「うそはついたらいけません」
と言っておきながら「おばけがくるぞ」と自らは即座に嘘をつく矛盾。もう一つ問題があるとすれば、その矛盾にすら気づいていないケースがあることかもしれません。冷静に見ている子もいますので「お前は嘘をついているではないか」と説得力を大きく削っていく道程を歩んでいる可能性ならまだしも、それでも親だからという根底の信頼を維持することは何らかの歪みを生んでいるかもしれません。
子供に伝えていきたい事実としては、あるいは幻想を見せないようにしたいことは「大人はみなすごい」や世間の「大人像」もしくはあやふやな大人の定義をできるだけ霧を取っ払って適正な理解を提示していければと考えています。
中学の頃は六法全書で判例まで読み込んで、学校の先生にふっかけるいやな子でしたが、先生が教育基本法の具体的な条文やその理念を知らないことは「ありえない」と思い、なのに偉そうに感じ、あるいは親の知り合いでスーパーお坊ちゃまがいてご本人はそれを切り崩しただけでこれまた偉そうで何もできていないくせに価値を押し付けてきて、と当時大嫌いな大人もいたり、またはいたずら電話で「戦車を注文」し大人を翻弄いや愚弄し、合わせて大人はなんたるバカなんだと思って青年期あたりまでを過ごしてきました。
そのように大人をバカにした私でも「大人はすごい」「大人だからできるはず」「大人は当然にみな仕事ができる」という妄信や妄想から抜け出して、適正に理解するというナレッジを得ていくまでに非常に不要な労力を使ってしまったと考えています。もっと早期に適正理解に向かい、適正理解を前提に経営に当たっていたほうが、己の精神衛生上も含めてスムースに、あるいはエネルギーやコスト、人的資源の活用について効率よくもっと早くに経営できたのではないかと感じています。
大人を理解する、ということはすなわち社会と機微の中で働き生活する人々のことを理解することであり、一つの会社の中だけでも、もう訳が分からぬほど非常に広範な個性や様々な価値観に考え方、感性、資質、経験値、知識量、そして性格にと、無限のバリエーションに富んだ対象かと思います。
それを一色単に「大人」と表現して伝えてしまっていることは、社会への理解がないまま社会に出てからそのナイアガラの滝かのような齟齬っぷりに、あれ思っていたのと違うぞ、と混乱しているうちに、大切な時間が過ぎていき、あるいはできない大人にミスリードされて人生が終わってしまうこともけして少なくない事象に思います。
本来はあおり運転の報道などなくとも高速を80キロまたはスローペースで走るのならば左車線を走ることなど、当たり前のルールであり、マナーであり、他者や状況を適正に判断すればわかりそうなものですが、それすらままならない大人がいるのが世の中であり、いくら腹を立てようが拡散しようが、厳罰化でもしなければその比率も変わらないのがまた世の中に思います。さらにいえば高速はトラックにとっては職場であり我々も多くの恩恵を授かっているところですが、高速を一般車が走るのは築地で素人がうろうろするような節があり、せめて邪魔にならないようにしよう、どころか公共物であるから俺は俺の走りたいように走る、という自己主張や権利意識は、自分の都合だけで感謝に変わるのもまた大人である、と教えていく必要があるかもしれません。
東京に住む人1,400万人、あるいは一都三県の人口3,700万人、関東の人口4,300万人、もちろん全国一億二千万人。
来る日も来る日も絶え間なく毎日、これだけの人々の食料が安全性も担保されながら三食分数日分以上のボリュームで、飲み物も十二分以上バリエーション豊かに揃えられ、これが災害がありこの極僅か一部の方々に食料が行きわたらなくとも、大騒ぎになり当該地では切実な問題となるわけですが、
常日頃から毎日、これだけの人々のお腹を満たすため食料はじめ物資を用意することは、その大変さがあり、それは同時に大きなビジネスチャンスでもあるわけですが、台風の前日都内ならびに近郊はどこのお店も棚がからっぽだったのに、翌日にはお弁当やパンは無論、カップラーメンも商品が元の通りに敷き詰められメーカーの供給力、そして流通や物流の驚異を思いました。東京だけを見ても1400万人の三食分、かつ数日分、加えて昼間人口分の食料を一夜にして十分用意する凄みです。
災害があろうとも、坂を登るのが大変な大雪であろうとも、年末年始でも、たとえば10連休大型GWの大渋滞の中にも、トラックは西へ東へ北へと物資を運び、災害があれば「トラックありがとう」とSNSにUPされてたりしますが、他方で普段は少しでも追い越し車線にトラックがいようものなら「どけよ」と動画投稿があったり、
投稿しないまでも、速く走るのに邪魔なんだと内心誰しも思ったり、すなわち平時は高速でトラックが邪魔だと腹を立て、災害や連休にSAで休むトラックの車列を見たときだけ感謝する多くの大人で社会というものは構成されており、あるいは80キロで邪魔をしていることに気が付かなかったりという大人もいて、逆に高速道路を作る大人、その会社を経営する大人、車を作り、自動車会社を作り経営する大人もいて、
ここに止まらず、もしくはルールを守るか否かという視点だけでなく、ルールを作る強さを知り、ルールを作る人に影響または翻弄される人がいて、社を経営することはルールを作る要素も幾分あり、という社会のピースも教えつつ、
「80キロで延々と追い越し車線を走るようにしか物事の認識ができない知能だが必ず他に長所もある方が世の中には一定数いてそれが社会」である、という理解がないゆえに、これに腹を立てる人がいて、またそのような「大人」で構成されているのが社会であり、その濃淡はあるにせよ、さらにこれに腹を立てるのもある意味では未熟または成長過程中といえ、
換言するならば、足が遅い人、不器用な人がいて、それを理解できなければ「なぜ足が遅いんだ」と腹が立ち、それを理解していない人がいる理解をしていないと「なぜ足が遅いと腹を立てる人がいるんだ」と憤りを感じる、という五十歩百歩的構造であり、
足が遅い人、足が速い人、器用人、不器用な人、頭がいい人、あまりよくない人、その違いを理解している人、理解していない人、そのような大人がたくさんいて社会があり、「大人だからみな足が速い」わけではなく、「大人が皆大人」なわけではなく「大人がみな賢い」わけでもなく「しかし一様級に他者を批判し偉そうではあり」と大人という単語を分解し紐をほどいて丁寧に解説という説明を試みて、
さらに切り口を変えておけばコメントが荒れてもYouTuberや著名人は憤りストレスになってしまうのであればそれは社会の理解がまだ足りないのかもしれずゆえにストレスになってしまったり折れてしまうのであり、さらに上をいくのであれば批判にストレスを受けることなく上手に大衆をコントロールし支持を集めるのであり、つまりはそういう方々の扱いも利用もうまく、すなわち世の中を理解していると言え、これを器の一つに数えることができるかと思い、これは会社経営においても同様の要素が求められていくのではないかと考えられ、
一つひとつレイヤーもつぶさに実体を理解していき等身大で受け止めて、その理解の上で、じゃあどうするのか、何ができるのか、どんな役割があるのか、を考えてみることにリードしながら繋がって、自分の役割が見つかるということは、人生における大きな幸せの一つのような気がしなくもありません。
それを見つける冒険の入り口とサバイバル知識ぐらいは伝えてみたいですが、いつになることやらとも思いつつ、パパが生きている間にパパからいっぱい盗んでくれ、「うん、わかった、本も盗んでいいの?」という会話もありましたが、
これから20年後、30年後、
薬に機器、新しい技術と医療の発達で治る病気も増えるという幸せや有難みの増量分、寿命も増えるということはそれだけ稼がなければならない経済的ボリュームも増大し、つまりは大変さにストレス、不安の生涯分量も増え、
他方で、経済的な環境の観点から、チャンスもあろうものの、しかし大勢にとってこの日本ではますます生きていくのに大変な時代が到来するのは確実なような気もし、現にこの10年だけを見ても苦しんでいる人のほうが増え、今後実質的な移民が増えて行けば、日本人の職が奪われることともなり、移民問題を抱える多くの国と同様な摩擦や不満がサイレントに溜るようになり、
医療の発達は、すなわち健康長寿による高齢者の医療費増大を意味し、わが国おける制度並びに人口減の局面では、若者や働き盛りの苦しみばかり増やし未来の人の寿命を縮めてあるいは不幸を生む一面もあろうかと見受け、軽く診察してもらおうものなら実費最低2万円から場合によっては10万20万かかるゆえアメリカ人は風邪では絶対に病院へいかないわけであり、たとえ若干平均寿命が短くなったとしてもアメリカ型のような社会保障システムも一考かもしれずとなどとも考えたりもしますが、
現実をみたときに、いずれにしても益々生きていく厳しさが増す未来を憂いてしまい思う中で、
教育とはなんぞや、と考えたときに、
英語、コミュニケーション力、優しい心、逞しい心を育てる、よい学校へ行かせる、よい会社へ就職できるように、社会に貢献できるようになってほしい、リーダーシップをつける等、それぞれあろうかと思いますが、
私は子であってもチームであっても、教育とは第一義的に「稼ぐ力」をつけさせることではないか、すなわち少なくともまずは「自分がいっぱしに食えるようになる力」をつけさせ社会に送り出す、でければそれは教育ではないのではないか、仮に「優しい心に育てる」だけを思っているとすれば、非常に抽象的すぎることも懸案ですが、それだけでは意味をなさないのではないか、もしくは優しい心を育むだけなら20年もいらないだろうと考えたり、
ぐらいに思い、あるいは英語を学ぶことは大切なことですが、しかし手厳しいことをいえば世界中に、そしてこの日本でも英語が堪能でもさして稼いでいない人も五万とおり、むしろ多数かもしれず、にもかかわらず殊この日本においては「英語、英語」と英語万能論のごときな風潮が昔からコンプレックスとともに変わらず横たわり、英語よりも大切な何かを子に教えていくことを見誤ってはならないのではないかと思う次第です。
「あら可愛いわね」から始まる井戸端会議で「私はこれを大切にして育てたのよ」と街行くマダムからご教示頂くこともありましたが、その成果がどれほどなのか分からぬまま、どう役立つのかも未知のまま、教育論を見知らぬ人に振りかざすほど教育というものは100人いれば100論あり、という旨のことは古今東西言われており、
100人の子がいればそれぞれの個性にあった教育がまたあろうかと思いその意味では、教育論のバリエーションがあることは的を得ている面もあろうと考えますが、
何せ教育の成果が出るのが20年後、あるいは40年後ですから、好き勝手に言えるところでもありますが、
稼ぐ力、それは生きる力をつけることであり、そこに含まれるのは心の強さでもあり、それを成しえてより大きく社会に貢献したり、自らや家族を十分満たせれば他者を満たす余裕も生まれ、やがては自分だけが生きる力をつけることに留まるものでもないと思いますが、しかしまずは第一義的にそれを達成しなければ教育ではないのではないか、しかも20年以上の時間を費やすに十分なほどの到達点へ、ぐらいに考えています。
ある登園ドライブ中「パパ、あのジムニー試乗車だけと売ってもいるみたい、値札付いてる」と会話がはじまり、
「あれは毎月9,100円ずつ払えば、つまりお金は少しずつ払って、車は先に乗っていいですよ、というローンと呼ばれる買い方、お金の払い方の札なんだよ」と説明してみました。
「ジムニーは200万円ぐらいだけど、200万円払ってジムニーを買うこともできるし、毎月9,100円ずつ払ってジムニーを買うこともできて、200万円がいまない人でも200万円貯まるまで貯金しなくてもジムニーが買えるようになっているんだよ」と続けて説明してみれば「スズキがお金ほしいから?」とまったくもって肯定するべき表現で確認が飛んできました。
トヨタもスズキもお金が欲しい。そうか、平たく言えばその通りに思いました。残価設定ローンなども編み出して購入者層を広げ刺激し「そこまでしてもお金がほしくてたまらない」とも言えそうです。
お金がない人からもそこまでしてお金が欲しいから、という意味なのか「スズキって悪い会社だなぁ」というので、資本主義のメリットや皆が努力してお金を稼ぐことで世の中がバリエーション豊かに楽しく回っていることはまた話すとして、続けて、単価について説明をしてみました。このタコマ1台分でジムニーが4台買える、
GLだったらジムニー7台ぐらい買えるかもしれない。「えぇそんなに」との声を聞きながら
「スズキはジムニーを一台売って200万円もらえて、トヨタはタコマTRDPRO一台売って800万円もらい、ベンツはGL売って1,400万円もらえる。これを単価といいます」、続けて「同じ一台売って、もらえるお金がぜんぜん違うんだね、どっちがいい?」とも問うてみました。
残価設定やボーナス払い、販売店の利益、あるいは単価といっても顧客単価に商品単価、平均単価、もしくは商品力やブランディング、競争力など解説ポイントは多岐に渡りますが、まずはシンプルに単価という概念も伝えてみています。
「1台800万円で売れば10台売ると8,000万円、1台200万円で10台売ると2,000万円と、単価の差はたくさん売れば売るほどに大きな差となっていく関係です。」「ファミレスは単価数百円であれだけの設備とサービスを用意するんだからすごいよね」と今回の単価講座はここまでとし、単価と市場規模の関係性についてはまた考えてみることにして、
「だーーーい好きなAちゃん」「Aちゃん」「こいつ」「おまえ」、それぞれどう感じるか確認して「人はたった一言、呼ばれ方が違うだけで、こんなにも気持ちが違う不思議な生き物」という切り口で認識を共有化し、
「それはなんでだ」という、たったこの一言違うだけで、こんなにも受ける印象がなぜ違うのか、という問いには、
「一つは、人間っていうのはバカにされるのがいやなんだと思う」そして「それはなんでだ」という質問へは「生存競争の本能、殊に異性を勝ち取るため」という説明をかみ砕いてしておいてみました。
あるいは同じ「こいつ」と言われるのでも異なる語気、すなわち可愛らしく言われるのと、荒々しく言われるのでは受ける印象がまったく異なることから推察すれば、これも生存本能から敵か否かの認識能力に関わっていると考えられ、
これらの写真から1年後たる2019年年長の登園はそのような会話をしてみています。
単価の話をした日は、帰宅すればトヨタ党の我が子youtubeで豊田章夫氏の動画を自ら操作して二回目からは倍速にして三回視聴し、「パパ見て、コネクティッドカーだよ」を教えてくれ
秋夜のBMWキックボード散歩をしていれば、「パパ、古いプラドのエンジンと、FJクルーザーのエンジンは同じなんだよ。違うのもあるけどね」とyoutubeで知ったらしい解説を受け、帰れば「ほらみてみ、エンジンカバーも一緒でしょ」と古いプラド1/18スケールのボンネットで実地研修も頂き、
過日の登園時は対角線スタックについての質問が来ましたので「おいみんなだいたい同じぐらいに必要に応じてほどよく回れ!みんなでだいたい同じくらいな!でもどこかが一人だけ勢いよく空転すると他のみんながほどよく回れなくなってしまう」というのがデフで、「おい、みんな!俺はみんなを平等に回したいんだ!とどんなときも同じように回ろう!」と『ガチーン、バッチーン』と固めて「とにかく全部のタイヤをどんなときも同じように動かそうぜ!」というのがデフロックで、と
「
中田敦彦のYouTube大学」におけるYouTuber中田氏を意識した表現方法で伝えてみた朝もありました。
齋藤 孝氏や池上 彰氏などの台頭、次いで中田氏のようなコンテンツの出現は学校で習うよりも歴史の概要や意味、時系列が分かりやすいといえ、
知識や教養という意味では、理解度や能力一人ひとりに合わせたマンツーマンが最高級的であると思われるところ、
動画共有サービスによるコンテンツの進化は、少なくともナレッジにおいては学校不要論の礎として十分すぎる説得力を現場の最前線としても持ち始めており、
いや学校というものは集団生活、社会生活、社会性、人間関係を育む場である、という反論に対しては、結果を見れば多くが組織にとって従順な存在を作るための洗脳をする場と再反論もしたいところですが、
あるいは仮想的にネット上で人と交われ、コミュニティも無限にありその中から属するものを見つければよく、という反論が弱いとすれば、リアルな、しかし学校よりは緩やかな、たとえば体操クラブや英語クラブなどコミュニティに属してそこで磨くことができ、
人との出会いに思い出、将来人脈の構築も可能であると考えられ、学校で物足りない時間を延々と過ごすよりも、時間を大きく有意義に使うことができ、
そもそも学校とは何なのか、本当に必要なのかと考え直す時期に来ているのかもしれません。
もちろん後進国を思えば学校はないよりもあったほうがよく、かつ幸せで有難いことであり、しかし学校に代わる次の仕組みが生まれ始めているのではないかという意味での学校不要論です。
先々将来にできるプラットフォームは、すべてがCtoCで生きていくことができるようになり、必要な事も物も個人に依頼することで製造供給され、屋根の修理など人工も整い、分散コンピューティング的に高尚な方々同士で技術も進化していくようなサービスが生まれていくのではないか、
仕事も必要なスキルも、必要な分CtoCで需給を満たせる日が来るのではないかと想像してみています。無論大きな資本が必要な設備や技術なくしてできないことも多分にあるので、社会の一部ということになりますが多くがこれで事足りて問題解決もできるのではないかと考え、これを作ってみたいと相談すれば「まだ時代が早い」とも言われましたが、
新しい何を生んでいく事業は子か孫に委ねるとして、
LINEに関してやっていないことを告げると夜の店では「嘘でしょ」と言われ必ず「やっていない理由」も聞かれるラインライストサムライですが
小学校高学年になる頃には、政治、経済、科学で十分な議論の相手になれるようにも、私自身を鍛えつつ、
同じく小学校高学年までにはビジネスの基本的な考え方はマスターして、十分に現実的なビジネスプランを立てられるようにいざなってみながら、
ビジネスの土台を整えつつも、若いゆえ半端ない吸収力を活用して先端テクノロジーを大切に息吹として捉え、潜在化しているマーケットへのビジネス本部長として高校生ぐらいで一つ立ち上げてみるぐらいに導いてみて、
子孫はすべて起業家にする、ぐらいな先祖または我が子を中興の祖ぐらいにすることが私自身の隠れたる目標かもしれません。
こうして写真の上では、2018年年中秋の幼稚園主催バザーも終わり、
「帰りはいいよ」と行きにした約束の水たまり走行を楽しんだ翌日はFJクルーザーでFJクルーザーサミットへお出かけです。
FJクルーザーサミットへつづく