交は無いことになる。
また中国系の観光客の姿も多いのだが、殆どが台湾からの観光客との事。
但し全てが全て台湾からの観光客なのかは不明で…後日、現地在住の日本人に聞いてみたのだが、「中華航空がパラオに飛んで来るようになって、大陸からの観光客も来るようになったみたい」と頓珍漢な回答しか返って来なかった。
※中華航空は中華民国(台湾)の航空会社なのだが、名前が「中華」だからか中華人民共和国の航空会社だと勘違いしている人も多い。
台湾が正式な国交のない多くの国(日本を含む)と「事実上の外交関係」を持っていることは周知の事実なのだが、個人的には逆パターンの「中華人民共和国が、正式な国交のない国とも事実上の外交関係を持っているのか?」という点が疑問で仕方がないトコロなのだが…
こうしてコロール市内の散策を終え、繁華街の一角にある有名レストランで夕食を取ってからホテルへと戻ることに。
「日本東京オリンピックおめでとう」などと大きく書かれていると、何となく気分が良くなり…
生け簀を覗いて
お一人様なのにマングローブ蟹を一匹オーダーしてしまう(大汗
その場でスイカを切ってジューサーに入れて作る「パラオ焼酎のスイカジュース割り」と付け出しの「海ブドウ」(日本のものとは形が違う)を食べてカニが蒸し上がるのを待つ。
海ブドウに添えられているタレが、見た目に反して激辛…
そして蒸し上がってきたカニを、ひたすら殻と格闘しながら頬張る
そして公共交通の無い国なので、ホテルのシャトルバスを待って帰ることにしたのだが…
いきなりパラオ人に笑顔で絡まれて「元気かい?」などと言いながらパンチを喰らう羽目に。
まあ別に金品目当てとかそういうものではなく、ただのじゃれ合いなのだが…日頃鍛えていない私にはかなり痛い(大汗
と言うか、じゃれ合いのつもりでも、普通見ず知らずの観光客にパンチというのは…まあコレもまたパラオ人の国民性なのだろうか(笑
…と、パラオでの真面目な散策の話はこれで終わり。
まあ他にも海のツアーへ行った話など、パラオの話題は他にもあるので、また機会を改めて。