#このシリーズは以前のお出かけを回想するものです。
随分と間が空いてしまいましたが、久しぶりにお出かけ回想シリーズです。
そして…実は今回の内容は
前回から続きだったりもします。
前回取り上げた三股山荘の位置する十勝三股盆地…それが今回のテーマです。
ある前回のブログでお友達の方から
「少しだけ写っていますが、窓から外の景観も良さげで、落ち着けそうですね。」とコメントを頂戴していたのですが、実はここ十勝三股は喫茶店だけでなく、盆地そのものの景観が楽しめる場所。
と言うのも、大雪の懐に位置する盆地…つまり四方を山に囲まれている場所なので、周囲の山々の景色が楽しめるという事。
しかしロクな写真が残っておらず…
これでは何も魅力が伝わらない(大汗
そこで邪道ながら、上士幌町が製作した観光パンフレット(10年以上前のモノ)と、前回登場した三股山荘の箸袋(旧デザイン)で…
6月頃に訪問すれば、パンフレットの写真のような残雪を青い山肌、そして新緑のコラボが楽しめ、そして更にもう一つ素敵なオプションまであるのだが…(後述)
ただ年によって、雪解けのペースが違ったり、黄砂に邪魔されたり、あるいは訪問日のお天気など様々な要素が絡んでくるので、なかなかパンフレットのような素敵な写真を写す機会には恵まれず…
ちなみに写真の箸袋は既に品切れになっており、その後は手彫りの判子を使ったこれまた素敵なデザインの箸袋に変わっています。(但し現況は不明)
…と、ここまででは「ただの盆地でしょ」「何の魅力も感じられない」と突っ込まれても仕方がないような内容。
しかしここ十勝三股は人との関わりという意味で興味深い歴史を辿った地であり、こうした事情や、その歴史が生み出している現況を併せてみると魅力あふれる地なのである。
実はここ十勝三股は昭和の中頃(昭和30年代頃?)までは、大雪の森林資源を活かした林業の拠点として栄え、営林署が置かれ、1500人の人口を抱え、学校や郵便局などの公共施設、国鉄士幌線もこの地まで伸びており、更にこの先に森林鉄道まで存在し…と言った具合に要衝として栄えていた地。
しかし林業の衰退、そして営林署の上士幌市街地への移転といった事情が重なり、70年代には数世帯が暮らすのみの過疎の地へと変貌を遂げてしまうのである。
(現在では前回取り上げた三股山荘のオーナー家族を含め2世帯が暮らすのみ)
そのため、かつて1500人が暮らした盆地は切り開かれており、少しずつ自然に帰りつつあるとは言え、まだ大木などは存在せず、集落跡からは見通しが良くなっており、大雪の懐にあって、周囲の山々を贅沢に見渡せる隠れた穴場になっているのである。
そして現在では広々とした草地の中に、ポツポツと残る営林署関係の建物(廃墟)が残るなど、良い味を出しているのである。
(元々集落があった場所なので、とにかく見通しが利く)
更に6月頃には、かつて民家の庭に植えられていたルピナスが野生化し、三股盆地に咲き乱れる。
そう先述の
「6月頃に訪問すれば、パンフレットの写真のような残雪を青い山肌、そして新緑のコラボが楽しめ、そして更にもう一つ素敵なオプションまであるのだが…」という文の中にある「オプション」とはこのルピナスの事。
上手くいけば、6月頃に「残雪の大雪+新緑+ルピナス」という見事なコラボになるはずなのだが…
相手が自然のため、なかなかそうは上手くいかず、北海道にいた頃は毎年のようにこの時期にこの地を訪れてみるものの、そう簡単に行くはずもなく…
まあプロの写真家でも何でもないので、全てが都合良く揃わずとも、この時期の風景を楽しみつつ、三股山荘でランチやコーヒーを楽しみ、更に近くの温泉で汗を流し…というのが私のお気に入りで、毎年この時期の風物詩になっていたのである。
…と、何の魅力も伝わらない本編はココまで。このシリーズ始まって以来の駄作だったかも(大汗
そしてここから先はちょっとマニアックなオマケ
先述したように、ここ十勝三股というば、国鉄士幌線(昭和62年廃止)の終着駅であり、一部では「鉄の聖地」などと言われていたりもする地。
(個人的には鉄道関係だけでなく、この地の風景や自然も楽しんで欲しいのだが。)
何しろ、過度の過疎が進んだため、士幌線の廃線の9年前、昭和53年の段階で十勝三股には5世帯14人が暮らすのみ。
当然鉄道の運賃収入は期待できない反面、山間の路線で路線の維持管理や冬場の除雪費用などが嵩むこともあり、何と運行経費が運賃収入の225倍(!)というトンでもない状況に至っていたのである。
昭和20・30年代など、この地域では鉄道が唯一の交通手段だったため、大雪や事故で鉄道が止まると十勝三股が陸の孤島となり、物資の輸送も出来ず、住民が餓死寸前になった事もあったのだが、この時期になると、未舗装の林道程度のものとは言え道路も開通していたことから、鉄道の重要性は薄れてきており、流石の国鉄でもこれは看過できず、昭和53年に釧路鉄道管理局長の判断で士幌線末端区間(糠平-十勝三股)の鉄道運行を休止し、バス代行輸送に切り替えるという処置がとられるに至り、昭和62年の士幌線の全線廃止の日までバス代行が続くという特異な区間となり、その事から鉄道ファンの注目を集めるに至っていたとのこと。
(なお、このバスはあくまで国鉄線の代行輸送扱いなので、運賃体系など全て国鉄のものがそのまま使用され、国鉄の乗車券で利用できた。)
そして今回はその士幌線の終着駅・十勝三股駅跡をオマケで紹介。
但し駅舎や施設などは、士幌線の正式廃線後、平成6年には撤去されたとのこと。
十勝三股駅前から駅舎跡方面を望む
「旧建物」…つまり旧駅舎のこと
旧駅舎跡から駅前方面を望む
かつての面影を残すものは殆ど現存しないのだが…
僅かに駅前に医院の看板が残っている。
今となっては、この地に医院が存在するほどの人口が有ったと言うこと自体驚き。
そして旧駅の構内は、十数年前に公園化する計画が持ち上がったため、意外に整備されている。
糠平側に伸びる旧線路跡
駅構内跡とホーム跡に設けられた“駅風”四阿
しかしこの公園化計画…まだバブルの余韻があった時期と言うこともあってか、ハコモノ中心の頓珍漢な計画だったこともあり、予算や地元の反発などもあって後に頓挫するのだが…
その一環で作られたこの四阿も、大雪山系ではなく「おっぱい山」と呼ばれる小山を眺めるようになっていたり、更に「駅跡」を意識して謎の「駅舎風」に作られていたりと、その頓珍漢さを物語る代物。
三股山荘の女将さん(十勝三股の生まれ育ちで、華やかな時代を知る数少ない生き証人)もコレにはカンカンで、かなり熱く語っておられたのだが…普段は話好きで気さくなマダムなだけに、それだけこの件に対して思うことが多いということなのだろう。
そして他に駅があったことを物語るモノと言えば、国道沿いのバス待合所。
鉄道代行バスの運行がスタートした頃に建てられたと思われる建物で、「十勝三股
駅待合所」と、鉄道代行バスの待合所であったことを物語る表記になっている。
「駅」の文字は、士幌線の全線廃止後、この代替バスが一般路線バスになった後にはがされたのだろう。
しかし我ながら、よくこんなトコロまでBD-1で走っていったものだと…
あの頃は若かった…そして今ではチャリダーそのものまで廃業してしまっているのだが(大汗
#この近辺はヒグマがウロウロしているので、チャリでの訪問はオススメしません。
しかし士幌線が全線廃止になるまではこの待合所が歴とした駅舎だった訳で、駅舎内にはこんなアイテムも残っていた。
ちなみにDJスタンプそのものは今でも三股山荘で押印することができる。
そして糠平-十勝三股間を転換した路線バスも年々本数が削減され、平成10年の段階で、それまで朝夕の2往復だったものが、朝の糠平行きと夕方の三股行きの1日1往復に削減され、通学生の最低限の足を残すのみとなってしまったのだが、その当時の案内板が上の写真に写り込んでいたのでアップ。
その後1日1便のみとなった頃の時刻表(糠平発便)
ちなみに90年代末頃には「バス」とは言っても、車種的には「コンフォート」が使われており、実態は乗り合いタクシー。
その当時乗ったことは…ありません。何しろ三股には宿泊施設がないので、このバスに乗ってしまうと、翌朝の帰路便まで野宿確定なので…
しかしこのバスも通学生がいなくなった平成15年の段階で廃止され、その後は三国峠経由で旭川と帯広を結ぶ都市間バスが三股に停留所を設置して実質的な代行を担うことに。
この処置により、日中の時間帯で1日2往復(4便)のバスが停車することになり、公共交通でのアクセスも可能となり、実際上のバスで三股を訪れたこともあったのだが…
しかし平成22年にこのバスが1日1往復に減便されてしまい、再び帯広・糠平方面から公共交通でのアクセスが不能となってしまったのである。
(但し旭川方面からの日帰り訪問は可能…但し三股でかなり手持ち無沙汰になりそうなダイヤではあるが…)
そして都市間バスの停留所となったことから、待合所やバス停のポールも少しだけ修復されたのだが…
「十勝三股
駅待合所」の看板は外されており、ちょっと残念。
しかしこの待合所はまだまだ現役なのではないかと。何故なら…
冬場はこんな状態なので、ここで待合所も無しにバスを待つのは無理でしょう…
と、このシリーズで最もまとまりのない今回のお話はおしまい。
まあブログの内容からは何も魅力を感じられなくとも、私が季節や交通手段を変えつつ、何度も何度も訪問していると言うことは…まあそれだけ魅力がある場所だと思っていただければ幸いです(汗
次回は旧士幌線跡に沿って南下したところにあるスポットを取り上げようかと。ただ温泉を先にするのか、アーチ橋を先にするのか、まだ未定。