日刊ゲンダイDIGITAL記事抜粋
【あの選手にアシックスを履かせろ!】
「大魚」を逃したことは、今でも痛恨の極みだ。
1980年代から90年代にかけて、「人類最速の男」の称号をほしいままにした陸上短距離のカール・ルイス。ロス五輪前年の83年、米国から仰天のファクスが届いた。ルイスら、多くのトップ選手が所属するサンタモニカ・トラッククラブのマネジャーで、ルイスの代理人も兼ねていた知人のダグラスからだった。
「ルイスとナイキの契約が切れる。その時は最初にアシックスに連絡をする。考えておいてくれ」
当時のルイスはナイキ社の看板選手だった。この年、ヘルシンキで行われた世界選手権(以下世界陸上)でも、ナイキのスパイクで100メートル、走り幅跳び、400メートルリレーの3冠を達成。喉から手が出るほどのスーパースターだ。ルイスは翌年のロス五輪もナイキのシューズで100メートル、200メートル、走り幅跳び、400メートルリレーの4冠に輝いた。
「ルイス取り」は、トップ選手を攻略していく鬼塚喜八郎会長の「頂上作戦」にも合致する。社内で検討に入った。
■ナイキ色が強すぎる
結論から言えば獲得には至らなかった。主な理由は以下の2点だった。
①ルイスはナイキのイメージが強すぎる。巨額な投資をしない限り、「アシックスのルイス」に変えることは容易ではない。
②ライバル会社のアディダスやプーマに話が行っても、同様の理由で契約は見送るだろう。
当然、役員会では、「なぜルイスを諦めるのか」「すぐ交渉するべきだ」という意見が出た。どちらに転ぶかわからないので、私は渡米の準備だけはしておいた。役員の採決の結果、僅差で「ルイス断念」が決まり、ダグラスに断りのファクスを送った。
大型商談は実らず、迎えた87年の世界陸上ローマ大会でのこと。
「え! まさか?」
■スタンドで見たスパイクに絶句
ルイスのスパイクを見た瞬間、私は言葉を失い、頭が真っ白になった。それはなんと、ミズノだった。「ルイス断念」の理由を役員に説明した時、私の頭に国内メーカーはこれっぽっちもなかった。ミズノはプロモーション活動では先駆者であり、かつては陸上スパイクでも人気を博していたが、当時はアシックスの方が、知名度もシェアも上。ライバル視していなかった。ルイスはこの大会でも2つ(※)の金メダルを手にした。
アシックスは、ルイスとともにバルセロナ400メートルリレー金のメンバーだった若手スプリンターのリロイ・バレルと契約。91年世界陸上東京大会100メートル決勝で「打倒ルイス」に懸けた。バレルは大会の2カ月前、9秒90の世界新記録を出しており、金メダルの可能性は高い。
祈るようにスタンドで見ていた注目の100メートル決勝。ルイスは9秒86の世界新記録で優勝。9秒88の自己ベスト(当時)を出したバレルは2位に敗れた。国立競技場から世界に発信された「ルイス・ショー」のインパクトは大きかった。市場では「ミズノ」の社名を知らなくても、「ルイスが履いているシューズを下さい」と言われるようになった。「陸上スパイクのミズノ」は、ますます世界に浸透。ルイス効果により、ミズノブランドは他の競技にも波及した。
ルイスを逃したことは人生最大の判断ミスだった。悔やんでも悔やみきれない。その一方で、大物を逃したことで大打撃を避けられたこともある。(※1位のB・ジョンソンが88年ソウル五輪のドーピング違反でルイスが金3つになる)
植月正章/元アシックス営業本部長談
僕は、スニーカーが好きだったので、こういうブランドの裏話が好きです。
新人のマイケル・ジョーダンが直々に使わせてほしいと言ってきたのに、断ったアディダスは大きな失敗を犯している訳ですが、アシックスもやらかしていた訳で(笑)
ナイキ時代のカール・ルイス。
カール・ルイスのミズノ製シューズ。
1992年バルセロナオリンピックでのカール・ルイス。
本文中にあります「ルイス効果により、ミズノブランドは他の競技にも波及した。」の例は↓
ディアドラのレーシングシューズだったアイルトン・セナが
ミズノのレーシングシューズに鞍替え。
セナ直々のご指名だったとか。
凄いタイムで走るカール・ルイスの靴を作れるのなら、僕のもやってよ的な。
今回のオリンピックで、こういった伝説が生まれるのでしょうか。
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Posted at
2021/07/21 15:15:34