クルマ・ジャケコーナー第405回は、「MEMORIES of JAPAN GRAND PRIX」(1983)です。
完全後付け💦400回記念“レーシングカー・シリーズ”第5弾!
ジャケに“日本グランプリ20周年記念 HISTORIC CAR FESTIVAL '83 SUZUKA”とあり、1963年に鈴鹿サーキットで開催された「第1回日本グランプリ」の20周年を記念して開かれた「ヒストリックカー・フェスティバル'83鈴鹿」を記録したレコです。
ネット上に「ヒストリックカー・フェスティバル'83鈴鹿」公式プログラムの画像がありました
レコのライナーノーツによると「ヒストリックカー・フェスティバル'83鈴鹿」とは、
“20年を経て今、鈴鹿ではロータス23、カレラ2、ジャガーD、そして当時のクラウン、コロナ、パブリカ、スバル、ブルーバード、フェアレディ、スカイライン、キャロルなどがこれまた当時のドライバーである多賀弘明、杉江博愛(徳大寺有恒)、細谷四方洋、片山義美、浅岡重輝、北野元、田中健二郎、生沢徹などの手によりドライブされ、元気な姿と昔を再現”
した催しだったようです
ライナーノーツの写真
クルマ・ジャケ「白熱のグラン・プリ・レース」
また、第1回と第2回の日本グランプリの興味深いエピソードも山盛り!
以下、省略しながらご紹介します
〈黎明・第1回日本グランプリ 1963年5月3~4日〉
自動車がやっと庶民の手に届くようになりつつあった時代だった。4輪レースが何であるかを大半の人は知らなかったし、外人ドライバーが駆る本格的なスポーツカーの走りと姿は目の前にした日本のドライバーと2日間で20万人集まった観衆に強烈なショックを与えた。何しろ、出場した148人のドライバーのうち、鈴鹿を走った経験者は望月修、鈴木義一、吉田隆史の3人だけで、主催者のJASA(日本自動車スポーツ協会)は急遽、レース講習会を開いたというエピソードが残されているような時代だったのだ。
CⅠにはスズライト・フロンテ、スバル360、マツダ・クーペ/CⅡにはパブリカ、三菱500、スバル450、キャロル/CⅢにはコンテッサ、ルノー、DKW、ブルーバード、 /CⅣにはフォルクスワーゲン、ブルーバード、/CⅤにはコロナ、ヒルマン・ミンクス/CⅥにはクラウン、ベレル、セドリック、グロリア、スカイラインなどがいた。そしてBⅠにはDKW、ヒーレー・スプライト、ポルシェ、MGミジェット、コンテッサ、フェアレディ/BⅡにはフェアレディ、トライアンフTR2、同TR3、同TR4、MGA、MGB、スカイライン・スポーツ、セドリック、ポルシェ/BⅢにはジャガーE、メルセデスベンツ300SE、ヒーレー100、ヒーレー300などが出場していた(ちなみに各クラスの先頭に書いたクルマがそのクラスの優勝者である)。
今では信じられないことに、これらはすべてナンバー付のクルマで、そのほとんどが鈴鹿まで自走してきたものだった。当時、東名も名神もなく、ドライバーは東京からだと10時間以上走って到着、レースをやって日帰りというのが当たり前だったのだ。いわば個人参加の腕におぼえのあるアマチュアが結構上位入賞できたGPは、ただしこの第1回のみといっていいだろう。すでにトヨタはメーカーとしてレースに積極的であったし、事実3クラスに勝ち、これを大宣伝。レースに勝つことがクルマを売ることに結びつくことを他メーカーも知り、翌年の第2回日本GPでは早くもメーカー同士の全面対決の場と急転していくのである。
また、BⅡレースにおいて田原源一郎のフェアレディが欧州のはるかに優れているスポーツカー(と、当時は思われていた)のトライアンフやMG、ポルシェに大差をつけて勝ち、観客に国産車の優秀さを初めて見せつけ、驚かせ、喜こばせたことも特筆しておかねばならない。
〈名勝負・第2回日本グランプリ 1964年5月2~3日〉
2日間で24万人という大観衆を熱狂させたのがGT-Ⅱ(1001~2000cc)レースだ。当時、テストのために1時間20万円のコースレンタル料を湯水のように注ぎこんで、全メーカーがレースに傾注していた。日産と合併する前のプリンス自動車も最も熱心なメーカーのひとつであった。スカイライン1500をロングノーズにし、そこへグロリア用に直列6気筒OHCの2lG7型エンジンを押し込んだスカイライン2000GTを急遽100台生産し、送り込んだ。しかもウェーバー40DCOEキャブを3連装。当時、発売されたばかりのホンダS600が50万9千円だった時、このキャブ1基が10ン万円。いかにプリンスが必勝を期していたかがわかる。そこへ衝撃のニュース。ポルシェの最新鋭マシン、カレラGTS904が式場壮吉の名でエントリーして来たのだ。世界中から垂涎の的である904が日本に来るハズがない…!?水平対向4気筒DOHC、1966ccのエンジンで180馬力を絞り出すモンスターはしかし、鈴鹿にその姿をレースまであと2週間に迫った4月16日、現したのだ。
ところが5月1日の予選。この904が雨の中、第1コーナーでクラシュしてしまう。この時プリンスはすでに生沢が2分49秒3、砂子が2分50秒0という限界タイムを出していた。904は余裕を残して2分50秒6。クラッシュの状態から904のレース出場は無理と誰もが思った。スカイラインの圧勝は間違いなし、と。
しかし、1964年5月2日朝、GT-Ⅱレース決勝の直前904は再び鈴鹿にその姿を現した。名古屋での2日2晩の修理を終え、帰って来たのだ。スタート4分前に904がコースへ滑り込んだ時、場内は大きな拍手に包まれていた。結局、レースは不死鳥のように甦った904がスカイライン勢の執ような追撃を振り切って優勝するのだが、16周のレースの7周目、生沢のスカイラインがヘヤピンで904を抜くという“ドラマ”がおこる。生沢が8周目のスタンドに帰って来た時、観客は我を忘れて総立ちになっていた。周回遅れのクルマを抜くのに手間どった式場が生沢に追いつかれた形なのだが、この時「スカG神話」の第1話が誕生したのだ。
7周目の“ドラマ”には親友であった生沢と式場の間で事前に談合があったとか、904は実はトヨタが対スカイラインのためにお金を出して買わせたものだとか、後になって“ウワサ”が流れた。しかしこの件について式場は沈黙を守り通し、以来2度とレースに出場することはなかった。「お金はトヨタが多少は出したのでは…? 談合は、冗談で言い合ってただけ」という生沢の発言が“真相”だろう。いずれにしろ、この2人の2台のバトルこそ、ドライバーのスター性、マシンの格式からいっても日本のレースの幕開けといっても過言ではない。いみじくもこの年の8月、西ドイツGPでホンダのF1、RA271がデビュー。1964年という年を日本のモータースポーツ史上、忘れ難いものとしている…。
そして20年。鈴鹿にこのGT-Ⅱレースが再現された。前年ながら式場は来られなかったが、代わりに津々見友彦が904をドライブ。生沢のスカイラインGTに加え、MGB、ロータスエラン、フェアレディ1500などと激しいバトルをくり広げ、史実と同じく、今回も904が見事1位でフィニッシュしてみせた。
文:モータージャーナリスト・近藤健二
で、本日ご紹介のレコ
「MEMORIES of JAPAN GRAND PRIX '83」(1983)
LPの出だしはコニー・フランシスの『ヴァケイション』のインスト(“V-A-C-A-T-I-O-N”のところはボーカル入り)
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そこにレース音が被り、次のようなアナウンスが入ります
「1983年10月10日、鈴鹿サーキットに続々と懐かしい車が集まって来た。ちょうど20年前の5月、日本における最初の自動車レースの幕開けというべき第1回日本グランプリ自動車レース大会がここ鈴鹿サーキットで行われたのだ。あれから20年も歳をとってしまったドライバーやレーシングマシンがもう一度、同じ場所で同じように熱い戦いを再現しようと自動車レースのお祭りが開かれた。40を過ぎた中年の男たちも今日ばかりは若者のようにはしゃぎまわっている。」
A面最後には、生沢徹へのインタビューが収録されており、次のような声を聞くことができます
“ツーリングカーと今でいうF2が一緒に走るようなもんだからさ(中略)「一回くらいは抜かせろよ」と言ったような記憶もおぼろげにあるような、ないような…”
Youtube 「MEMORIES of JAPAN GRAND PRIX 日本グランプリ20周年記念 HISTORIC CAR FESTIVAL '83 SUZUKA」A3 '64第2回日本グランプリ“生沢徹、あの日を語る”(インタビュア:渡辺靖彰)
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そしてB面最後には、40年ぶりにカーチス号で走った76才の本田宗一郎の肉声が収められてます
Youtube 「MEMORIES of JAPAN GRAND PRIX 日本グランプリ20周年記念 HISTORIC CAR FESTIVAL '83 SUZUKA」B2 本田宗一郎、40年振りにカーチス号で走る
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裏ジャケのこの写真がカーチス号ですね
で、ジャケのクルマは・・・
1964年の第2回日本グランプリで、式場壮吉が乗るポルシェ904(カレラGTS)と生沢徹のプリンス・スカイライン2000GT(S54)とのデッドヒートシーン・・・
を「日本グランプリ20周年記念 HISTORIC CAR FESTIVAL '83 SUZUKA」で再現したもので、
左がポルシェ・カレラ904GTS
右が日産プリンス・スカイライン2000GT-B
スカイライン1500(S50型)のフロント部を約200mm延長し、グロリアの2L直列6気筒エンジンを押し込んだホモロゲーションモデル
第2回日本グランプリ(1964)のGT-Ⅱレースは、ポルシェ904が優勝でしたが、スカイラインGTが2〜6位で、レース後、スカイライン人気が沸騰
販売用ホモロゲモデルは即売、そしてカタログモデルとなり、“羊の皮を着た狼”という言葉も生まれました
ニッサン プリンス スカイライン 2000GT-B S54型 1967
1966年8月にはプリンス自工と日産自動車が合併しますが、1968年までスカイラインの車名に“プリンス”が残ります
第2回日本グランプリ後、プリンス自工は打倒ポルシェを目標に、桜井眞一郎を中心に純レーシングカーR380の開発に取り掛かります
第3回日本グランプリ(1966)でR380A-Iが優勝(プリンスと日産の合併で車名は「ニッサンR380」に)
そして市販車「ニッサン プリンス スカイライン 2000GT」は「GT-R」(1969)へと繋がっていきます・・・
Youtube スカイライン伝説の始まり
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スカイライン人気が復活することはあるのでしょうか・・・
ガンバレ日産!
【登場車両】
Porsche Carrera GTS(Porsche 904) 1964
日産プリンス・スカイライン2000GT-B 1964
【自己採点】
クルマ度 8点(日本のレースの幕開けを演じた2台!)
魅惑度 7点(歴史的シーンの再現)
音楽度 3点(冒頭のBGM『VACATION』が40を過ぎた中年の男たちのお祭りを表現?!)