
当時の様子が
詳しく描かれていました
敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し
午後1時55分、三笠の前部マストに決戦を示す4色のZ旗が翻った瞬間。
「皇国ノ興廃 此ノ一戦ニアリ 各員一層奮励努力セヨ」
その後彼我の距離が8000メートルとなった午後2時5分、東郷はさっと右手を上げた。その手をゆっくり、左に向けて下ろしていく。
傍らにいた参謀長、加藤友三郎の大声が響いた。
「艦長! 取り舵一杯!」
旗艦三笠が左に急転回する。後を追って2番艦の敷島、3番艦の富士、4番艦の朝日なども順次転回する。のちに東郷ターンと呼ばれ、世界中の海軍関係者を驚嘆させた、敵前大回頭だ。
一方、三笠が急転回するのをみた敵の司令長官ロジェストウエンスキーは、好機到来と全艦隊に戦闘開始を命令。距離7000メートルで旗艦スウォーロフが第1弾を発し、後続艦も次々に砲撃したが、効果的な命中弾はなく、東郷による大胆な艦隊運動をとめることはできなかった。
この敵前大回頭、すなわち東郷ターンが決まったことで、勝敗はほぼ決したと言えよう。
距離6000メートルとなった午後2時10分、ついに東郷は砲撃を命じる。まず三笠の12インチ砲が放たれ、転回を終えた連合艦隊の後続艦も砲撃を開始。敵の進路を圧迫しつつ先頭の旗艦スウォーロフと戦艦オスラービャを猛射した。
間もなく敵の各艦に大火災が起こり、濛々たる爆煙が海と空を覆った。互いに飛び交う砲弾はやがて一方向にのみ流れ、風を切り、空を裂いた。 セメヨノフの言葉を借りれば、それはもはや「戦闘ではない。射撃教練…」だった。
日没後は連合艦隊の駆逐艦隊と水雷艇隊の出番だ。
俊足の小型艦が敵の大型艦を追い回し、夜陰に乗じて肉薄する
敵艦が狂乱して海面を猛射する中、駆逐艦隊と水雷艇隊の攻撃は、前方から後方から、一隊去ってはまた一隊と繰り返され、戦艦2隻、巡洋艦4隻を大破撃沈した。このうち戦艦を沈めた第4駆逐隊の司令は、のちの首相、鈴木貫太郎である。
明けて28日、ウラジオストクに向けて遁走するバルチック艦隊は、戦艦2隻、装甲海防艦2隻、巡洋艦1隻に減っていた・・・
ちなみにこの展示にある日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を撃滅し日本が勝利した際にその旗艦である「クニャージ・スォーロフ」から奪取した軍艦旗は鹿児島県の知覧特攻平和会館に展示されています。
その後日本海軍は捕虜を殺したり拷問したりすることはなく救助して
国際規範を守り、戦闘終了後は敵兵に対しても紳士的に対処したそうです。
こちらは常設の艦隊模型コレクションで、ここだけでもじっくり見たら1時間位掛かりそうでした😱
就役当時の甲板材
実物が残っていると感慨深いものがありますね。
世界の三大記念艦とは?
三笠は日本海海戦において、東郷平八郎司令長官率いる連合艦隊の旗艦として
勇猛果敢に戦い、歴史的な大勝利に貢献しました。
ヴィクトリーはトラファルガー沖海戦において
ネルソン提督率いるイギリス艦隊の旗艦としてフランス・スペイン連合艦隊を破りました。
コンスティチューションは米英戦争において
強敵にひるむことなく勇敢に戦いました。
これらの艦船が自国の独立を守るための重要な海戦において勇敢に戦い歴史的な勝利を収めたことから
世界の三大記念艦といわれています。
三笠の建造から
就役後の活躍に
除籍後は記念艦として
保存された流れが詳しく説明されていました。
艦内は
見どころ満載で
目移りしてしまいます😆
この巨大な菊花紋は
実際に戦艦三笠の
艦首に
取り付けられていた物なんだそうです😱
三笠で使用されていた「軍艦旗」
元帥海軍大将 東郷平八郎
“Z”がアルファベット最終文字である事から「この戦いに敗れたら後はない」という決戦の士気高揚を目的に用いる。1905年(明治38年)5月27日、日本海海戦において、日本海軍はバルチック艦隊を相手に大勝利を収めた。その際、連合艦隊旗艦「三笠」が「皇国ノ興廃此ノ一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ」と言う意味を込め、Z旗を掲げた。
東郷元帥の手形
こちらは
東郷元帥が使用していた双眼鏡です
日露戦争後は外務大臣として
ポーツマス条約の締結に大きく貢献しました。←ってか・・・
今も昔もロシアは国家間の約束も守らない、オリンピックでもドーピングしまくりの、ろくでもない国ですけどね😩
こちらは当時の戦艦三笠の艦内生活の様子です
ここだけでも
数十分は見入ってしまいそうです
ここも・・・😆
ああ~
もう
キリがない~🤣
大和型戦艦の主砲も水圧で動いてましたが三笠が最初だったんですね
呉港に停泊中の2本のマストと煙突が特徴的な三笠。
明治38年10月22日に撮影された写真
連合艦隊司令部の集合写真
東郷平八郎が肉じゃがの生みの親?
彼がイギリスのポーツマスに留学していた頃、現地で出合ったビーフシチューの味を忘れることができず艦上食のメニューにビーフシチューを加えるよう依頼。
しかし、当時はビーフシチューの材料である赤ワイン、デミグラスソース、バターの入手が困難で、使える調味料と言えば醤油や砂糖など日本の物だけ。困り果てた料理長が苦肉の策で作ったのが、今で言う肉じゃがだったそうですが・・・
そんな料理をここで食べたのかな~なんて想像してみたり😆
しながら
当時に想いを馳せながら
見学していきます
長官室のベッドは荒波でも
転げ落ちないようになっているようですが、棺桶みたいですね😅
急いで艦内を観終わったので
後ろ髪を引かれる思いでした😢
弦問から降りて売店で買い物を済ませましたが
この旅の一番の目的地がここでしたので今回は歩き回る前提で荷物は登山用の30Lのバックパック1つというスタイルにしましたが、機内持ち込みも出来るサイズなのでこれがとても便利でした👍
再び京急電鉄の横須賀中央駅から乗車して京急鎌田で乗り換えますが、横須賀中央駅の駅メロが山口百恵の「横須賀ストーリー」でしたので、ほっこりしつつ😆
※興味のある方はこちらからどうぞ。ちなみに浦賀駅の駅メロはゴジラなんだそうです🦖
都会ならではの満員電車も体験しつつ羽田空港線への乗り換えの為、一旦京急鎌田駅で下車しますがたまたま蒲田駅付近で買い物をしていた同僚がいたので合流し、一緒にランチを済ませたら
羽田空港から地元へ戻りましたが、今回の旅では都会ならではの車の大渋滞と観光地での大混雑に満員電車と、田舎に住んでいてはわからない貴重な体験ができました😆
帰宅後は
旅のお土産と思い出を肴に
呑みますかね♪