• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

NEOCAのブログ一覧

2016年01月20日 イイね!

長崎フォローアップの旅 その1

個人的に長崎と言えば、十数年前までにメジャーな観光地は訪問してしまっていたので…

最近は、近年観光客に開放されるようになった「軍艦島」への訪問等、「ピンポイント」「何かの序で」といった感じでの訪問ばかり。

とは言え、十数年の間に、長崎市内でもいくつか注目すべきスポットがオープンしていたり、また「明治日本の産業革命遺産」の世界遺産登録が善くも悪くも話題になる中で、その構成遺産の中に未訪問のスポットの名前を見つけてしまったりと、色々気になるスポットも増えてきたのも事実。

そこで、少々弾丸旅気味ながら、長崎市を訪問し、こうしたスポットを集中的に訪問してみることにした次第。
しかし日程の関係から、グラバー園など既訪のメジャーなスポットは全てオミットし、近年オープンしたスポットを中心とした、未訪のスポットにターゲットを絞ったため、“フォローアップ”的な旅となったのである。

とは言え、実はこの旅…昨年の夏の終わり頃の話なのだが…(大汗





先ずは雨模様の伊丹空港からエンブラエルで…



一気に長崎空港へと到着。心配していたお天気は見ての通り



そして長崎空港は関西空港開業前から存在する海上空港…とは言え、人造島ではなく、蓑島という天然の離島を買い上げて整地したという特徴有る空港。

それ故、リムジンバスはこうして海中道路を本土へと渡っていくこととなる



市街地から遠い空港…というイメージがあった長崎空港なのだが、高速道路の開業もあり30分そこそこで長崎駅へと到着


ちなみに時刻は午前9時半を少し過ぎたところ…個人的に長崎というと、「旅の終着点」や「旅の折り返し点」となるケースが多く、その昔は北海道から車で日本一周の旅に出て長崎で折り返したり、また長崎空港も陸路での長い旅を終え、帰路につく空港という色合いが濃く、過去に出発便しか利用したことが無いなど、「はるばる来る地」の印象が強い場所。それ故、あまりにあっけなく到着してしまい、かなり拍子抜け。





そして長崎での最初の訪問スポットは三菱重工業の「長崎造船所 史料館」

世界遺産の構成遺産である「旧木型場」の建物がそのまま資料館として使われているほか、同じく構成遺産である「ジャイアント・カンチレバークレーン」のその往復で車窓見学可能との事。

但し、長崎造船所の工場内という特殊な立地条件もあってか、訪問は完全予約制で、しかも個人客はたとえ自家用車での訪問であっても、直接工場内へ訪問することは認められて居らず、長崎駅からのシャトルバス利用が義務づけられている。

そして今回の予約時間(長崎駅出発時間)は10:20。まあ45分程の余裕があるのだが、どうしても定時性に劣る飛行機での移動に加え、リムジンバスが渋滞に巻き込まれるリスクも勘案してこの時間で予約していた次第。


この待ち時間で駅内のコンビニを覗いたり、お手洗いを済ませたりしてから、集合場所のバス停へ移動


長崎駅近辺では、この手の観光地やホテルのシャトルバスにも、きちんとしたバス停ポールが用意されており、集合場所が解りやすいのがポイント大だろうか。


そして実は今回もご多分に漏れず、直前まで旅に出れるか確証が得られず、実際に予約したのは前日…
電話対応した若い係員は「明日っすか?ああ、大丈夫っすよ。」とまあ、三菱重工とは思えない、まるで学生バイトのような対応。

そしてバス停でチャラい係員に出迎えられ「NEOCAさんっすね?800円っす!」…と、まあ何とも砕けた対応。
(ちなみにこの¥800というのは、「施設維持管理費」という名目の費用で、要は入館料+バス代と考えて構わないだろう。)

で、何故私の名前を一発で言い当てたかというと…この10:20の回への申込者が私一人だったため。
長崎バスの観光バスタイプの大型バスがチャーターされているのだが、乗り込んだのは運転手の他、私と先ほどの若い係員の合計3名だけ。
何とも勿体ないような気もするのだが、このバスは丸一日、三菱重工にチャーターされており、長崎駅から資料館へ見学者を運んだ後、前の便で到着し見学を終えた見学者を駅へ送り、更に次の見学者を…と言った具合に駅と資料館をピストン輸送しているので、決して私一人のためだけにチャーターされている訳では無く、偶々タイミング的にそうなってしまっただけの話。


そしてバスはほんの10分も掛からずに、長崎造船所の敷地内へと入っていき、「ジャイアント・カンチレバークレーン」等も車窓見学出来るのだが、当然ながら工場敷地内での自由撮影は出来ず、画像では紹介できない。


そして史料館(旧・木型場)へと到着


なおこの資料館の建物の外観については制約付きながら写真撮影が認められている。
(また何気に乗車してきた長崎バスの後ろ姿も…)


先ずは入り口横のスペースで三菱グループ創始者・岩崎弥太郎像を横目に、諸注意と概略説明


但し担当の若いスタッフは…まだ不慣れな様子で、辿々しく噛み噛み…まあ一生懸命なのは伝わってくるのだが…

で、その後はバスの出発時間まで自由見学か担当スタッフによる案内かを選べるのだが…流石に聞くに堪えない案内でずっと見学するのも辛いので、今回は自由見学を選択することに。


史料館の内部はこんな感じ





先ずは日本最古の工作機械…と言った展示物が並んでいるのだが…


申し訳ないのだが、工作機械(というか機械全般や工業関連全般なのだが…)に関しては私の守備範囲外なので、その価値を理解できかのかと言われると、お恥ずかしながら…


そして発電所のタービン等も実際の発電所で使用されたものが里帰りしているのだが…



恥ずかしながらエネルギーや発電の方面も不勉強で…自分が如何にモノを知らないのか痛感するばかり。


そして一番展示スペースを割いていたのが、やはり造船関係。旅客船から軍艦、更には魚雷まで、この長崎造船所で建造された船に関する写真や設計図、当時の記念品(乗船記念品、進水式に使われた品など)などがぎっしり展示されている。






純粋な移動手段として客船が花形だった時代、そして軍艦が要求される時代を経て、エネルギー部門等に多角化しつつ、大型タンカーや乗船すること自体がアクティビティといえるバブリーな豪華客船が作られる時代…(しかしその後の話は軽く流されてしまっている…)
順路に従って時代が下ってくるように展示が構成されているのだが…全体的に統一感が無く多少雑多な印象は受けるものの、逆に言えば下手に均一化されておらず、それぞれのコーナーでそれぞれの時代の史料が力強く訴えてくる感じだろうか。

ただ残念なのは…往復のバスの時間がきっちり決まっており、興味関心に関わらず滞在時間が50分に固定されてしまっている事だろうか。

最終的にやや時間に追われつつ見学を終え、バスで長崎駅へと戻ることに。
しかしスタッフはちょうど昼休みの時間帯との事で同乗せず、大型バスに運転手さんと私の2人だけで移動。
しかし皮肉な事は…今回関わった係員の中で、誰よりも知識や案内スキルを持っていたのがこの運転手さんだったことだろうか…





そして定刻の11時50分より少し早く長崎駅へ戻ってくる。

丁度お昼前なので、混雑しないうちに先ずは昼食を取ろうと思い、駅ビル内のレストラン街へ。


チャンポンの店が目についたので入店することに


ちなみに上の写真は食事を終えた後に撮影したもの。
入店時は「この店なら大丈夫だろう」と思える程度に客が入っていたものの、かといって待ち時間はなくスムーズに案内されたのだが…「先ずは昼食」という判断は正しかったのだろう。


そしてメニューの中で目に付いた焼きチャンポンをオーダー


チャンポンの太麺を、チャンポンのスープをベースにした調味料で炒めた焼きそばとでも言うのだろうか。
モッチリとした食感を楽しめる太麺と、奥の深いチャンポンベースの調味料で大満足。なおかつ自宅近くでは意外と見かけないメニューというのもポイント大かも知れない。
(太麺のあんかけ焼きそば…というかリンガーハットで言うところの「太麺皿うどん」ならまだ見かけるのだが、あんかけ無しは意外と見かけない)





お腹も膨れたところで、午後の活動を開始。

先ずはバスで移動になるのだが…先ず長崎駅前だけでも、駅前県営バスターミナルをはじめ、駅前ロータリー、更にやや複雑な交差点を挟んで駅南に駅東と訳が分からないほどバス停が分散しており、お目当てのバス停を探し当ててたどり着く迄に一苦労。

更に困ったことに、バスの系統が「30」番であることは事前に調べていたものの、この番号が系統というよりも“方面番号”であり、終点まで走り抜けるバスも区間運転のバスも、支線へ入るバスも同じ系統番号。
更にバイパス経由だろうが一般道経由だろうが、同じ系統番号…しかもバイパス上と一般道上の別々の場所に同じ名前のバス停が存在していて話をややこしくしている有様。

なので「30」番のバスに乗ればOKと言う訳では無く、目的地へたどり着けるかを確認して乗らなければいけないという厄介な代物。
更に本線系統や支線系統、更に経由が違う系統のバスまで同時刻に同じ系統番号のバスが団子状態でやってくるので、これでもかと言わんばかりに複雑奇怪。

とりあえず手頃なバスに飛び乗って運転手さんに確認してみると、「何処へ行くの?バイパスの方のバス停なら行くけど。一般道なら後ろのバスだね…あっ!行っちゃったよ…」と、こんな有様。

こうしてバスを一本逃してしまったのだが…時間に余裕があったことに加え、まあ10分も待てば次のバスが来るというのがせめてもの救いだろうか。


そんなバス地獄を乗り越えて、たどり着いたのはこんな場所



ぱっと見は郊外のバス停なのだが、海側に降りていくと、こんな施設が残っている


これは日本発の本格的西洋式ドッグである小菅修船場。
先ほど見学してきた三菱重工長崎造船所の源流にあたる施設であり、現在でも三菱重工の所有とのこと。

なおドッグとしての役割は既に終えているものの、現在でも敷地内には三菱重工関係の倉庫(?)などの現役の施設があり、業務用の車両の出入りがあるなど、やや落ち着かない場所でもある。
そして表向き観光客向けの駐車場は用意されておらず、公共交通の利用を…との事なのだが、先述したようにここへ来る路線バスはあまりに複雑すぎて…


なお現在では左右に小振りなインクライン台車が2線複線のように存在し、そして中央に仕事をしていないようなラックレールが1線残っているのだが…



往時は複線に見えるレールを一体的に使用し、以下のような感じで船を引っ張り上げていたとのこと(先ほどの三菱重工史料館の展示物より)




そしてドッグの奥(見学ルート的には手前側)には、船を引っ張り上げるための蒸気機関による機械室が残されている



残念ながら内部は公開されて居らず、外観だけの見学にはなるのだが、偶々居合わせた年配の男性から「裏手の窓から覗き込んでみると良いよ」とのアドバイスがあり、そのようにしてみたのだが…写真ではこれが限界



なので、これまた先ほどの三菱重工の史料館に展示されていた写真の写真で…



そしてこの機械室の側面も要チェックで…



注目点はこの平べったいレンガ


“こんにゃくレンガ”と呼ばれるレンガで、一般的なレンガと比べると随分と薄いのだが…
これは当時、西洋式のレンガを焼くためのノウハウが不足しており、従来の窯業技術で製造できる範囲で制作したためこうなったのだとか。


と、こんな感じで小菅修船場を見学してきたのだが…しかしここの場所、一応、簡単な案内板があったり、無料wifiで案内サイト(音声ガイドもあり)にアクセス出来るようにするなどされてはいるのだが、係員等は配置されていない。

世界遺産を構成するスポットであるにも関わらず、「三菱重工の敷地の一角にあるから、勝手に見てね」的にやや放置されている感が強いのが気になるところ。(但し三菱重工関係の倉庫から、社員の目は届く範囲ではあるのだが。)

まあこれはこの小菅修船場に限った話ではなく、長崎全体、あるいは大牟田あたりまで含めての感想なのだが。あれだけ「世界遺産!世界遺産!」と大騒ぎしていた割に、その管理や現地でのプレゼンテーションに細やかさを欠いている事に疑問を感じざるを得ない。
結局は「登録」さえされればそれで良いと言うことなのだろうか…(そしてそこに付け込まれたのかも)





そして小菅修船場を後に、長崎市内へと戻るのだが…困難を極めた往路のバスとは違い、最寄りの帰りのバスは全て長崎駅・長崎市内方面へ向かうので、来たバスに乗れば良く、非常に簡単。


そしてこんな建物の前で途中下車


この建物はかつての香港上海銀行(HSBC)長崎支店の建物で、往時は外為業務で貿易港としての長崎を支えていた施設。
現在、内部は「長崎近代交流史と孫文・梅屋庄吉ミュージアム」として公開されており見学が可能。


先ず道の反対側にある孫文とその支援者である梅屋庄吉夫妻の銅像を眺めてから



カウンターなど往時の趣を残すロビーへと進む


ちなみにこのロビーだけなら入場料は不要。


そして有料の上階展示室へと進んでいく


展示テーマそのものは興味深く、アナログな史料館的な展示の部分は良かったのだが…
一方で一部にデジタルコンテンツが用いられているのだが、操作が直感的で無かったり、動作が重かったり、あるいは見学者のペースで見学しにくい(デジタルコンテンツの再生スピードは一定で、興味関心や既存の知識などに応じてメリハリを付けて見学しにくいという意味)など、やや奇を衒いすぎているというのもまた正直な感想。


上階の窓から稲佐山を望む


この稲佐山へは後刻訪問することになるのだが…





そして史料館を後にし、長崎の市街地へと向かうのだが…わざわざバスに乗るほどの距離でもなく、またお天気も良いので、沿道にある歴史的建造物を眺めつつ散歩気分で歩いて行くことに。


旧長崎税関下り松派出所


現在は長崎市べっ甲工芸館として使われているのだが…今回は外観のみ見学。


旧長崎英国領事館


こちらは老朽化に伴う補修工事のため、平成34年まで休館中とのこと。


そして長崎市の中心部で、近年公開されはじめた史跡を訪問したり、その後に続く夜の部があるのだが…今回はここまで。

<つづく>


「いつもよりボリュームが少ないのでは?」という声が聞こえてきそうなのだが、近年旅行記ブログが肥大化しているので、今年から一回のアップ量を半分~2/3に押さえてみようかと…(汗
Posted at 2016/01/20 22:10:38 | コメント(5) | トラックバック(0) | 旅のまとめ(2015年) | 日記
2015年09月22日 イイね!

ダイハツ ヒューモビリティワールド

伊丹空港からも近いこんな場所へ到着



そこに存在するのはダイハツ本社


その一角にヒューモビリティワールドという展示施設があり、今回のお目当てはそちら。

団体(主に学校関係か?)見学がメインなのだが、毎週土曜日に完全予約制ながら一般の見学者も受け入れている。

しかし今回は…土曜日にも係わらず、私が申し込んだ回は私一人だけ。しかも一人だけでも係の尾根遺産がしっかりと誘導してくれる。
(しかしそのお陰で…本当は路線バスの時間の関係で待ち時間が多かったはずなのだが、到着次第の見学開始→自分のペースで見学→バスの時間を見計らい解散、とかなり有り難いご配慮を頂いたのだが。)


先ずは特別展「ミゼットおやじと農業女子」から見学


まあ特別展と言っても、上の写真の範囲でほぼ全てなのだが。


そしてダイハツの歴史を追う常設展




とは言え、展示車は指折り数えられる程だけ。


しかも時代が下ってくると…



このあたりになってくると、わざわざ展示施設に置くには少し早い気も…

その他にも、車のデザインや生産、未来の車といったコーナーもあるものの…ややコンパクトにまとめ過ぎというのが正直な感想。

そんな訳で、展示としてはかなり物足りないのだが、ホスピタリティあふれる係員さんがスキルも高く知識豊富でそれなりに盛り上げてくれるのが救いだろうか。


とは言え、中には珍しい車もあって…


ちなみにコレはインドネシア仕様。


と言うか、一番興味深かったのは…ダイハツ本社の駐車場かも(笑


ぱっと見、「何の変哲も無い!」って…いやいや実はコレ、どちらもかなりのレア車^^


そして軽自動車を中心としたメーカーの展示施設となると、4年前に訪問したスズキ歴史館と比較してしまうのだが…

この比較、圧倒的な展示品のボリュームを誇るスズキの圧勝と言わざるを得ないだろう。スズキの方は「わざわざ行く価値もある」のだが、残念ながらダイハツの方は「何かの序でなら…」と言った感じだろうか。
但し、基本的に自由見学で放置してくれるスズキに対し、先述しているようにダイハツはホスピタリティと知識を併せ持った係員さんが案内してくれるので、この点は高く評価したいところ。(とは言え大勢での見学となるとまた評価が変わってしまうかも知れないのだが)


<完>珍しくブログがやたらと短いですが…「久しぶりのブログなのに、手抜き過ぎるだろ!」という声が聞こえてきそう…
Posted at 2015/09/22 00:39:26 | コメント(3) | トラックバック(0) | 旅のまとめ(2015年) | 日記
2015年07月01日 イイね!

鳥取城を散策した話

この話は「青谷上寺地遺跡展示館と鳥取温泉」の続編となります。


鳥取温泉の宿をゆっくり目にチェックアウトし、今日のお目当ては鳥取城。

先ずは、昨日も利用した100円循環バス「くる梨(り)」を利用し、鳥取城近くの県庁最寄りのバス停へと移動。


すると県庁の真ん前にこんな武家門が…


この門は鳥取藩の重役であった箕浦家の屋敷にあった門で、廃藩置県後もその屋敷跡が学校として利用されたことから、この門もそのまま再利用された事から取り壊しを免れ、その後文化財として移築保存され、今日に至っているとのこと。


そして県庁裏手に廻ると、鳥取城址がパッと広がる


見ての通り、藩政期当時の建造物は残存せず、専ら久松山麓の石垣ばかりが目立つ城といった印象。

確かに、藩政期において、事実上の政庁だったのは、この麓の石垣の部分にあった二の丸なのだが…


目線を上に動かしてみると…

※少し違った角度から山頂を撮影した画像

久松山の頂上にも石垣が見え、これが山上の丸と呼ばれる郭。

藩政期以前、鳥取城が政庁としての機能より、戦のための砦としての機能が重視された居た時代は、こちらが鳥取城の中枢で、犬山城のそれに匹敵する規模の天守閣も設けられていたとのこと。

しかし藩政期においては、麓の二の丸が政庁としての機能を果たし、山上の丸の天守閣は御天守奉行と呼ばれる役職の者が管理を行うに留まり、1692年に落雷で消失した後は再建されることは無かった。


そして鳥取城と言うと、1581年に織田信長配下の羽柴秀吉による中国平定戦の一つである鳥取城攻略戦における兵糧攻めと、その兵糧攻めをモチーフにしたゆるキャラ「かつ江さん」の騒動が有名だろう。


Wikipedia「鳥取城」より、関係箇所のみを抜粋

秀吉は播磨・三木城攻め(三木合戦)で行った兵糧攻めをここでも実施した。 陰徳太平記によると、秀吉は若狭から商船を因幡へと送り込み米を高値で買い占めさせる一方で、河川や海からの毛利勢の兵糧搬入を阻止した。 このとき城には20日分の兵糧しか用意されておらず、この作戦により瞬く間に兵糧は尽き飢餓に陥った。 何週間か経つと城内の家畜、植物などは食い尽くされ、4か月も経つと餓死者が続出し人肉を食らう者まで現れた。 信長公記には「餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女、柵際へより、もだえこがれ、引き出し助け給へと叫び、叫喚の悲しみ、哀れなるありさま、目もあてられず」と記されている。 城主の経家はこの凄惨たる状況に、自決と引き換えに開城した。


また「かつ江さん」の騒動と、この戦いについての詳細な記事を紹介しておきたい。(かつ江さんの画像もあり)
http://www.iza.ne.jp/kiji/life/news/140723/lif14072312000002-n1.html



今回はそんな鳥取城を訪問する事になるのだが…前日に入手したパンフレットに目を通していると、ちょっと心配なことがあったので、案内所を訪れ、何点か確認しておくことに。


と、言うのは…この鳥取城、山頂の山上の丸までは「急な石段の続く山道を登る」ことになり、「クマやハチに注意」しなければいけないとの事。

とは言え、そこまで本格的な山歩きの装備はしておらず、スニーカー+クロップドパンツと、至ってラフな服装の私…
この点に関しては、「まあ片道30分くらいですし、少し激し目のハイキングだと思ってもらえれば。まあハイヒールとかで無ければ大丈夫ですよ。それよりも水!水だけは絶対に忘れないでくださいね!!絶対に!!!」との事。まあ私の格好を見た上での返答でもあるので、服装に関しては特に問題なしという事なのだろう。
(但し結論から言うと、鉄杭で補強してある部分なども多く、それなりに足場は悪いので、けがの防止という観点からも、やはり推奨は長ズボンかと。しかし一方で地元の人は普通にハーフパンツだったり、凄い人だと裸足で登っている人までいる程で、本格的な登山というわけでも無いのである。)

またクマやハチに関しては、「ここ最近はあまり聞きませんね。まあお天気も良いので、大勢登っているから大丈夫ですよ。まあ、鈴かラジオを持って行ったら“より良い”のかも知れませんが。」との事。
まあ逆に人の多い山道の場合、クマのリスクよりも、チリチリ鳴らして歩いている方が影響が大きいという問題点もあるので、この点は適当に口笛でも吹きながら歩くことにしよう。


と、言うことで、鳥取城訪問をスタート。とは言え、いきなり登山道と言うわけでは無く、最初のうちは麓の二の丸やその下の丸の内と呼ばれる藩政期の政庁エリアを抜ける形になり、よくある城址公園といった趣の場所を歩くことになる。
(とは言え、石段の上り下りもあるので、ハイヒールで来る場所では無いと思うが…まあそれ以前に男の私の場合、ハイヒールなど履いたことすら無いのだが…)


先ずはお堀を越えて



午後に訪問することになる県立博物館や仁風閣といった建物が建つ、丸の内エリアを通過し、中仕切門(西坂下門)をくぐる


明治維新後も、この門だけが藩政期当時からの建造物として残り、市民にも親しまれていたとの事なのだが、残念ながら1975年に台風で倒壊。現在の門はその後に再建されたもの。


そして仁風閣(明治40年に旧鳥取藩池田家の当主池田仲博により建造された洋館;後刻訪問)を見下ろしつつ歩き



イノシシやクマに注意という看板を見て…



二の丸へと進むと、目に付くのが「登り石垣」と呼ばれる斜面に張り付くような石垣


要は山腹からの敵の侵入を防ぐ目的で作られる石垣で、万里の長城的な役割の石垣と考えて良いとのこと。


そして二の丸



二の丸の一角にある三階櫓跡


山上の天守が消失して以降は、ここに建っていた三階櫓が鳥取城のシンボルとして見なされていたとの事。但し残念ながら櫓そのものは明治12年に取り壊されている。


三階櫓跡からの眺望


少し高台に来ていることは確かなのだが、山頂までの道はまだまだ長い…


そして二の丸の片隅に赤い鳥居が…


二の丸のすぐ上にある天球丸や、山頂へは、この鳥居をくぐって行くことになるのだが…

ここが上へ続く順路だとは気付かない人も多いようで…私は先ほどの案内所に顔を出していたおかげで、係員さんから「赤い鳥居が目印ですからね!鳥居ですよ!!」とかなり強調して案内されていたので、すっと解ったのだが…知らないと意外に苦労するかも知れない。


そしてこの鳥居の奥はお稲荷さん



登山の安全を祈願し、本格的な山道へと進んでいく



とは言え、まだもう一段上に天球丸という郭があるので、しばらくはまだ城址公園の趣


特に城の南半分は大規模な石垣の補修工事が行われており、その現場を見下ろすような形で歩いて行くことになる。

ちなみにこの補修工事…2006年度から30年計画で、将来的には三階櫓などの建造物の再建まで含め、幕末期の姿に復元するというとてつもなく壮大なプロジェクトなのだとか。


そして工事現場を抜けたところで、いよいよ登山口


「本日の登山者」というプレート板があり、どうやら地元の人の中には登城を日課としている人もいる様子。


登山口の真横には石垣が残り、何かの遺構らしく見える



これは城内にあった八幡宮の跡とのこと…いつもの様に説明板を撮影するという手抜きで…



そしてその先は一気に険しい山道となる



とは言え、ずっと険しい山道が続く訳では無く、しばらく歩くと一部になだらかな部分もあり、そこが1合目


「しばらく歩くと」とは言え、後で時刻を確認してみると、登山口からわずか4分程なのだが…

しかしこの段階では、この「1合目」というのが、先ほどの登山口からのカウントなのか、それとも城跡の入り口からのカウントなのか解らず、もし後者だとしたら…と思うとゾッとしていたのだが…

結論から言うと、その心配は無用で、この「1合目」というのは先ほどの登山口からのカウント。
まあ地元の人の言う「所要30分」はスタスタ登った場合であることを差し引いて、初めての人間が写真を撮りながらノンビリ登っていっても、45分程度。
その区間を10に分けたうちの1合という事は…ほんの4~5分毎に1合目、2合目、3合目…とどんどん数字が上がっていくので、坂は急でも、気分的にはかなり楽。


そして確かに急な石段は続くのだが、崩れやすいところなどはきちんとメンテナンスされており、そういう意味では安心だろう



登山口から15分で5合目のお稲荷様に到達



5合目からの眺望


しかし登山口からここまで、他の登山客は全く見かけず…ここまで人気が無いなら、やはりクマ対策(と言っても口笛くらいだが)が必要かとも思い始める。


5合目で簡単に給水した後、再び頂上を目指して出発

道は相変わらず急



登山道脇に往時の石垣などが見えて来た事もあり、ペースを落として、写真撮影などしながらノンビリ登っていくことに



こうして石垣の写真を撮っている間に、何組かの登山者(というか散歩の延長的な雰囲気の地元の人が多いのだが)に追い抜かれ…急に人気が出てきたようでちょっと安心。
どうやら5合目まで誰にも会わなかったのは相当タイミングが悪かっただけで、普通は相当数の登山者がいる様子。


そして5合目から20分余り歩いて、ようやく山頂の山上の丸そのものの石垣が見えてくる


一言で「山上の丸」と言っても、その中に「二の丸」(麓の二の丸とは別物)や「三の丸」に相当する郭があり、山上部分だけで立派な城だった様子。


そして山上の二の丸跡地に、休憩所が設けられている



管理が行き届いているとは言いがたいが、造りは立派な建物で、内部には売店跡らしきシャッターもみられる


実はこの久松山…大阪万博にあやかろうと1969年にロープウェイが開通したものの、僅か7年後の1976年に廃止されるという歴史を持つ山。
もしかするとこの建物はロープウェイが存在した当時のもので、往時は売店なども営業していたのかも知れない。


そしていよいよ山上の丸の本丸へと登頂



ダラダラと登ってきたこともあり、登山口から標準30分のところ45分を掛けての到着である



そしてこの山上の丸の本丸にも井戸があり…


山頂を掘って水が沸くのか?という疑問は払拭できないのだが…


登山道で、山頂の少し手前に山伏井戸なるわき水があったので、このわき水の処まで掘り下げたということなのだろう。

とは言え、凄い色の水で、到底飲む気になどならないような水だったのだが…


しかしこの山頂の水事情では、長期の籠城戦には耐えられそうに無く…しかも羽柴秀吉による攻略戦の際には、大勢の領民がこの山城に逃げ込んでいたとの事で、兵糧以前に、水的にもスペース的にも、この山の上での籠城戦はかなり厳しかったのでは無いかと感じられるところ。


ちなみに鳥取城(久松山)と向かい合うように、電波塔のある山が見えていて…


羽柴秀吉はこの山の山頂に陣を構え、この攻略戦に挑んでいたのだとか。
それ故、現在でもこの電波塔のある山は本陣山、そしてその山中にある陣の跡地は太閤ヶ原という地名で呼ばれている。


本丸から鳥取市街地を見下ろす


ちなみにすぐ下に、ベンチの置かれている郭が見えるのだが、こちらは出丸と呼ばれる郭の跡で、こちらも公園として整備されたものの、現在は落石の危険性があるため立ち入り禁止となっている。


そして本丸の中でも、更に1段高いところが、かつて天守閣が建っていた天守台



勿論、天守台へも登る


ちなみに天守台中央部の石組みは、かつての穴蔵の跡なのだとか。


そして天守台から北方の眺望


主に鳥取市の北部が見えているのだが、特徴的なものは、左手に見える湖山池と、千代川の河口に見える賀露港だろうか。


そしてちょっと視界を右にずらすと、海岸に白い砂丘(鳥取砂丘)も見えている



と、こんな感じで城跡や眺望を楽しんだのだが…

確かに“手頃なハイキングコース”としては良い感じなのかも知れないが…やはりロープウェイを設けて観光客を誘致するには集客力のある施設がある訳では無く、パンチが無いことは否めないだろう。


そして山頂に15分程滞在し、今度は足下に気をつけながら慎重に下山したところ、登山口までの所要時間は丁度30分。


こうして鳥取城山上の丸(久松山)への登城は終了したのだが、今度は往路に立ち寄らなかった天球丸(麓の城郭の中で、最高段に位置する郭)に寄り道することに

上から見下ろした天球丸


ちなみに天球丸という名称は、天球院という女性が住んだことから名付けられたとのことで、特に地球・天文的な意味合いがあっての名称では無い。


現在では、天球丸そのものは完全に原っぱ



しかしその片隅に出土した遺構を解りやすく整備している区画があり…


何でも江戸時代初期には三階櫓(先ほど登場した二の丸の三階櫓とは別物)が建っていたものの、火災で焼失。その際の焼け焦げた礎石を展示するとともに、江戸時代後期にその跡地に建てられた武具蔵の遺構も重なるように出土しており、時代の違う重なり合った遺構を同時に見学できるという趣向。


相変わらずの手抜きで…説明版の写真



そして天球丸から二の丸方面を眺めると、ひたすら「石垣」「石垣」「石垣」…と言った雰囲気


まあ元々、石材に恵まれていたことや、山麓の斜面を利用した城と言うこともあり、石垣が多用されていたのだろうが、建物が殆ど残っていない現状では、石垣ばかりが強調され、「見るからに石垣だらけ」と言った趣になってしまっている。


そして天球丸そのものを支える石垣を見下ろすと…


不思議な球体の石垣が見えている


少し角度を変えて


これは「巻石垣」と呼ばれる技法で、石垣のたわみを防ぐために用いられる積み方なのだとか。
元々は河川や港でよく見られる技法なのだが、江戸時代後期に石垣を修復した際に、この技法を導入したとのこと。

とは言え、見ての通り、非常に登りやすい形状の石垣であり、「城の防御」という目的には合致しにくいことから、城郭で用いられることは殆ど無い技法であり、これはある意味江戸時代の天下太平ぶりを象徴する様な設計とも言えるのでは無いだろうか。


折角なので、巻石垣の下側にも廻ってみることに




こうして城跡散策は終了。

下から見上げても、やはり「石垣だらけ」という印象



そしてかつての三の丸跡にあたる鳥取西高校の正門前へと降りてくる


但し、城跡の整備事業で高校も工事の影響を受けており、現在はこの門は封鎖され、別の通路で登下校している様子。


そして往時は藩士の屋敷や、米倉等として使われていた丸の内のエリアへと戻ってくる。

丁度昼下がりの暑い時間帯と言う事もあり、休憩も兼ねて丸の内に建っている鳥取県立博物館へと避難



少し遅くなったものの、館内のカフェレストランで昼食を取ることに。

何でも鳥取県はカレーのルーの消費量が多い地域とかで、ご当地グルメとして鳥取カレーを売り出し中の様子。

そしてここのカフェレストランでも、鳥取県産の食材をトッピングとして活かしたカレーを出しており、今回は「薬膳鳥取牛すじカレー 黒らっきょうカレージャン添え」をオーダー


もちろんトロトロの鳥取牛のスジも入っているのだが…見ての通り野菜からフルーツまで、あらゆるものが入った、とにかく具だくさんのカレーで、ルーの複雑な味も絡んで、とにかく食べていて飽きない。
ちなみに種のある実が入っていたので、ブドウか何かかと思っていたところ、何とナツメの実なのだとか。

更に黒ラッキョウのカレー醤なるものが別容器で添えられており、「これで辛さの調整をしてくださいね。でもあまり辛くはありませんけど…」と何とも矛盾したような謎の説明を受ける。
最初はおっかなびっくり試してみたのだが…確かに辛さは「そう言われてみれば…」程度にしか辛くならないのだが、味の深みが増すというか、更にルーの味が複雑になる不思議な醤。但しあまりラッキョウっぽくない味なのだが。


そしてカフェレストランで一休みし、鳥取県立博物館を見学。
特別展に関しては美術系の展覧会だったので、あれこれ論ずるほどの基礎知識も持ち合わせておらす、「なるほど、なるほど」としかコメントのしようがなく…

常設展の方は、鳥取砂丘の成因といった地学的な展示から、鳥取に生息する動物の標本、そして歴史、民俗と幅広いテーマを扱っており、それぞれの展示のボリュームもかなりのものなのだが…

昨日の鳥取市歴史博物館と同様、個々のコーナーは充実した展示であるものの、全体的な流れというか、テーマ性が見えてこず、雑多に色々な内容を集めて、しかも一つ一つは妙に深く掘り下げていて…と言った具合。
まあ鳥取市歴史博物館のように妙に奇を衒っていない点はマシなのだが、やはりもう少し全体を見渡した展示構成の流れやテーマ性が合った方が良いのではないだろうか。


そして少し涼しくなった頃を見計らって、博物館の向かいに建つ仁風閣という建物へ



仁風閣の説明は…いつものパターンの手抜きで(大汗

Wikipedia「仁風閣」より抜粋

仁風閣(じんぷうかく)は鳥取県鳥取市にあるフレンチルネッサンス様式の西洋館。中国地方屈指の明治建築として名高く、1973年6月2日には国の重要文化財に指定されている。
1907年、当時の皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)の山陰行啓時の宿泊施設として鳥取城跡の扇御殿跡に建てられた、旧鳥取藩主池田仲博侯爵の別邸である。「仁風閣」の館名は、この行啓に随行した元帥海軍大将東郷平八郎が命したもの。他の文化人等(作家や歌人など)の所蔵資料が、展示されていることもある。
館内には鳥取藩と池田家に関する資料などが展示されている。2階のガラス張りのバルコニーからは池泉回遊式日本庭園の宝隆院庭園を一望できる。正面右の尖塔は館内にある螺旋階段用角尖塔である。


先ずは外観



旧藩主・池田家ゆかりの建物ということもあり、鳥取城内に位置しているのだが…まあ見ての通り、石垣だらけの城跡には何とも不釣り合いな印象の洋館。


そして内部を見学




外観と同じく、内部も洋風、かと思いきや…


皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)が寝室として利用した部屋は、洋風の造りにも係わらず、床だけは畳という、何とも不思議な空間



そしてその他の部屋は展示室として使われており、主に廃藩置県後の池田家当主に関する展示が多いのだが…

そもそも鳥取藩最後の藩主である池田慶徳は水戸徳川家からの養子で、しかも徳川斉昭の5男であり徳川慶喜の弟にもあたるという血筋。
更に池田慶徳の次々代の当主であり、この仁風閣を建造した池田仲博も養子で、実父は徳川慶喜…
と、そんな家系なので、池田家と言うより、徳川家の一族としての要素が濃く、展示にもそうした色合いが反映されているというのが正直な感想。(展示室内の撮影は不可のため、写真は無し)


そして2階のバルコニーからは、宝隆院庭園という日本庭園が眺められるのだが…


窓からの写真がどうも上手く撮れなかったので、掲載は省略(大汗


その代わり、庭から撮影した宝隆院庭園の写真など…



庭園奥側から仁風閣を望む


意外に洋館と日本庭園がマッチしているのが凄いところ


そして建物に近づくと、完全に洋風の趣


芝生張りの洋風ガーデンから、シームレスに日本庭園へと繋がっており、どの角度から見ても自然に見えるというのが凄いところ。


こうして結局丸一日、鳥取城内で過ごしてしまう事に。実は鳥取市内でもう1カ所気になるスポットがあったのだが…こちらは次回以降に宿題として残すことにしたい。


そしてまた100円循環バス「くる梨」で鳥取駅へと戻る



みどりの窓口で切符類を受け取ると、残り時間は1時間弱。

残り時間を鑑みると、温泉で汗を流すという選択肢はなくなり、また駅の外で食事をするというのも少しタイト。


そこで、駅ナカにある居酒屋の暖簾をくぐることに。

まあ実はチェーン店ではあるのだが、「賀露港直送の魚介」をPRしたり、地物の食材を使ったメニューを多数揃えているなど、チェーン店としてはよく頑張っている印象。


そしてほぼ全席、半個室的な造りになっており、落ち着けるのもポイント大



先ずは地酒…と行きたかったのだが、帰れなくなっても困るので、かぼすサワーで我慢



そして賀露漁港直送を謳う刺身盛り


透明感の無い烏賊を見ても解るように、クオリティはそれなり。
まあチェーン店としてはよく頑張っているとは思うのだが…むしろ自ら「賀露漁港直送」などとPRすることでハードルを上げてしまい、自爆している感は否めず。

あと刺身用の甘醤油が用意され、地元鳥取産の製品。鳥取にも甘醤油の文化があったという点は発見かも。


刺身を見る限り、生ものは厳しそうなので、後のオーダーは火の通ったものを中心に…

山芋の揚げだし


大山鶏もも鉄板焼き


どちらも、まあ悪くは無く、むしろチェーン店としては頑張っていると言えるのでは無いだろうか。


まあ今回に関しては駅ナカで手軽に利用できるという点が重要で、しかもチェーン店であることは承知しているので、元々の期待値はそれほど高くはなかったので、「こんなものかな」というのが正直な感想なのだが…

とは言え、ここのチェーン店は、チェーン名よりも地元の漁港の名前などローカルなサブネームを表に出す傾向があるので…知らない人が過度の期待をして入店するとガッカリしてしまう事は間違い無いだろう。


ただやはり駅ナカという立地は強いようで、他の客を見ている限り、観光客やビジネス客が鳥取を発つ前に、ローカルな食べ物を片手に一杯…そんな需要で成り立っている様子。(逆に言うと地元の人は来ていないということかも…)

そして、特急「スーパーはくと」の発車時間前になると、多数の客が一斉に席を立ち、お会計に向かい、ちょっとした列が出来てしまい…すぐ前に並んでいた年配のビジネスマン4人連れと「大阪行きに乗られるのですか?」などと立ち話。やはりこうした客の需要で成り立っている店なのだろう。


そして往路と同じ特急「スーパーはくと」で帰路につく



但し、帰路はこんな座席を奮発


先ほど、お会計の時に立ち話をしていたビジネスマン4人組もグリーン車に乗り込んでおり、「またお会いしましたね」と和やかに挨拶。


そして自分の席へ向かったのだが…指定された席には上品なマダムが着席しており、本など取り出して、完全に自分の空間を作り上げてしまっている。

声を掛けて、座席の確認をお願いしたところ…やはりマダムが席を間違えていたようで、「あらっ、ごめんなさい。すぐに移動しますから」との事。
しかしマダムはすっかり座席に落ち着いてしまっており、また下車駅も私と同じなので、「じゃあ、もうこのまま席を交換してしまいましょう」と提案して一件落着。


しかし何故、マダムが座席を間違えたのかというと…このスーパーはくと用のHOT7000系車両そのものに問題があって…

実は各座席に視覚障害者用の点字案内板が装着されており、座席番号が点字と可視文字で書かれているのだが、この案内板の場所が九州新幹線のように「座席上部」(持ち手部分など)にあれば誤解は生じないのだが、この車両の場合シート本体の背もたれ後ろ側に装着されているため、後ろの座席から前の座席案内板が見ている状態になっているのである。

そのため、前の座席の背もたれ後方に付いている案内板に書かれている座席番号に着席してしまうと…座席番号は案内板が付いている座席そのものの番号であるため…そう、一つ後ろの席に座ってしまうことになるのである。

もちろん窓の上には座席番号が書かれてはいるのだが、ついつい目線の見やすいところ(特にグリーン車のシートバックは程良い高さになる)にある「前の座席の案内板」を見て着席してしまいがちなのである。

勿論、視覚障害者にとって解りやすい位置であることが最重要なのだろうが、こういう誤解の起こりやすいケースの場合、可視文字は併記せず点字のみの表記に留めるなど、誤解を招かないように考えて欲しいところ。


と、まあ堅苦しい事を書いてしまったものの…実はグリーン車の乗客は、私とマダム、そしてビジネスマン4人連れの計6名だけ。

この間違いがあったことで、マダムと言葉を交わす切っ掛けとなり、またビジネスマン4人連れとは先ほどお会計の時に言葉を交わしている訳で…
まあ知り合いとは言わないまでも、まあ言葉を交わしたことのある人ばかりなので、知らない人ばかりの空間とは違い、何となくではあるものの、車内の雰囲気が和やかに感じられたのである。

更にビジネスマン4人連れは、鳥取まで日帰りで出張に来ていたとの事で、偶然にも智頭急行のキャビンアテンダント(車掌)が往路と同じ人に当たり「行きもお会いしましたね」等と声を掛けて、これまたほのぼのモード。

しかも途中から乗り込んでくる客はおらず、和やかな雰囲気そのままに大阪駅へと帰り着いたのだった。。


<完>
Posted at 2015/07/01 23:55:37 | コメント(4) | トラックバック(0) | 旅のまとめ(2015年) | 日記
2015年06月28日 イイね!

青谷上寺地遺跡展示館と鳥取温泉

一泊二日の弾丸旅に出発


大阪駅からスーパーはくとに乗車

※帰路に撮影した同型車@鳥取駅


2席だけ存在する1人掛けシートで朝食


最近は、神戸の淡路屋だけでなく、姫路のまねきの駅弁まで大阪駅で入手可能。
水了軒亡き後、逆にバラエティが増えているという皮肉…とは言え、淡路屋もまねきも味は確かなので、そういう方面での不満は特にないのだが。

但しJ-WESTのチケットレス特急券が設定されている姫路までは、短距離利用者が多く、また複々線で併走する列車もあったりと、ちょっと慌ただしい事もあって、駅弁は姫路駅出発後までお預け。


鳥取駅で、快速とっとりライナーに乗り継ぎ


スーパーはくとからの乗り継ぎ利用客も多く、コレなら鳥取-倉吉間でスーパーはくとの停車駅を増やした方が便利なようにも感じるところ。


そして味のある駅舎の青谷駅で下車



今回、最初の目的地は、この駅から歩いて5分程のココ


ドラッグストア???…まあ元道民の性で、ツルハグループという文字に反応したのも事実なのだが…


本当の目的地は、駐車場内にあるこのプレハブの建物


見た目は安っぽいのだが、青谷上寺地遺跡展示館という歴とした資料館。


そしてその名の通り、青谷上寺地遺跡に関する展示施設なのだが…恒例の手抜きモードで…(大汗


Wikipedia「青谷上寺地遺跡」より抜粋

青谷上寺地遺跡(あおやかみじちいせき)は、鳥取県鳥取市青谷町青谷にある、弥生時代の集落遺跡。
平成10年度から3年3ヶ月の期間をかけて、遺構面の面積で延べ約55,000m²が発掘調査された。典型的な低湿地遺跡で、弥生人の脳をはじめとする多彩な遺物が出土したことから「弥生の地下博物館」とも呼ばれている。

遺物は膨大な数の土器以外に、鉄器・青銅器・木器・石器・骨角器など多彩で、後述の遺物も合わせ弥生時代の情報量の多さは特筆される。

遺跡の東側の溝では弥生時代後期の100人分を超える約5,300点の人骨が見つかったが、うち110点に殺傷痕が見られた。また2点に脊椎カリエスによる病変が確認された。これは日本における最古の結核症例である。
日本で初めて弥生人の脳が3人分発見された。



ここの遺跡は、程良い水分を含んだ状態で粘土層で密閉されるような形で地下に埋まっているという、軌跡的な保存状態の良さで、弥生人の脳が形を保って出土するなど、世界的に見ても希な遺跡。
(但し現段階ではまだ弥生人の脳からDNAを取り出すには至っていないとのこと)


そしてこの青谷上寺地遺跡展示館では、出土品の現物を見学することが出来る





…と、以上ココまでの写真に写っている出土品は全て本物(レプリカでは無い)
※メインの被写体として写っているものは全て本物であることを確認して撮影していますが、背景に写っている展示品などにはレプリカ品も含まれている可能性があります。


また出土した人骨や、脳のレプリカ、出土した脳の一部を切り取った現物も展示されているのだが、流石にこれらの撮影は気が進まなかったので、写真は無し。(撮影禁止という訳では無い)
その中には殺傷根のある人骨も含まれており、その現物も展示されている。

そして武器の類の出土品も多い


こちらの盾はレプリカであり、出土品と全く同じとは言い切れないものの、これだけ鮮やかな着色が残っていたというのも驚きの限り。


この展示館は、こうした出土品やレプリカの他、映像資料で発掘時の様子やCGによる当時の風景の再現などといった事も紹介しており、プレハブの外見からは想像も出来ない充実ぶり。
また専門職員が館内で勤務しており、要望があれば詳しい質問にも応じてくれる一方、基本的には必要以上に干渉せず、良い意味で放っておいてくれるので、じっくり見学が出来るというのもポイント大だろう。

また図録類(専ら閲覧用。販売用は品切れが多い)やパンフレット類も充実しており、椅子と机もあるので、これらをじっくり読み込みつつ、適宜展示を見学することで、理解を深めることが出来るのも素晴らしいところ。

あと、少々下世話な話ではあるのだが…この充実ぶりにも係わらず、入館無料、空調完備、お手洗いも清潔…と、本質的な部分以外の部分でも言うこと無しの施設であると付け加えたい。


そして展示館を後に、長閑な田舎町の風景を眺めながら少し歩き



旧青谷町役場に到着


ここの館内にも、県の文化財関係の部署の出先機関が入居しており、その一角にも出土品が展示されているとのことだったのだが…
ちょうど昼休みの時間に当たってしまい、決して断られたわけでは無いのだが、かといって歓迎されていないような空気感だったので、早々に退散。


向かいにある郷土館も覗いてみたのだが


こちらは資料館的施設というより、地元のイベントホール的なスペースで、地元の人(素人)の写真展が開催されているだけ。


そして徒歩で行ける範囲には他にコレと言ったスポットも無さそうなので、列車の時間を見計らって退散することに


鳥取行きはキハ47




ラッピング列車との行き違いを待ってから出発



そして鳥取駅に戻り、次なる目的地へ向かうバスに乗ろうと、駅前のバスターミナルへ移動してみたものの…ほぼ列車と入れ違いに発車したばかりで、次のバスまで時間がかなりあると言う、残念な状況。

そんな時、ふと目の前に100円循環バスが現れ、その経由地を見てみると、ちょっと気になっていたスポットが含まれていたので、予定変更を即決し、そのままバスに飛び乗り移動。

「くる梨(くるり)」という循環バスで、マイクロバスながら3ルート運行され、どのルートも日中20分毎の運行という、なかなか使い勝手の良いバス。
鳥取の市街地は「歩けなくは無いが、歩くには微妙に広い」という悩ましいサイズの街なので、多頻度運行かつ100円均一というバスは嬉しい限り。
更に言うと、「共通電子マネー対応」というのもポイント大なのだが…その「電子マネー」というのが、交通系のSuicaではなく、ID、QuickPay、WAON、EDYという、まるでコンビニのようなラインナップ。
(個人的にはクレジットカードの明細を家計簿代わりにしているので、明細に出る紐付け型電子マネーが有り難い)


そして運ばれた先は鳥取東照宮(但しバス停からは公園を通り抜けて、ちょっと歩く)



鳥取藩主池田光仲の母が徳川家の出であった縁もあり曾祖父徳川家康を祭る因幡東照宮として、1650年に造営された神社で、その後、樗谿神社、鳥取東照宮と名を変えつつ今日に至っている。


ひっそり静かな雰囲気の神社と言った感じではあるのだが、この後紹介する中心部の建物は創建当時のものが残り重要文化財に指定されているなど、歴史ある神社である。

石段の先に拝殿



唐門(手前)と本殿



そして徳川家康を祭る東照宮だけあって、至る所に三つ葉葵の紋章が見られる





参拝を終えた後は、参道にある鳥取市歴史博物館(やまびこ館)を見学


何故か特別展(絵巻物がテーマ)は無料で、常設展が有料という謎の施設。

で、常設展に関してコメントすると…「自動人形劇的な展示や、ハンドルを操作して展示を動かすと言った、奇を衒ったギミックで、子供受けしそう」と言った感じだろうか。

とは言え、正直な感想を言うと、先ず施設全体を見学するという流れは重視されず、それぞれのコーナーで個別のテーマを脈略無く紹介している感が強い印象。
しかもそれぞれのコーナーは歴史的・地理的な肝となる部分ではなく、ギミックを取り入れやすい部分を中心に据えて、「ギミックを取り入れるために展示を構成した」ような感じになってしまっているのが気になるところ。
楽しいギミックを取り入れるのは良いことなのだが、そればかりに力が入り、博物館としての本質を見失って本末転倒になってしまっているような印象が否めないのである。本質あってこその遊び心だと思うのだが…

なお館内は撮影不可のため、写真は無し。


そして少し時間は早いのだが、今晩は少し贅沢な温泉宿を予約しているので、早めにチェックインすることにしてバス停へと戻る。(と言っても2食付きで1万円台後半クラスなのだが…)


バスを待つ間に、周囲を見渡すと、かなりお洒落な民家が多い



勝手な想像だが、昭和初期の高級住宅街だったのだろうか。そして当時としてはかなりモダンな建物だったのだろう。


そして鳥取駅から歩いても10分程のところにある温泉宿にチェックイン


何せ駅近の市街地なので、周囲はマンションが建っていたりと、温泉宿としては落ち着かないロケーションではあるのだが、視線を内側に向けるように、池のある中庭を取り囲んで建てられた落ち着いた温泉宿。ちなみに上の写真右手の六角形の建物が大浴場。


回廊を通り



先ずは部屋に落ち着く



ちなみに山陰本線ビューなのだが…タイミングが合わず、列車の写真は無し(大汗



そして大浴場ではザブッと浸かるだけに留めて



宿泊者用の貸切風呂をハシゴ(予約制では無く先着順)



まあ市街地なので、塀の向こうから列車や車の走る音が聞こえてくるのはご愛敬…


しかしココの温泉は…


肌がつるつるになる良質のアルカリ泉で、しかも循環無しの掛け流しと、天国のような温泉。

更に大浴場、貸切風呂とも、係員が常駐し巡回し、こまめに清掃されているため、至って清潔。そしてその係員のおばさんもソフトな物腰とフレンドリーさを兼ね備えた素敵なお方。
そして休憩スペースには檸檬水と、ガイドブックを中心とした図書コーナーもあり…と、湯だけでなく、設備やソフト面、何をとってもなかなかの高レベル。

で、ここの図書コーナー…鉄系の本が多く、しかも特定の著者(某有名鉄道系ライター)の本が目立っていたので、「何でこのチョイスなんだろう?」と不思議に思っていたのだが…実はここの旅館、このライターの実家なのだとか。確かにこんな線路の真横で育てば、鉄道好きにもなるだろう…


そして温泉を満喫した後は、お楽しみの夕食タイム。今回は3000円ほど追加して、食事アップグレードプランをチョイス。部屋食で気兼ねなく楽しめるのもポイント大。

先ずは鳥取の地酒から


前菜(珍味)


もずく


造り


鳥取牛のしゃぶしゃぶ



…と、鳥取の海と山の幸が続いた後は、季節のお楽しみ

岩牡蠣の素焼き


ちなみに今回、「生」「素焼き」「バター焼き」と3種類の選択肢があって、かなり悩んだのだが…
「生」も捨てがたかったのだが、明日のことを考えると…更に、仲居さんに「体調に自信があるなら…」と脅かされたこともあって、結局「素焼き」をチョイスした次第。

しかしサイズを比較できるものを移し込んでおかなかったのは失敗…(某みん友さんのブログを拝見して気が付いた次第)


せめて参考までに5年前に隠岐で食べた岩牡蠣のフライの画像など


右上のコロッケにしか見えないフライが、岩牡蠣のフライ。この時、完全にコロッケと思い込んでいてパクついて、思わず声を上げてしまったのは内緒(汗

…と、まあ普通のコロッケくらいのサイズの牡蠣だと思って頂ければ宜しいかと。


そして白烏賊素麺



更にここで今回の目玉である鮑のステーキ(食事アップグレードというのはコレ)


見た目はステーキっぽく無いのだが、しっかりバターで焼かれており、風味は完全にステーキ。
それにしても鮑とバターがこんなに相性の良いモノだとは…更に苦みを控えめにブレンドされた肝ソースとの相性も抜群。
それにしても、程良い苦みを残しつつも、それ以上のしつこい苦みを感じさせない絶妙な調理にはただただ脱帽。


更に白烏賊の天麩羅に


ノドグロの塩焼きと続き


後はご飯とデザート…と言った具合。


そしてお酒も回って、気持ちよく就寝。


翌朝のお楽しみは朝風呂と朝食


こちらも土地のものを取り入れた献立なのだが、ご飯に合わせずとも、単品で食べても美味しいものが多いというのが嬉しいところ。
お気に入りは、干物に湯豆腐、そしてラッキョウ。


そして2日目は、鳥取城を中心に散策し、夕方の列車で帰宅予定…なのだが、こちらの話はまた機会を改めて。


<つづく>



オマケ的にちょっとだけ予告編など





Posted at 2015/06/28 23:55:40 | コメント(3) | トラックバック(0) | 旅のまとめ(2015年) | 日記
2015年06月27日 イイね!

隼人散策

※この記事は「島津家そして鶏料理」の続きになります


鹿児島空港で飛行機に乗れず、国分駅近くのビジネスホテルに宿泊する羽目になり…迎えた翌日。

幸か不幸か休みの日だったこともあり、折角なので近辺を散策してから、夜の飛行機で帰宅することに決定。先ずは昨日オープン化していた航空券を再利用し、改めて飛行機の予約を完了。


とは言え、特にお目当てがあって訪れた地では無いので…とりあえず前々から気になっていたスポットを2件訪問し、その後の行程は適当に場当たりで決めていくことにしたい。


国分駅から電車に乗り(日豊本線でもSuicaが使えるとは…便利な時代だなぁ、としみじみ)



僅か1駅、隼人駅へと移動


ちなみに後で知ったのだが…この駅舎も水戸岡デザインなのだとか。


そして最初のお目当てのスポットへ向けて徒歩で移動。

鹿児島空港が近いこともあって、飛行機がこの距離感


色々と興味深いショップの横を通り



用水路を渡り


実はこの時、現地の案内板で初めて知ったのだが、この用水路は「宮内原用水」と呼ばれるもので、藩政期の1711年から造られたという由緒ある用水。
改良を重ねつつ、今日でも現役の用水ということもあって、見た目の雰囲気が現代っぽいので、正直あまり歴史を感じさせないのも確かなのだが、これはこれで興味深い用水なのである。


詳細な説明は、説明板を撮影するという、相変わらずの手抜き方式で…

※別の場所にあった説明板を撮影


そしてこの用水路のすぐ横に、以前から気になっていたスポットを発見


「隼人」という地名の由来にもなっている「隼人塚」という史跡。

8世紀初頭の隼人の乱による死者の慰霊のために造られたと考えられていたことから、「隼人塚」と呼ばれ、更に「隼人」という地名の元にもなっていることから、一度は訪れてみたかったスポット。


但し、発掘調査の結果、現在では少々違った結論となっているのだが…


以下はWikipedia「隼人塚」からの抜粋

隼人塚(はやとづか)は鹿児島県霧島市隼人町内山田にある仏教遺跡。国の史跡。

構造
高さ2mの丘の上に五重石塔3基が立ち、その周りに武人石像4体が立つ。かつては石塔はいずれも折れており、武人像のうち2体は塚からやや離れた場所に、半分埋まった状態で立っていた。

石塔
石塔は中央の1基が高さ6.6m、両脇の2基が約5.5〜5.6mとなっている。発掘調査で欠落部分の石材が出土し、五重の石塔に復元された。ただし頂部の相輪は見つからず、姶良市日木山の加治木氏宝塔(1242年)など西日本の石塔相輪を参考に復元された。軸石には仏像が彫られており、仏像の表現は平安時代から奥州藤原氏の仏教美術にみられる。

石像
武人石像は四天王の石像である。復元前から立っていた持国天像、明治時代後半に持ち出され、1915年(大正14年)に戻された増長天像、離れて埋まっていた広目天像・多聞天像があり、このほかに発掘調査では線路側からいずれの石像にも接合しない石像の部材と邪鬼台座の部材が出土している。

由来
「旧正国寺跡石仏」(隼人塚史跡館所蔵、鹿児島県指定有形文化財)と同じ康治元年(1142年)の銘を持つ石仏が出てきたことから、現在の史跡隼人塚は平安時代後期に正国寺の前身寺院として作られたという説が有力になっている。

1970年(昭和45年)に、石塔の積み直しとモルタルによる修復が行われたが、長らく風雨に晒されたこともあり、またモルタルによって石塔の外観が損なわれていたことから、1992年(平成4年)から整備事業に着手。1994年(平成6年)から始まった一連の発掘調査の後に、石塔の復元と石像の再配置、修復が行われ、2000年(平成12年)に整備が完了した。



そして隼人塚の敷地内には、霧島市立隼人塚史跡館という資料館も設けられている


主に江戸期以降の図面や古写真に描かれた隼人塚の様子や、発掘・修復作業への取り組みの様子が展示されている。

元々は相当に荒れていた石塔を、発掘で発見されたパーツを追加し、更に不足するパーツをモルタルで補って組み直し、現在のような姿に復元されたとのこと。
極力、オリジナルのパーツを用いて…という点は誰もが納得できるだろうが、モルタルを用いてまで往時の姿に修復する必要があったのかは議論のあるところかも知れない。


そして、この資料館を見学している間に数回、「ポコッ!」と音がして、その度に建物のガラスがミシミシと軋み…
特に気にもとめず、「えらくオンボロな空調を使っているのだな…ボコボコ言ってるよ…」等と思っていたのだが…

他に訪問者がいなかったこともあり係の女性とあれこれ雑談していたのだが、その中で「今日は桜島が噴火していて…ボコボコうるさいでしょう」という会話が出て、ようやくその振動が桜島の噴火によるモノだと理解した次第。

そして、昨日飛行機に乗れず、予定外に日程が延びてのフリータイムということもあり、特に下調べ等はしておらず、この先の行程もあまり深く考えていなかったのだが…
そんな話をしていると、係の女性がオススメのスポットなど色々と教えてくださり、この情報を参考にさせて頂くことに。

それにしても、鹿児島というところは、この手の施設の係員のクオリティが高く毎回感動してしまう。新潟と言い鹿児島と言い、こういう所からその地域性が見え隠れするのである。
(まあ逆に、何処とは言わないが、こういう所から、ズボラな地域性が見え隠れしてしまい、その地域では何処へ行っても呆れ返るようなエピソードばかりという地域もあるのだが…)


隼人塚を後に、一旦駅前まで戻り、今度は駅から逆方向に位置する旧大隅国一宮である鹿児島神宮へと向かうことに


ちなみに隼人塚・鹿児島神宮ともに、隼人駅から徒歩圏内のスポットではあるのだが…

隼人塚から駅まで徒歩10分、駅から鹿児島神宮参道入り口まで徒歩15分、更に参道を進み丘の上にある社殿まで石段を上り徒歩10分…と言った具合で、何だかんだでかなり歩く羽目になっている。


更に参道を進んで



石段を登り



ようやく社殿に参拝



大隅国の一宮であり、かつての大隅国で最も社格が高い神社という扱いの神社であり、島津氏の尊崇もあり、現在の社殿も1756年に島津重豪により建造されたもの。


そして脇ではドアを全解放して交通安全祈願中



更に鹿児島神宮境内には他の見所もあって…

境内のこんな脇道を降りていくと



御神田があって



そしてその脇にシャモジを手にした田の神様が鎮座している


この地域に特徴的な神像なのだが…詳細は相変わらず引用という名の手抜きで…


Wikipedia「田の神」より抜粋

田の神

水稲
田の神(たのかみ)は、日本の農耕民の間で、稲作の豊凶を見守り、あるいは、稲作の豊穣をもたらすと信じられてきた神である。農神、百姓神と呼ばれることもある。
穀霊神・水神・守護神の諸神の性格も併せもつが、とくに山の神信仰や祖霊信仰との深い関連で知られる農耕神である。


鹿児島県・宮崎県の田の神

田の神の具体的な像は不明なことが多い。水口にさした木の枝やそれを束ねたもの、花、石などが依代とされることが多く、常設の祠堂をもたないのが全国的な傾向である。しかし、そうしたなかにあって田の神の石像が九州地方南部の薩摩、大隅、日向の一部(都城周辺)に限って分布することは注目に値する。ここでは、集落ごとに杓子やすりこぎを持ったタノカンサァ(田の神さま)と称する石像を田の岸にまつる風習がみられる。

タノカンサァの石像は18世紀初め頃よりつくられ始めたものとみられ、鹿児島藩島津氏領にのみ石像が分布して他地域ではみられない



そして更に鹿児島神宮の境内地内にある霧島市立隼人歴史民俗資料館へも訪問



昔の生活道具を集めたコーナーや



手作り感あふれる歴史展示



如何にも「ワードで作りました」と言った感じのパネルが印象的…何せA4カラーの原本とモノクロで拡大コピーしたパネルが一緒に張ってある有様。
また完全に放置されているような部屋もあったりと、明らかに管理が行き届いていない。
まあ頑張っているのはよく解るのだが、これではよくある小学校の教材資料室に毛が生えた程度のクオリティ。少し内容を整理して、全体的な展示構成を見直さなければならないだろう。

この状況なのに観光バスのコースに入っていて、次々と団体客が訪れるのだが…戦前生まれと思しきお爺さん係員がおぼつかない感じで、一人これらの訪問者に対応している有様。
明らかにマンパワー不足で資料館が廻っておらず、訪問者対応ですら十分でない状況なのだろう。そんな状況なので、展示に関しては場当たり的な対応を繰り返して、収拾が付かなくなっているのではないかと察するところ。

まあ総括すると「手作りで頑張っている様子に好感は持てるが既に限界であり、資料館そのものとしての評価は厳しい」と言ったところだろうか。
但し大きすぎず程良い施設に、それ相応の収蔵品はあるので…役場がその気になって、一時的にでも人員を派遣してちょっと整理・模様替えするだけで、随分印象が違ってくるのではないだろうか。


…と、“以前から気になっていたスポット”の散策はここまで。この先は先ほど隼人塚史跡館の女性係員から教えて頂いた情報を元に散策を継続することに。

先ずは2~3分歩いた所にある鹿児島神宮の摂社である石体神社を目指すことに。


用水路(実は先ほど登場した宮内原用水路の一部)沿いに歩いて、それらしき神社を発見


ちなみに手前の橋が架かっている用水路が宮内原用水路。

そして、この神社…歴史ある神社の割に妙に新しい感じだと違和感を覚えたのだが…


その違和感は正解で、この神社は石体神社では無く、卑弥呼神社なる謎の神社


歴史ある神社ではなく、個人が設けている神社といった趣。


境内には卑弥呼像まで…



そして卑弥呼神社の隣接地に石体神社を発見


現在では鹿児島神宮の摂社という扱いだが、その歴史は鹿児島神宮のそれより古く、以前はこちらが本宮として扱われていたという由緒ある神社なのだが、今では森の中にひっそりと佇む静かな神社といった趣。


更にその境内は「高千穂宮跡」とされている


神日本磐余彦尊(後の神武天皇)が東征以前にあった日向国の高千穂宮の跡という事らしいのだが
「そもそもここは日向では無く大隅じゃないのか?」という疑問も沸いてきてしまう。
ちょっと調べてみたと事、九州の地域区分に関して、古事記では筑紫・豊・肥・熊曽の4国、先代旧事本紀では、筑紫・豊・肥・日向の4国とされているとのことで、この時代の九州の地理感覚はまだまだファジーな様子。
まあ現代の地理感覚をもってその場所をあまり厳密に考えたり、そもそも神話の舞台を具体的に同定しようという発想がナンセンスなのかも知れないが…


ここから更に宮内原用水路に沿った遊歩道を歩いて行くことに


沿道には梅林もあり、時期が時期なら梅の花を楽しみながらの散策になったのかも知れない。

また私の他にもこの遊歩道を歩いている人が多く、地元の人の憩いの空間となっている様子。
それにしても藩政期に作られた用水が未だに改良を続けながら現役の農業用水として活躍しているという事実にも驚きである。


更に歩いて行くと



丘の麓の道となり、京セラ関係の建物やJR肥薩線を見下ろしながらの散策となる




そして温泉で有名な日当山の市街地が見えてくる



西郷隆盛ゆかりの温泉地とのことで、当時滞在した温泉宿が移築保存されている



しかし今回は日当山温泉そのものは素通りして、天降川を挟んだ対岸の姫城温泉を目指す



姫城温泉は家族湯がメイン



ちなみに家族湯とは、九州南部に多く見られる公衆浴場の形態で、大浴場方式では無く、個室浴場を沢山備えた施設。
その個室を時間単位の料金で貸し切るシステムなので、他の人に遠慮せず家庭の風呂のような感覚で温泉を楽しめるという、個人的にはお気に入りのシステム。
但し個室を時間制で貸し切ることから、往々にして一人利用だと少々割高になるのが難点だろうか。


数ある家族湯の中から、今回は隼人塚史跡館の係員さんオススメの天降川温泉をチョイス



個室浴場が並ぶ施設


券売機で入浴券を購入するのだが、「一人利用40分で¥200」あるいは「二人以上利用60分で¥300」というメニューがあり、どうしても家族湯のシステム上割高になりがちな一人利用にも配慮している様子。

とは言え、40分ではやや慌ただしいので、「一人で60分利用しても構いませんか?」と尋ねてみたところ、問題は無いとのことで、今回は「60分¥300」のチケットを購入。

とは言え、ここの温泉…家族湯にしては安すぎる価格設定に驚かされる。それに24時間営業というのも凄いところ。



しかしこれだけ格安の家族湯は珍しいようで、やはりそれなりの数の利用者があるようで…3組待ちとの事。
(但し地元利用者が中心と言うこともあってか、待ち時間の案内は特に無いのが難点。入浴券を買ってから待ち時間があることを告げられ…まあ今回は時間に余裕があったから良かったものの、また殆どの待ち客が車で待機していて行列の具合が解りにくい事もあるので、入浴券を買う前に待ち時間を確認されることをオススメしたい。)

とりあえず飲泉しつつ待機…しかし決して飲んで美味しい味という訳では無い



係のおばさんが慌ただしく駆け回り、前の利用客が出て空いた浴室を手際よく清掃し、浴室へと誘導される

脱衣場



待ち客が多い事もあってか、浴室へ入った段階では、まだお湯を張っている途中(つまり利用者毎に換水しているということ)


とは言え、シャワーで汗を流している間に、ちょうどお湯も貯まってくるので、合理的と言えば合理的かも。

まあ時間制限があるので、時間は意識しておかなければいけないという難点はあるものの、貸切風呂で気兼ねなく温泉を満喫できるという贅沢には代えがたい。

そして要請に従い、上がり際に栓を抜いて、お湯を流し始めてから脱衣場へ移動。体を拭いている間に抜湯が完了しているという段取り。


こうして温泉を満喫し、近くの「隼人温泉病院」バス停からバスで鹿児島空港へ向かうことにしているのだが、事前に調べておいたバスの時間まで、少々余裕があるので、少し遠回りして散策して歩くことに。


先ず、姫城温泉のど真ん中に聳える、謎の丘…


まあ、この住宅地を拓いたときに取り残された丘のようなのだが、「“姫城”と言うのだから、城跡なのかも知れない…」とも思い、近づいてみると…


遊歩道もあって…


風呂上がりではあるモノの、この丘に登ってみることに。


見ての通り、小さな丘なので、あっと言う間に頂上に達する



頂上から、家族湯の立ち並ぶ温泉街を眺める


やはり、特に城跡というわけでは無く、ただの丘だった様子。但し妙に綺麗に遊歩道や四阿が整備されており、地元の人の格好の散歩コースとなっている様子。


そして病院という解りやすい目印を頼りにバス停を探し当て


ちょうど良い時間だったので、そのままバスを待っていると…

現れたバスは減速する気配も無く、通過しそうな勢い。まあ田舎ではよくあるパターンなので、こちらも挙手して乗車の意思を表明し、運転手とも目が合ったのだが、バスはそのまま減速せず目の前を通過して行ってしまう。

流石に乗車客が居ることに気付きながらバス停を通過して行ってしまうというパターンは、京都市バス以外ではあり得ない事。
(まあ京都市バスに関して言えば、マナーの悪い下校小学生がバスを待っていたりすると、満員でも無いのにバス停をすっ飛ばして行ってしまうので、時間帯が悪いと東山七条からバスに乗るのは至難の業…まあ四半世紀前の話ではあるのだが)


「オイオイ…」と思っていると、信号1回分遅れて、別のバスが到着し、こちらは特に合図などせずとも、私の姿を見つけて停車。

しかし鹿児島空港までは田舎道…先ほどすっ飛ばして行ったバスにあっと言う間に追いつき、そのまま団子状態で鹿児島空港まで走行。

運転手さんに話を聞いてみると、どうやら前のバスは志布志発国分経由の鹿児島空港行きで、国分-鹿児島空港間はノンストップ運行しているとのこと。
一方、私が乗車したバスは、垂水発国分経由の鹿児島空港行きで、国分-鹿児島空港間も各駅停車で運行されているとのこと。

しかもこの2台のバス…時刻表の上では1分差なのだが、ノンストップであろうが無かろうが、同じ道を走行し、所要時間も全く同じで、1分差のままで鹿児島空港まで行くというダイヤ。

…なのだが、快走できる田舎道で、しかも乗降客も殆ど居ない(私の他に、途中から1人乗ってきて暫く走った先のバス停で降りていっただけ。他の区間は私一人の貸切状態。)ので、鹿児島空港まで団子状態のまま走行。


そして前のバスには2~3名の乗客があったようなのだが、その中に国際線利用者があったようで、鹿児島空港敷地内に入ってすぐの国際線ターミナルバス停に停車。
一方私が乗ったバスは、私一人の貸切なので、国際線ターミナルは通過…このタイミングで前のバスを追い抜いてしまい、終点の鹿児島空港国内線ターミナルには私の乗ったバスが先着。


乗車してきたバスと、追い越されて遅れて到着したバス(後)



そして、バスの時間の関係もあり、かなり余裕を持って空港に到着したので…

先ずは早めの夕食(というか昼食を食べていなかった)を取る頃に。

昨日の鶏料理の店の事も脳裏を過ぎったのだが…美味しい店で美味しい焼酎片手に腰を据えてしまうと、帰りたくなくなってしまいそうな恐怖が襲ってきて、今回はおとなしく空港内のレストランをチョイス。


いわさきグループのホテルが経営するレストランで、名物であることをPRしていた薩摩黒豚のメンチカツをオーダー



鹿児島空港名物と持て囃されているメニューの様なのだが…味だけで評価すると、まあ悪くは無いのだが、大騒ぎするほどでは無く、まあ中の上といったところ。
但し、お値段はしっかりホテル並のプライス。それを含んで考えると…もう次は無いだろう。


そして更に時間が合ったので、空港内を探検。

展望デッキと展示コーナーがミックスされた施設



間近で見ると意外に大きいウィングレット


訓練用モック




更に1Fへ降りて、玄関前の足湯へ


足湯へ向かう途中、チェックインカウンター近くを通ったのだが…
どうやらパックツアーのご一行様が、夫婦や家族連れで並び席が取れないどころか、ほとんど中央席ばかりにバラけてしまったようで、参加者が添乗員に詰め寄って大騒ぎ…


そして最後は、ラウンジで芋焼酎を…


最初、ビジネスマン風の客で席を探すのも大変なくらいに混雑していたモノの、東京便が出発してしまうと、私を含めてわずか2人だけという静かな環境。

「この調子なら、大阪便はガラガラなのかな…」などと勝手な想像をしてしまい、「優先搭乗の必要も無いかな」と、ノンビリ構えていたのだが…


時間を見計らい、搭乗口に移動。
しかし飛行機はほぼ満席との事で、後部座席のチケットを持つ客から先に機内に誘導しており、大混雑。
急いで乗る必要も無いと思い、近くのベンチに腰を下ろし、搭乗口の混雑が解消されるのを待ってから登場することに。


さて、今回の機材はB737-800

※先ほど、展望デッキから撮影した画像

ナローボディ機で、通路が1本しかないので、乗降がスムーズに行かない上、普通席は3+3配列…そもそも3人掛けシートはアサインが難しい事に加え、全体の1/3は中央席。そしてたとえ窓側に座ってもお手洗いに行くにも2席跨ぐ必要があり…そんなわけで個人的には色々面倒であまり好きでは無い飛行機。


そしてゲートをくぐり、機体へと進むものの、何故か乗客が搭乗に手間取っている様子で、一向に前へ進まず…

ようやく機内へと入り、何が起きているのかが判明。どうやら先ほどチェックインカウンターで大騒ぎしていた「ほとんど中央席ばかりにバラけてしまった」ツアー客が、後方座席ゆえ優先的に機内に入り、好き勝手な席を占拠するという暴挙に出てしまっているのである。

そして後からチケットもった正規の客が現れると、座席の交換を要求するものの、後方の中央席への移動となると、色よい返事が来るはずも無く…その都度、荷物を引っ張り出して席を移動する事になり、機内が混乱してしまっているのである。しかも、断られておとなしく移動するのはまだ良い方で、京都訛りの爺など「ワシと家内と離ればなれにして良いのか!」と恫喝までしている始末…
まあ「頑張って帰ってね」の会社だし、客層もこんなものなのかも…


そんな訳で、最後の最後にマルーン色の汚点が付いてしまったものの…

飛行機を逃してしまうというハプニングから派生した「延泊の旅」は無事に終了。
まあ事前の下調べがあった訳では無く、以前から気になっていたスポットにプラスαして、行き当たりばったりに近い行程であったにも係わらず、なかなか充実した散策になったのではないだろうか。


そして最後にオマケ

以前にみん友のけろさんさんがブログで、鹿児島空港の某空弁を「当たり」と紹介されていたので…同じものを探したものの売り切れ。

代わりに購入したのが「桜島灰干し弁当」という空弁


結論から言うと、コレも「当たり」

絶対的なボリュームは少々上品な感じもするのだが、ぎっしりと乗せられたおかずの数々は絶品。
ただ、メインであるはずの「灰干し」(桜島の灰を使って水分を飛ばした干物)の存在感が薄く、普通の干物との味の違いを体感するに至らなかったことだけが残念と言えば残念かも知れない。

何だかホッとするような馴染みのある素朴な献立ながら、旨みがギュッと詰まったおかずはかなり高評価。
馴染みのある献立だけに、素材や味付けに誤魔化しは効かないので、それだけ真面目に作られていると言えるのでは無いだろうか。
Posted at 2015/06/27 01:13:08 | コメント(6) | トラックバック(0) | 旅のまとめ(2015年) | 日記

プロフィール

「みんカラ20年目に突入・・・そりゃあ歳も取るわけだ・・・」
何シテル?   02/16 23:07
タイトルの通り、旅と温泉と酒などを愛するNEOCAといいます。気がつけば、みんカラデビューから18年が過ぎようとしています。 現在はほぼ活動休止中ですが、年に...
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

掲示板

<< 2024/6 >>

      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
30      

リンク・クリップ

過去の旅 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2014/12/27 19:30:02

愛車一覧

スバル XV スバル XV
ペーパードライバー期間を挟み、再びスバルをチョイス。 過去にレガシィやインプレッサに乗っ ...
スバル インプレッサ スポーツ スバル インプレッサ スポーツ
8年振りにスバル乗りに復帰しました。 写真は当時の販促品のミニカーのものです。
日産 エクストレイル 日産 エクストレイル
初の新車購入です。でもかなり無理をして買ったので…以来他の趣味にお金が回らない…分不相応 ...

過去のブログ

2020年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2017年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2016年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2015年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2014年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2013年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2012年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2011年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2010年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation