
このブログは私が通っていた小学校での思い出です。
車ネタではありません。
本文中、体罰に関する描写がありますが、体罰を賛美したり正当化するものではありません。
当時都会の下町といった感じの小学校で3年生になった私は、アベ先生という方が担任になりました。
このアベ先生、一昔前のテレビドラマを彷彿させるような、いかにも絵に書いたような熱血先生でした。
小学3年生だった私には、このアベ先生がいくつぐらいだったのかはっきりわかりません。
20代だったのか、それとも30代だったのか・・・・・とにかく熱い先生でした。
良いことをしたら全力で褒め、休み時間は全力で児童と遊び、でも宿題を忘れたり悪いことをすると強烈な罰が待っていました。
アベ先生に限らず、当時は体罰が当たり前でした。
ある日、休み時間に鬼ごっこをしていて足を引っ掛け、誤ってベランダに置いてある植木鉢を割ってしまいました。
休み時間が終わりアベ先生が教室に入ってきました。
ご丁寧に誰かがベランダの植木鉢が割れていることを報告してくれます。
「誰だ! 割った奴は素直に自分で言え!!」と言われ、黙っていて誰かにチクられるより、自分で言ったほうがマシだと思い、手を挙げました。
するとアベ先生はみんなに机を後ろに下げるように言い、前に空間ができました。
私はその空間に来るように言われその通りにすると、号令がかかりました。
「気をつけ! 目を瞑れ! 歯を食いしばれ!」
次の瞬間ぶん殴られるのを悟った私は、思わず逃げてしまい少しアタリが外れました。
それでも十分痛かったのですが、「コラッ! 逃げるな! もう一回!」と再度ぶん殴られる事に((((;゚Д゚))))
今度は「気をつけ! 目を瞑れ! 歯を食いしばれ!」と言った瞬間、間髪を入れず逃げる間もなくぶん殴られ、そのまま吹っ飛び、気づいたら床に叩きつけられていました。
次の日から鬼ごっこをしても、周囲に十分気を配るようになったのは言うまでもありません(笑)
宿題を忘れると違う罰が待っていました。
忘れた者全員が前に並ばされ、順番にお尻を突き出し、鉄パイプや木の棒で思いっきり叩かれます。
これが痛いのなんの。
某TV番組の「笑っては○けない」どころではなく、しばらくお尻がズキズキしピョンピョン飛び跳ね、椅子に座るのも辛いくらいでした。
一番きつい罰は弱いものいじめをした時です。
ぶん殴られて吹っ飛んで床に叩きつけられても、胸ぐらを掴んで起こされ、何度も何度もぶん殴られます。
クラスメイトのその光景を目の当たりにして、私はけっして弱いものいじめをしないでおこうと心に誓ったのでした。
そんなアベ先生ですが、私を含めクラスのみんなアベ先生が大好きでした。
良いことをしたら褒めてくれる。
休み時間に遊んでくれる。
もちろんそういったこともあります。
でもみんな、何よりも楽しみにしていたことがあります。
それは毎月くじ引きををして、何人かづつ順番に遊園地へ連れて行ってくれることでした。
当然学校が休みの日で、全額アベ先生持ちです。
なかなかくじに当たらず、私が当たったのは随分後になってのことです。
でも自分の番が来た時は、嬉しくてしょうがなかったのを覚えています。
当日、くじに当たったクラスメイトが、集合時間に最寄りの駅に集まりました。
もちろんくじ引きなので普段仲のいい者同士とは限りません。
男女もごちゃまぜです。
そしてアベ先生の姿はありません。
みんな各々阿部先生の自宅までの地図や住所が書かれた紙をもらい、それを頼りにアベ先生の家まで行くのです。
といってもこれがけっこう遠い。
1時間半から2時間くらいはかかります。
おまけに途中日本でも有数の大きな駅で、何度も他社線に乗り換えなければなりません。
中には不安でいっぱいのクラスメイトもいます。
しかしながら私は小学3年の頃には、友達同士で電車に乗って遊びに行ったりしていましたし、何よりも幸運だったのは、お墓参りに行く際、最後の乗換駅まで経路が同じだったので、私の頭の中で瞬時に行き方が描けました。
という訳で私がリーダーとなり、アベ先生の自宅に向かう事になりました。
無事電車を乗り継ぎ、最後の乗換駅に到着しました。
最後の乗換駅ではお墓参りに行くのと違う方面に行く電車に乗るのですが、何行きに乗ればいいのかは分かっていたので、すんなり乗車できました。
ただどれくらいの時間乗れば降りる駅に着くのかはわからなかったので、みんなで車内アナウンスに必死で耳を傾けていました。
乗り越すこともなく、アベ先生の住んでいる街の駅で降り、そこから先は誰も知らない未知の世界です。
地図と住所を頼りに、周りの大人に聞きながら、阿部先生の自宅に向かいました。
十数分歩いた後、私の記憶ではわりとすんなり到着したような気がします。
アベ先生の自宅は2階建てアパートの1階で、一人暮らしでした。
しばらくしてから少し早かったのですが、アベ先生の行きつけの食堂で、お昼ご飯を食べることになりました。
何を食べたのかは覚えていません。
でも、もちろんアベ先生の奢りでした。
食堂を出た後、また駅に戻り、今度は今日の目的の遊園地に行くことになりました。
遊園地に到着したあと、具体的に何に乗って何をして遊んだか、すべては記憶にありませんが、これまでになかったぐらい楽しかったのを憶えています。
クタクタになるほど楽しんだ後、アベ先生が地元の最寄りの駅まで送ってくれました。
そしてその日がけっして私の記憶から消え去ることのない、思い出の一日となりました。
今の時代では絶対にできない、いや、それどころか大問題になってしまうことでしょう。
この事をどこまでの方がご存じだったのかわかりませんが、親も学校も教育委員会も誰も何も言わなかった時代なんでしょうね。
それ以上にうちの親も含め、どこの親も喜んでいたようです。
当時、遊園地連れて行ってもらえるという、直接的な行為に対し喜んでいたわけですが、今振り返ってみると、その中にいろんなメッセージが込められていたように思います。
・くじ引きをして普段遊ばないクラスメイトと行動すること。
・力を合わせ共通の目標に向かって進んでいくこと。
・自分達の力で目的地に到達すること。
・普段遊ばないクラスメイトと楽しむこと。
協調性や逞しさ、自分達でなんとかしていく力強さ、いろんなことを学んだような気がします。
この方法が最善なのかどうかは分かりませんが、少なくとも私の人生に影響を与えたと思いますし、プラスになったと思います。
時代が違うと言えばそれまでですが、私達の子供の頃は今とは違う逞しさがあったような気がします。
もちろん私の世代よりもっと上の世代の方は、それ以上に逞しいのでしょうが。
小学3年生が終わり4年生になった時、私の担任はまたアベ先生になり、とても喜びました。
そしてまた遊園地に行けることを楽しみにしていました。
ところが新学期が始まってしばらくしてから、私は見知らぬ所へ転校することになりました。
転校したくなかったのですが、私にはどうすることもできませんでした。
あれから随分年月が経ち、その後一度もアベ先生とお会いしていません。
いまでもお元気にされているのでしょうか?
(このブログはノンフィクションですが、本文中の名前は仮名です。
また写真は全て私が撮影したものですが、本文とは関係ありません。)