
1週間早い目に盆休みをとり、長野県に1泊2日のドライブに行って来ました。
なかなかお出かけブログを書きずらい状況ですが、3密を避け、マスク着用を忘れずに楽しんできました。
まず、訪れたのが「上田城跡(うえだじょうせき)公園」(長野県上田市)です。
自宅から、高速で約3時間でした。
上田城は、真田昌幸が築いた城で、2度、徳川の大軍を退けたという実戦経験をもつ城です(全国に他に例がないそう)。
しかし、関ケ原の合戦後、城は取り壊され、真田氏は松代に移封されます。
「西櫓(にしやぐら)」下の急斜面から攻城です(近道~)。
「西櫓」(長野県宝)の隣にあるのが「眞田神社」です。
本丸唯一の井戸「眞田井戸」には抜け道があり、外に通じていたという伝説があるそうです。
「南櫓」、「東虎口櫓門(ひがしこぐちやぐらもん)」、「北櫓」に上がりました。
当時、城の南には千曲川が流れ、「尼ヶ淵」と呼ばれる天然の堀となっていたとのこと。
「南櫓」と「北櫓」は、明治になり廃城となった後、移築され、遊郭として利用されていたんだそうです。
その後、上田市民の熱意により買い戻され、本丸に再移築され、1994年には「東虎口櫓門」が復元され、かつての城門の姿がよみがえっています。
東虎口櫓門の前にある「真田石」。

真田信之が松代移封の際に運び出そうとしたが、あきらめたそうです。
本丸を囲む土塁の北東は、「鬼門除け」の「隅おとし」とよばれる切り込みがあります。
二の丸跡にある「上田市立博物館」と「別館」を見学しました。
博物館のVRシアターがなかなかの出来でした。(博物館、櫓門の共通券 \500)
次に向かったのは、真田氏が上田城から移った「松代城(まつしろじょう)跡」(長野市)です。
武田氏築城の代表的な城の一つである松代城は「川中島の戦い」の舞台ともなり、元々は「海津城(かいづじょう)」と呼ばれました。
太鼓門や櫓門が復元されていました。
【太鼓門】
【櫓門】
次に訪れたのは、「松代象山地下壕(まつしろぞうざんちかごう)」(長野市)です。
太平洋戦争末期、極秘のうちに、ここ長野松代へ皇居、大本営などを移転するため山中に掘られた地下坑道跡です。
ここ象山などに、碁盤の目のように掘りぬかれました。
昼夜問わずの突貫工事で、10km余り堀抜かれ、全工程の約8割が完成した時点で、使われることなく、終戦を迎えます。
戦後、忘れ去られようとしていましたが、平成元年から貴重な戦争遺跡として、約500mの区間が公開(無料)されています。
ヘルメット着用です。
半分くらい行って戻りました。
いやあ、こんな事実知りませんでした・・・。
1日目、最後に訪れたのは、国宝「松本城」(松本市)です。
係の方が「例年に比べ、10分の1ぐらいかなあ」と話してました。
観覧料 \700を納め、攻城です。
【黒門(一の門】
五重六階の大天守をもつ、現存12天守の中では唯一の平城です。
小笠原忠真(おがさわらただざね)? がお出迎え~
マスクをつけ、前の人と距離を置いての入城です。
すれ違う場所にはビニルが設置されていました。
【武者走り】
天守1階には、母屋(もや)より約45cm低い位置に「武者走り」があります。
階段は急で、係の方の指示に従って上ります。
【隠し階】
二重目の屋根の下に隠れた階です。普段は倉庫、有事の際には武者溜りとして使われたと考えられています。
【花頭窓】
泰平の世になって増設された辰巳附櫓(たつみつけやぐら)には、花頭窓があります。

本来は「火灯窓」ですが、火を嫌ってこう書くそうです。
【月見櫓】
辰巳附櫓と月見櫓は、徳川家光が善光寺参詣の途中、松本に立ち寄るということで、当時の藩主、松平直政が急きょ建てたものだそうです。
泰平な世の建造物なので、三方を朱色の「刎ね勾欄(はねこうらん)」が巡り、薄い板戸の舞良戸(まいらど)があるだけです。
登久姫(とくひめ)と小笠原秀政がお見送りしてくれました。
徳川信康(徳川家康の長男)と徳姫(織田信長の長女)の長女で、 松本城三代城主(小笠原氏初代城主)・小笠原秀政の正室(妻)です。
登久姫の髪型は、5重天守をイメージした5段“姫カット”だそう(笑)
左はだれかな~ 松平信康かな~・・・?
松本城は平城のため、市内には様々な遺構があるようでしたが、結構な暑さであきらめました。
すぐお隣の「国宝 旧開智学校校舎」もあきらめました(後悔~)。
マスクで暑さ倍増~~の1日目でしたが、オープンで1日走れました。
宿泊地は浅間温泉です。
ここでもコロナ対策が徹底されていました。利用客も少なかったようです。
夕食も、助手席の御方と横並びでした。(笑)
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
2日目に続きます。
Posted at 2020/08/11 12:44:32 | |
コペン | 日記