F1-GATE.COM記事抜粋
>ルカ・ディ・モンテゼーモロは、1994年のF1サンマリノGPの4日前にアイルトン・セナと会っていたことをフェラーリの公式サイトで明らかにした。
ルカ・ディ・モンテゼーモロは、アイルトン・セナがフェラーリに移籍したがっていたと主張。ウィリアムズからアイルトン・セナが移籍できる手段を評価していたと述べた。
「彼はフェラーリに来たがっていたし、私もチームに彼を望んでいた」とルカ・ディ・モンテゼーモロは述べた。
「彼がサンマリノGPのためにイタリアにいた4月27日(水)にボローニアの私の家で会った」
「彼は、我々がドライビングのために電子エイドを過度に使用することに反対していることに本当に感謝していると私に話した。それはドライバーのスキルを輝くのを許さなかった」
「我々は長い時間話をした。そして、彼はフェラーリでキャリアを終えたいことを私に明らかにした。数年早く我々のところに加入する目前だった」
「彼は、我々がその時の契約上の義務を克服する方法を調べられるように再び会うことに合意した」
「我々両方が、フェラーリが、彼のキャリアを進める理想的な場所ということで合意していた。現在でも素晴らしく、ユニークでさえある彼のキャリアのね」
また、ルカ・ディ・モンテゼーモロは、アイルトン・セナのレースへのアプローチに敬意を表した。
「私は常にアイルトンのレーススタイルを評価していた」とルカ・ディ・モンテゼーモロはコメント。
「全ての偉大なチャンピオンたちと同様に、彼には驚くべき勝利への意志があったし、常に改善しようとし、完全に探究することを決してあきらめなかった」
「彼は予選で並外れていたが、レースでも偉大な戦士だった。常にあらゆる手段で戦っていた」
サンマリノの呪われた週末から20年が経とうとしております。
フリー走行でのルーベンス・バリチェロの大クラッシュから始まり、予選では、ローランド・ラッツェンバーガーが命を落とし、決勝ではアイルトン・セナまでが命を落としました。
僕がF1を見始めて、死亡事故などなかったので、本当に信じられませんでした。
ベルガーがサンマリノで燃えても普通に復帰できたのだから、死亡事故などないだろうと考えてました。
モータースポーツの側面として避けられないのだなと強く認識したように思います。
モータージャーナリストの今宮さんが、テレビで泣いている姿が今でも思い出されます。
今思うと、1994年から1995年の自分は高校1年生だったのですが、抜け殻みたいな感じでした。
4月にカート・コバーンが亡くなり、5月は上記の出来事。好きだった女の子にもフラれ、親友にも裏切られ・・・・って、書き連ねていくと、読んでいる人が不幸になりそうなので、この辺にしておきます。
僕の話はさておき、1994年のセナとフェラーリの話です。
もし、セナのフェラーリの加入が決まっていたら、シューマッハの加入はなかったかもしれませんね。
そうなっていたら、その後のF1の歴史も違ってたかもしれません。
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F1GP2014年シーズン | クルマ
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2014/04/30 23:42:50